孤独を飼い慣らす
「“ひとり”を好み、“独り”を怖がる若者たち」
高3の秋、AO入試の一次試験用に書いた小論文のテーマだ。携帯が当たり前のものになり、そこで起きるコミュニケーションの変化について、携帯を持っていない高校生として書いたものだった。
高3当時、携帯を持っていない人はかなりの少数派だった。そのことが関係しているのかどうかはさておき、二次試験の面接で教授たちに「小論文がおもしろかった」と言ってもらえたことは、今のわたしにつながる出来事のひとつだ。
“誰かと簡単につながれる”ことは、人から孤独への耐久性を奪っていったのではないかと思っている。
対面では吐露しにくい内面も、活字でのコミニュケーションであれば伝えやすい人は一定数いる。己の内に秘めて飼い慣らせたはずの孤独を持て余している、そんな人が増えたのではないだろうか。
そんなことを思うのは、わたしがそんな人間のひとりだからだ。
誰かに“心の真ん中”を明かすことが苦手だ。明け透けに話しているように見えて、本当のところは頑なに明かせない。そんな風に過ごしてきた。
“考えている”ことは伝えられても、“感じている”ことは言えない。そこにあるわたしの心は、きっと一番弱くてやわらかいから。自分でも扱い方がよくわからずに、ふだんは触れずにいるような、そんな部分だ。
昔、そんな“真ん中”に近い部分を少し明かせた相手がいた。わたしは一気にバランスを崩した。気持ちを押し付けられる図太さがなかったから良かったものの、あの頃のわたしは、その相手に依存していたのだと思っている。
「これまでだったらひとりで耐えられたはずなのに、耐えることが苦しくなってしまった」
あの頃の日記には、そんな一文が書き残されている。
飼い慣らせていたはずの“心の真ん中”は、誰かに開くと同時に肥大化し、それまでのサイズではなくなってしまったのだろう。
「さみしい」「苦しい」「死にたい」
それまでも自覚していたこれらの感情が、内側から噴き出した。さすがに相手にぶつけることもできなくて、当時のわたしは必死に噴き出した感情を抑え、飲み込んだ。
対面コミュニケーションだけを続けていれば、きっとあのときの相手にもそこまでの開示はできなかっただろう。
リミッターが外せてしまったのは、メールのやりとりを始めたからだった。パソコンメールで、一通書くのに1時間以上かかるような馬鹿みたいな長さのメールを、あの頃のわたしたちは、まるで交換日記のように交わしていた。
感情を抑えたトーンで文章を書いてしまうのは、内側に巣食う“心の真ん中”を暴れさせたくないからだ。孤独を飼い慣らさなくてはいけないからだ。
誰かと話をするときも、感情面をさらけ出すことは苦手だ。内側からぐっと突き上がってきて、すぐに目の裏が熱くなってしまう。……現に、先日は長男の個人面談で、担任の先生を目の前にうっかり泣きかけてしまった。なんて情けない親なのだろう。
涼しい素振りをしている方が、きっと平穏に過ごせるのだろう。そのことをわかっているから、“心の真ん中”はそのまま留めおく。それなのに、一度肥大化してしまったために、暴れ始めると手に負えない。落ち着きを取り戻すまで、ひたすら耐えることで精一杯になる。
ほかの人たちは一体、どうやって暴れる感情に耐えているのだろう。どうやって孤独を飼い慣らしているんだろう。どうすればもう少しうまく飼い慣らせるようになるんだろう。そんなことを思う。
思い切り「悲しい」「寂しい」と泣くことが苦手な子どもだった。心的ダメージは体の不調として現れたけれど、それはほかの手段で出せなかったせいかもしれない。
ひとりが好きだ。独りも嫌いではない。だけど、わたしはまだまだ孤独を飼い慣らせない。
ハードルを下げてリミッターを外してしまうと、きっと泣いてしまうから、わたしはまだ壁を破れない。自分の感受性を制御するためにも、破ってはいけないと思っている。この壁をぶち破れたら、きっと今とは違うものが書けるのだろうとも思っているのだけれど。
あなたは、孤独を飼い慣らせているのでしょうか。それは、どうやって?
暴れ始めた心が落ち着くのを待ち、書くことしかできないわたしは、こうして今日もnoteを書く。
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