見出し画像

あの日の夏と、今日のわたしと

朝の空気が涼しくて、「あー、空気が変わったなあ」と思う。「秋になった」「秋がきた」というツイートが流れてくるけれど、外気温は25度。夏日。……夏のようです、まだ。

子どもの頃の夏休みは、「涼しい午前中のうちに宿題をやって、午後からは遊んだりピアノの練習したり自由研究など手間がかかる宿題をしたり」と過ごしていた。それでも真昼には「あづいー」とだれていたりもしたのだけれど、クーラーがなくても過ごせる日もあったよなあと思う。

夕方になって突然雲がどこからともなく増えてきて、蝉の声が止む。打ちつける雨。光が再びさし始める頃には、すっかり空気が入れ替わる。夕立後の湿気を含んだ空気が好きだった。

過去形で書いたのは、大人になってから、こうした夕立がないなあと思うからだ。あるとしたらゲリラ豪雨。それも、今年はわたしが住んでいる場所に限ってはない。雨、どこ行ったの。

ムシムシとはしていたけれど、夜はそれでも少し涼しく、1時間程度クーラーをつけて、部屋に昼間こもった熱を冷ましさえすれば、あとは網戸で夜風を感じながら寝られていた。窓の外から聞こえてくるウシガエルだかガマガエルだかの声が虫の音に変わることで、あの当時のわたしは季節の変化を感じていたのだと思う。

今日は、そんな昔の夏のような気候だ。

巷では「平成最後の夏」だなんていわれているけれど、平成に育っただけで生まれたわけではないこともあり、特に感傷はない。でも、あえて「夏」に「平成最後の」をつけたのは、夏はコントラストの差が大きいからなのだろうなあ、なんて思う。

昼間と喧騒と、夜の静けさ。夏祭りや花火の賑やかさと、祭りのあとの寂しさ。暑さと涼しさ……みたいに。

両者が離れていればいるほど、互いの輪郭がくっきり浮かび上がる。輪郭が見えていればいるほど、強く記憶に刻まれる。「最後の」がどことなく似合う。そんな気がする。

平成に限らず、季節に「最後の」をつけるときだって、「夏」が多いように思う。生命力に満ち溢れる季節だからこそ、そこに込められる感情も強いから、なのかもしれない。生命の躍動感と、移り変わる秋に向かって死を思ってしまうこととのギャップというか。(実際に秋に向けて死ぬ虫は多いし)

かくいうわたしは、あえて「エモさ」を際立たせる言葉にムズムズしてしまうので、「最後の」は意識していない。なんていうか、「青春だよね!」みたいなノリが昔から苦手なのだ。

ただぼんやりと、あの頃の夏と同じように、季節が過ぎるのを眺めている。昔より、随分と早く過ぎ去るようになったなあ。

#エッセイ #コラム #雑記 #日記 #わたしのこと #夏


お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。