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詩ことばの森⑧「琴の音」

 坂東三十三観音霊場を巡ったのは、今から二十年以上前のことです。
 その日は、ローカル線に長い時間ゆられて、小さな駅でおりました。駅前のバスは本数が少なく、次のバスが来るまでかなり時間があったことから、お寺まで歩いて行くことにしました。
 二時間ほどかけて、山の中腹にあるお寺に着きました。山門をくぐると、どこからか琴の音がきこえてきます。境内を清々しい風が軽やかに吹いているような美しい音色でした。
 御参りをすませてから、納経所に伺って声をかけると、琴の音がぴたりと止みました。それから明るい声で女性の方が出てこられ、御朱印を書いてくださいました。書いていただいたあと、お茶を勧めてくださいましたので、ありがたく頂戴しました。
 お寺の静寂さ、お茶の澄んだおいしさ、お接待のやさしさに、わたしはとても幸せな気持ちになることができました。長い距離を歩いてきた疲れもすっかり取れました。
 巡礼を通して、人と人との出会いの大切さや関わり方について、大切なことを教えられたように思います。
 丸一年かけての札所巡りでしたが、その時の経験は、今もわたしの心の宝ものです。

琴の音

山門には札所と書かれていた
だれもいない参道を歩く
どこからか琴の音いざなうように

風の流れるまま本堂へと歩く
南無観世音まします 補陀落浄土を願う
巡礼者たちの残影が白く霞む夏
過去と現在と未来をさまよう夏
遠い時間のうちに境内は静まり
わたしの願いも 白い夏の幻となる

ふりかえると そこに誰かがいた
そんな気がしたのも 琴の音のせいか
奥の院のある 裏山から流れる小川の
せせらぎといっしょになって
わたしの耳にやわらかな響き
悲しい声も 苦しい声も
怒りも 憎しみも
軽やかに流され やがて消えてゆく

さまよう心のままに
巡礼の道を わたしは歩きつづける
琴の音のひとに
書いていただいた御朱印を抱いて

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