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感動と甲子園と24時間テレビ

甲子園が終わったらしい。「らしい」というのは、実際には見られていないからだ。テレビをほとんど見ていないため、主にラジオで情報を得ていた。

得ようとしていたというよりも、ふだん聴いているラジオで話題になっていたから、が正しい。

野球好きらしいパーソナリティがもうひとりのパーソナリティ(無知)に説明しているのを聴いたのだけれど、熱量が伝わりつつわかりやすい説明だったなあ。ああいう、「好き」を伝えながら初心者を置いてきぼりにしない説明ができる人が好きだ。(同じく細かいことはわからない人間なので)

甲子園は、公立高校 対 私立強豪校になったとかで盛り上がっていた。「マンガのようだ」「映画のようだ」と盛り上がるツイートが、わたしのTLにもじゃんじゃん流れていて、大阪桐蔭しかわからないわたしも、「ほう」と思っていた。

無知なわたしは、「公立」「地元出身者中心」のキーワードでマンガ「おおきく振りかぶって」をイメージし、「農業高校」というキーワードで「銀の匙」をイメージしていた。はい、マンガ馬鹿ですね。(どちらもおもしろいよ)


……と、別に甲子園や野球について語りたかったわけではない。

過熱する雰囲気を感じながら、妙に私立強豪をヒールにしたがっている人?流れ?があるなあと思っていた。まあ、マンガならラスボスだ。そんなツイートも見たし、わからなくはないけれど。(ラジオでも、決勝前にそんなことを言っている人がいた。「そうなりそうですよね」という立ち位置で)

ただ、盛り上がるなかでSNS上で出回っている情報にはガセも混じっていたらしい。それが本当なら、「そうまでして主役VSラスボスの図式を作らなくても」と思う。

人間は、なのか、日本人は、なのかはわからないけれど、わたしたちの多くは「感動する」ことが好きだ。でも、その「感動」は、あくまでも事実に即したものに対して、どうしようもなく心動かされるときにのみ感じるものではないのかなあ、と思う。

「ほら、こういうのって、感動するでしょう?」とメディアが仕立て上げた感動ストーリーに拒否反応を示す人はいるものだ。……それでも「感動」は人気だから、やれ「感動秘話」だとか「舞台の裏側」だとか、あの手この手で感動ものは作られ続けているのだけれど。

スポーツでは、選手の「これまで」として、生い立ちをはじめとしたバックボーンが語られるのをよく見る。感動に至るまでには、「これを知っていたらより感動できる」というストーリーがあることはわかるから、全部を否定はしない。けれども、これも語り手が「ほら、ほら、これ、感動するでしょう?」と一方的に強く来るようなものだと、「そこはメインじゃないよね?」と思ってしまう。

わたしは、綿密に計算された「感動」には心を動かされない。気づいてしまうと、少し心が冷めてしまう。グイグイ来られると距離を置きたくなるのと同じだろう。押し売りは、苦手だ。

これが例えば、友人が本当に感動したという場合に、「ねえ、知ってる?めっちゃ感動したんだよ……!」と言ってくるのとでは、また話が変わるのだけれど。これは、感動させようとしているのではなく、感情を伝えたい、共感してもらえたらうれしいというスタンスだから。


もうすぐ夏が終わる。24時間テレビって、夏の終わりにやるのではなかったっけ。これも、よく否定的な意見を目にするもののひとつだ。

まともに見たことがないため、事実とは異なるかもしれないけれど、これだって「美談に仕立てあげた」ことへの拒否反応があるのではないのかなあ、と思っている。

社会的に弱者とされる人たちが何かに挑戦すること自体は良いことだし、挑戦したい後押しを番組がしているのなら、別にそれは悪いことではない。でも、例えば過去を美しく綺麗に飾り立てて、「ほら、感動するでしょう?」というように誘導してはいないかなあ、と思うのだ。

特に、この手のことに関しては、わたし自身だって気をつけなければならないと思う。困っている人の力になるために何かをしたいという気持ちは、責められるものでも悪いものでもない。

けれども、やり方や姿勢に気をつけなければ、作り手の自己満足のためのものや、外野が「感動」を楽しむためだけのものになってしまう。当事者が「ネタ」になってしまう。

わたしは「書く」「伝える」が仕事だけれど、一歩間違うと、それこそ「感動させるためのもの」を作り上げることになってしまう。それは、果たして当事者の本意だろうか。

事実を丁寧に掬い上げて、その結果受け手が「感動した」となるのであればいい。しかし、発する方が「こういう風に脚色すれば感動するよね」といった姿勢で作られたもので与えられる感動は、なんだか薄っぺらなものに思える。そうしたものを書きたくないなあ、と思うのだ。

もちろん、書き手として抱いた感動をうまく伝えるために言葉を駆使するのはありだ。というか、それが仕事なのだけれど。「作る」のと書き方を「工夫する」のとは、全然別物だと思う。


甲子園にしろ、オリンピックにしろ、何かしらの事件にしろ、誰かの人生にしろ。「感動」が溢れている社会だけれど、誰かが「こっちに誘導しよう」という意図で作られたストーリーに、安易にハマりたくはないなあ。積み重ねられた事実にこそ、どうしても心が動かされてしまうものであって、だからこそ、人間はおもしろいなあと思えるのだから。


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