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【掌編小説】紫陽花

 薄紫色の花弁に涙を落とした、君を綺麗だと思った。


*  *  *


 彼女は元からよくこの小道を通っていたらしい。

 僕が初めて彼女を見たとき、彼女自身がそう言っていた。

 僕にではない。彼女の右隣を歩いていた男にだ。

 しとしとと降る雨の中、彼女はお日様のような笑顔を彼に向け、「お気に入りの道なの」、と言った。

「ほら、こういう細い道って、子どもの頃を思い出さない? ちょっとした冒険をしているみたいで、少しドキドキするの」

 そう言いながら、子どものように淡い桃色の傘をクルクルと回しながら、彼女は笑った。彼女は幸せそうだった。彼女の笑顔が、僕は好きだった。



「こういう、静かで優しい雨が好きなの。花弁が雨に光って宝石みたいで」

 薄紫に、薄桃色。小道に沿って咲き誇る紫陽花が雨に映える。

 僕にはその情景は彼女の言葉から想像するしかなかったのだけれど、その光景はとてもとても綺麗だった。

 その情景の真ん中には、彼女が。

「俺は、雨は嫌いだよ」

 彼女の半歩後ろを歩いてた彼が、ポツリと、それでいて鋭く放った一言が、雨の一滴のように、ポチャン、と水溜りに落ちた。

 水溜りは震えて。静かに、それでも確実に、波紋はゆっくりと広がっていった。



 僕が次に彼女を見たとき、彼女は雨降りでもないのに傘を深く深く差していた。

 まるで顔を隠すかのように。

 そうしてそのまま僕の真横まで歩いてくると彼女は、ふ、と歩みを止めた。

 身動き一つせず、そのままの状態で一体どれくらい経っただろう。彼女はこの小道に溶け込んでしまったかのように、静かに静かに佇んでいた。

 ――ぽつん。

 ふいに彼女の足元に水滴が落ちる音がして、僕は雨が降り出したかと空を仰いだ。

 木々の隙間から見上げる空は、今にも雨が降り出しそうな雰囲気だったけれど、今はまだ降ってはいない。

 ぽつん。ぽつん。

 それでも彼女の足元には雨粒が落ちる。
 湿り気味な土が、僅かながら色を変えた。
 微かに、彼女の差す傘が震えていた。


 ――ぽつ、

 体に水滴を感じ、僕が再び空を見上げると、今度こそ雨が降り注ぎ始めていた。

 彼女が好きだと言った、静かで優しい雨。

 周りの音をすべて包み込み、雨は静寂を僕たちにもたらした。

 聴こえるのは雨音。見えるのは色鮮やかな紫陽花。そして傘に顔を隠した彼女。感じるのは瑞々しい澄んだ空気。

 雨はしっとりと降り続いていた。

 僕がパチン、という音に反応して彼女を見やると、彼女は傘を閉じ、雨の中空を見上げて立っていた。

 その両目は閉じられ、彼女の顔には幾筋もの雨が伝って、その頬を濡らしていた。

 いつもの薄紅色の頬ではなく、白くなってしまった彼女の頬を。

 彼女は、やはり身じろぎ一つせず……、身じろぎ一つ、せず……?


 それは、僕の見間違い、だった。


 彼女は、泣いていた。

 その細い肩を、僅かに震わせて。声を押し殺して。

 泣いて、いた。

 雨が作った筋だと思った彼女の頬に流れるものは、閉じられた彼女の瞳から溢れた彼女の涙だった。

 空を見上げ、瞳を閉じ、彼女は、確かに泣いていた。


 そのままいくらか経ったあと、彼女は顔を下げ、僕のいる方を見やった。

 ガラス玉のような澄んだ瞳が、薄紫色の紫陽花を映す。

 彼女はゆっくりと紫陽花に近づくと、優しいような、悲しいような表情で微笑んだ。

「……可愛い」

 そう言うと、彼女は僕の薄茶色の体の上に、ぽつん、と涙を一粒落とした。


 それは綺麗で、すごくすごく温かいもので。今まで僕がこの体に受けていた雨とは全然、違うものだった。

 淋しそうに笑って涙を零した彼女は、本当に綺麗だった。


 たとえばここに咲き誇る、雨に映える紫陽花よりも。

 綺麗だと、心から、思った。



 雨が止んだ。

 彼女の涙も、また止んだ。

 すうう、っと心地よい風が木々の間から吹き抜けていく。瑞々しい空気が、僕たちの間に、満ちていく。

 まるで、世界が生まれ変わったみたいに。



 光が差したように感じて、僕は空を見上げる。

 彼女も僕から目を離し、空を見上げた。

「……わあ、綺麗」

 小さく彼女の口から感嘆の声が漏れる。

 うん、綺麗だ。

 僕はその彼女の台詞に同意するように、首を少し縮めて見せた。



 木々の隙間から見える空には、色鮮やかな虹が一つ、キラキラと輝いて架かっていた。

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