「またね」の残量
祖母が一気に老け込んだように見えた。
正月に会っているため、別に久しぶりに会ったわけではない。ここのところ体調不良や気力の低下があったらしいから、その影響なのかもしれない。意識しないとどんどん外に出なくなってしまうから、デイサービスに申し込んで無理やり出かけるようにしているのだと、祖母は話した。
あと、どれくらいの時間が残されているんだろう。
実家の親や祖母、母方の祖父母に会うたびに、いつもそう思ってしまう。
祖父母や親の前で、わたしは何者でもないわたしでいられる。家族ともそれなりにいろいろありはするのだけれど、肩の力を抜いていられる部分は、やはりある。がんばって大人でいなくてもいい存在というか。
わたしの場合は小学生からの友人数人もなのだけれど、良さも悪さも含めて自然体でいることを許してくれる実家家族の存在は、とてもありがたく貴重だ。
うまく言い表しにくいけれど、大人になってからの付き合いの人と、子ども時代から密に付き合い続けている家族や友人とは、心が受けるものが異なる。
どちらがいいというわけではなく、どちらの関係性も必要なのだけれど、一度失うと再び得にくいという意味で、子ども時代から関係性を築いてきた人との縁は、できるだけ失いたくないなあと思う。
ただ、時は流れる。
なすすべもなく、人は老いて、いつか死ぬ。
心が帰る場所を与えてくれていた人とも、いつかは別れるときがくる。当たり前で残酷な、あらためていう必要のない事実だ。
いつまで、「これまで」を続けられるんだろう。いつまで、「この時間」を過ごせるんだろう。そんなことを、帰省期間の終わり頃になると、毎回考えてしまう。
明日の晩、関東に戻る。
いつまで、「またね」が言えるのかな。わたしは少しでも孝行ができているだろうか。
家族が家族でいられる時間は、長いようで短い。それは実家家族も、今の家族も。
わたしは、大切な場所や時間を、大切にできているのかな。
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