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帰属恐怖症人間、オンラインサロンに入る

どこかに属するのが苦手だ。どこにも居場所がなければないで不安になるくせに、じゃあどこかに属していたいのかといわれると、答えはNO。どこかに属することは自分に首輪をつけることではないと思っているのに、どこか逃げ場のなさと不快感、違和感……いや、不安感があるのだと思う。

学生時代から積極的に仲良しグループを作ったり属しに行ったりするタイプではなかったけれど、年頃の女子は何やかんや緩くも固くもグループに分かれていく。高校一年生の頃のわたしのクラスもそうで、わたしはたまたま最初に仲良くなった子が仲良くなった子とつるんでいく……といった流れで、何となく5人グループの一員になっていた。

ああダメだ、と思ったのは、彼女たちが他人を上から目線で見て小馬鹿にして笑う……といったノリを楽しみ始めた頃だった。相手はクラブの先輩などで、異なるクラブに入っていたわたしにはそもそも笑い者にされている相手の顔すら知らなかったのだけれど、とにかく場の雰囲気が気持ち悪く、居心地が悪かった。そして、何となく距離を置き始め、“グループ”から抜けた。

そのあとは、どこか特定のグループに属するわけではなく、積極的にふらふらするようになった。それが幸いしたのか、彼女たち個人個人との関係も大きくは変わらなかった。もしかしたら、内心不快に思っていた子もいたのかもしれないけれど。

何人か人が集まると、その場の雰囲気が何となく生まれる。雰囲気は場の中心人物が作る場合もあるし、集まる人の化学変化で生まれることもある。出入り自由な立ち位置でいられれば、たとえ少ししっくりこない雰囲気だとしても、あまりメンタルに影響はない。しかし、“属した”途端に居心地の悪さを感じてしまう。無理をして合わせているつもりはなくても、小さな一つひとつの違和感が、するするとゆっくり首を絞めていくような感覚。

その違和感を口にしていいのかどうかの判断は難しく、たいていの場合は言わない方がいいとジャッジする。絶妙なバランスで成り立っている(のかもしれない)場の雰囲気は、ささいな一言で壊れてしまうかもしれないものだからだ。そして、現状の雰囲気を心地いいと思っている人がいるかもしれないと思うと、なおさら身動きが取れなくなる。

違和感を抱いているのはわたしひとりだけかもしれず、だったらわたしが耐えるか離れるかを選べばいい。「みんなもそう思ってるよね」と共感者を得ようと動くことは、どこか陰口に似た行為に思えてできなかった。だから、いつもわたしは属しきれない。繰り返すようだが、属したい、と思っているわけでもないのだけれど。

一人ひとりに対しては悪感情を抱いてはいないし、何なら好意を抱いてすらいるにも関わらず、「〇〇に属している人たち」になった途端、近づきすぎたらダメだぞ、という気持ちになることが多い。特に「わたしはここに属する人なんです」と表明している人に、そういった怖さを感じてしまう。

仲間意識って、本来は良いもののはずなのにな。わたしは、その仲間の繋がりが強く見えれば見えるほど、逃げ出したくなってしまうのだ。別にそのなかの誰かが苦手であったり嫌いだったりするわけではなくとも。

だからといって、大人数で会うのが苦手、というのも違う。一体この気持ちは何なのかと考えていたところ、行き着いたのは共感レベルの深度だった。

単純に大人数で集まるとき、集まっている人たちと共通しているであろうと思われる価値観は、表層部分に限りなく近い。浅ければ浅い分、ズレが決定的な違和感には繋がりづらく、特に問題なくその場で過ごせる。

しかし、これが特定のグループや場になると、同調することこそが正しいことだという意識が暗黙の了解のうちに生まれることが多々ある。わたしたちは「わかり合えているはず」で、だから「同じように感じ考え、誰かや何かを同じように好いて嫌うだろう」、という思い込み。結果、ひとりに悪感情を抱かれたら、それが知らぬうちに共有され共通認識にされていた、なんてことも起こりうる。

Aさん、Bさん、Cさんが、個人の判断でわたしを見てくれなくなることが過去に何度かあった。保身から、誰かの判断に寄せて好き嫌いを決めてしまう人たちだったのだろう。相手の気持ちの変化に何かの拍子に気づいてしまうが最後、その人たちがいる場はわたしにとって不安を生むものでしかなくなってしまう。

小さな不安の種が生まれた途端、場の空気を過度に読み取ろうとするわたしのくせも、不安を増幅させる原因のひとつなのだと思う。そして、熱量が高ければ高いほど、ネガティブに振り向けられたときの負の熱量が大きくなるのだと知っていることも。雰囲気を作るのは熱量だ。醸し出される熱量が高ければ高いほど、そしてその熱を口に出す人が多ければ多いほど、ふいに負に転じたときの恐怖感につながってしまうのかもしれない。熱烈な好意は、激烈な憎悪に裏返ることがあるから。

グループや場であっても、安心して個でいられるならば不安感は抱かない。個として各々が自由に相手との距離感や深度、熱量の調整ができるのであれば、特に問題はないのだ。

わたしがどこまでいっても個であるのと同じように、属している人もいない人も、本来最後は個だ。個と個で関われる相手は、一匹狼であろうがなかろうが、安心感をもたらしてくれる。個よりも「ここにいるわたし」という意識が強い人は、どこか少し怖い。

……ああ、そうか。わたしは場の空気に合わせて傍観者を決め込めんだり、立ち位置を大きく変えたりする人がとにかく怖いのだ。そうされて傷ついたことがあるから怖いのだ。グループの結束が強固であればあるほど、己の意思とは関係なく、枠に器用に合わせて自分のあり方を変える人がいるような気がしてしまう。そして、気を許したあとに突然負に転じられてしまう恐怖感に縛られているのだろう。

“グループ”という危うい土台のうえで成り立たせる関係性よりも、しっかりとした地面のうえで個人個人と関係性を築くほうが怖くない。わたしとあなたとの関係性は、わたしとあなたのものであって、他の誰かが介入してどうこうなるものではないし、どうこうされたくない。どこまでも個であれる人でならば、誰かに影響されて簡単に評価を捻じ曲げられる心配が少ない。だから、わたしはいつも「わたしとあなた」でいたいのかもしれない。

そんなどこかに属すことが苦手なわたしが、初めてオンラインサロンに入った。あんなにもオンラインサロンは帰属恐怖症な自分に不向きなものだと思っていたにも関わらず。入ったのは、Wasei Salonだ。募集の際に掲げられていた文章に惹かれたことに加え、サロンに入ったからといってとかく仲間意識を持たねばならないというわけではない、というあり方が背を押した。

正直、「属した」というよりも「出会いに行った」感覚のほうが強い。どこかに属したい欲ではなく、掲げられている価値観に共鳴した人と出会える確率の高さに惹かれた、といったほうが正しいというか。

人と出会い仲を深めることは、時に面倒くさい。また、腹の底の底まで見せなければ本当に親しくなれないとも思っていない。ふわっと気の合う友人も、腹の底を見せられる相手と同様に大切な存在だ。けれども、出会える希少性で考えると、思い考えていることを話せる相手のほうが少ないし、大人になればなるほど出会いづらくなっていくように思う。体裁を取り繕ったり本音と建前を使い分けたりするのが、みんな大なり小なりうまくなるから。

個々の価値観が否定されない安心感。そのなかで、新たないい出会いがあればいい。ふだんから自分がしている「会いたい人に会いに行く」のとあまり変わらない感覚だ。

昨夜はそのうちの六人で集まってビールを飲みながら話をしたのだけれど、想像以上に刺激的で楽しい時間だった。安心してさらけ出せる雰囲気がほぼ初対面同士であっても感じられたのは、掲げられた価値観に共鳴した人たちだという前提があるからなのだと思う。そうした場でなら、わたしはきっと、わたしでいられる。

帰属するのが苦手という思いには、場に依存すること、依存を期待されることを避けたい、という思いも潜んでいるのかもしれない。「ここなら安心だから、とにかく属していてね」を求めていない。ほしいのは、「個として安心して発言することが許される場」だ。まだまだこれからどうなるかわからないけれど、得がたい出会いがたくさんあればいいなと思う。

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