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好きな人の「嫌い」とわたしの感情

小学生のころ、Tちゃんという子がいた。なかなか個性的な子で、気が強くて、損してしまう言動を繰り返す子だった。わたしはなぜだか彼女に好かれていたらしく、何となく一緒に動くことが多かった。

あるとき、別の子に「若菜ちゃん、Tちゃんとよく仲良くできるな」と話しかけられる。「エラそうやん」「すぐ先生にチクるしさあ」。その後続いた理由をまとめると、要するに「Tちゃんのことがあんまり好きじゃない」という内容だった。

「そうなん?」と返し、「別にそんなことないけどな」と続けた。「えー、そうなん?」彼女は納得いかないような不満げな顔をしていた。

その後、なぜだかわたしは彼女とそのグループの子たちにとって「いい子ちゃん」ということになる。「みんなが好ましく思っていないTちゃん」を「好きでも嫌いでもないわたし」は、いい子ぶっていることになったらしかった。(実際に特別好きでもなければ、でも決して嫌いではなかった)

この「みんな」だって、決して本当に「みんな」ではなかっただろう。確かに悪い意味で目立っていたTちゃんは、クラスの子たちから白い目で見られたり文句を言われたりしてはいたけれど、だからといって、みんなに嫌われてはいなかったと思う。

陰口を叩かれていたことはあったけれど、それは別にTちゃんだけがやり玉にあげられていたわけでもない。あからさまなイジメも知る限りではなかった。


「仲良しさん」でいるためには、同じものや人を好きでなければいけない。そんな雰囲気は前からあったけれど、嫌いまで同じでなければいけないのか、と思った。

誰かの嫌いなものをわたしが好きなことは、その誰かを否定することとイコールしない。それに、偽善ともイコールしない。誰かに対する好意と、その誰かが嫌いな人への好意。ふたつのわたしの好意は両立するのだ。

それなのに、自分の「嫌い」を否定されると、自分への好意がない、少ないと思う人はままいる。きっと、小学生時代の彼女もそうだったのだろう。わたしは、Tちゃんのことも彼女のことも友達だと思っていたのになあ。


大人になった今でも、「あの人って……」とネガティブな印象が話題にのぼったときに、「そうは思わない」と自分の立ち位置を明らかにすると、一気に外側に放り出されることがある。だからといって、下手に「同意した」と思われてしまう可能性のあるリアクションもできないから、一気に居心地が悪くなる。


あなたへの「好き」と、あの子への「好き」は別物だ。あなたが嫌いなあの子をわたしが好いていることは、あなたには関係のないことだ。それであなたが不安になることも、気分を害する必要もないことだ。

「仲良し」は、好き嫌いをまるっと共有しなければいけない関係性ではないよ。


#エッセイ #コラム #雑記 #考えていること #人間関係 #わたしのこと

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