消費されるニュースたち
話題の移り変わりが濁流のようだ。
少し前まではTOKIOの山口だらけで、追ってアメフト、突如5歳の子の虐待事件が持ち上げられたかと思うと、新幹線の殺傷事件が起きて、今日は米朝首脳会談で大きな動きがあった。そのうちW杯一色気味になるのだろう。(たぶん)
基本的には、悪いニュースがバーンと報道され、その話題で持ちきりになったところに、また新たな事件がバーン!と起こり、前の出来事は嘘みたいに存在感を薄める。その繰り返しだ。
かくいうわたしも、事件としては憶えているけれど、新潟の小学生の子の事件がどの時期だったのか、すでにパッと思い出せない。
情報や出来事が溢れ返るなかで、わたしたちは生きている。立ち止まっている暇はないとばかりに突き進んでいくけれど、ただ、すべてを即座に過去に追いやってしまうのは、なんだか怖い。
ニュースが、ただの消費物になってしまうように思えるのだ。そのときだけさらっと思考して、はい次、みたいな。
椀子そばや回転寿司を、味わうことなく胃に押し流している気持ちになってしまう。それで、果たしていいのか?とも。
ただのひとりの人間であるわたしが考えてみたところで、社会が変わるわけではない。ほとんどのことは、何にも変えられない。でも、「考えたところで何も変わらない」は、「だから意味がない」には、ならない。少なくとも、わたしにとっては。
四六時中考え続けなくてもいいけれど、頭の片隅には置いておく。そして、ほんの隙間時間に、答えの出ない問答を自分の中で繰り返す。それは、わたしにとって無駄ではないし、もしかしたら社会にとっても無駄ではなくなる日がくるかもしれない。たぶん。きっと。
……まあ、実際のところ、別に世の中を変えてやろうとまでは思っていない。でも、そうやってひとりひとりがニュースや社会的な話題を自分なりに咀嚼して飲み込み続ければ、良くも悪くも変わっていける部分はあるのではないかなあと思うのだ。
スピード感があるのはいいことだ。けれども、時に足を緩めたり立ち止まったりして、自分なりに考えをまとめてみることだって、同じくらい大切なことだと思う。
自分の中で「これは」と思う話題のものだけでも、考える力と時間を割き続けたい。
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