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超低意識ドイツ移住記◆家族と故郷のこと1

私は岡山県南西部、さる片田舎の集落に生まれ育ちました。

父方の祖母、祖父、母、父、2歳違いの兄、私の6人家族です。私達家族は田舎ならではの、広大な畑と一体化した二世帯住宅に暮らしていました。祖父母が住んでいた、凄まじく古い、戦前だか戦後だかに建てられた、部屋数が多いだけが取り柄の家を我々家族は「母屋」と呼んでいました。両親と私達兄妹は毎日、母屋にある風呂に入り、母屋にある大きな、正座しないと座れない高さの机で、畳の上に正座して家族全員で食事をしました。

母屋には仏壇があり、神棚があり、床の間があり、広い土間がありました。土間にはおくどさんと呼ばれている、はるか昔に煮炊きに使っていたと思われる、薪を使って火をおこすかまどと、これまた薪をくべて水を温める風呂用の焚き口がありました。映画「となりのトトロ」でめいちゃんとさつきちゃん一家が使っているような、とても旧式のお風呂です。

私が中学2年のときに、私が原因不明の高熱を出して生死の境をさまよってから、薪で温める風呂は使用されなくなりました。39度を超える熱がなかなか下がらず、地元のかかりつけ医から大学病院に搬送されました。私は熱で意識が続かず、時々浮上した意識のなかでベッドの横に座る母に「お母さん、私死ぬんかなぁ」と言ってしまった記憶があります。なんと甘えた言葉だろうと今なら思います。廊下にいる母が、お見舞いに来た同僚の前で泣いていた声も覚えています。

しかし私は死にませんでした。こうしてのほほんと文章を書いています。

私が一命をとりとめた後、私の手足の皮が剥け始めたことから、病気の原因が井戸水に存在するバクテリアだか細菌なのでは、と医者から言われたそうです。うちには井戸があって、私が病気をする前までは、家で使われるすべての水はこの井戸水からのものを使っていました。私の病気の後、うちは井戸水の使用を完全に廃止しました。風呂も現代的なユニットバスにしましたし、飲み水のために上水道を引き直しました。

でもそれまでは、風呂を沸かすのは基本的に子供の仕事でしたので、私と兄はほんの子供の頃から火を扱って、どうすれば大きな火を起こし、手際よく風呂を沸かすことができるか、そのノウハウを教わっていました。

煮炊きに使うかまどに関しては、さすがに日常的に使われてはいませんでした。例外的に、年の瀬、我が家では自分の田んぼで採れたもち米を使って大量のもちを作るのですが、その時にだけ使われていました。しかし7歳くらいだった兄があまりにも張り切ってもち米をたくかまどの前に長時間座りっぱなしになり、火の粉で目を焼かれたのか、目が痛いと言いだして、兄の失明騒ぎで家の中が大騒ぎになってからは使われなくなりました。

私達兄妹と両親は「ヒヤ」と呼ばれていた比較的新しめの家で寝起きしていました。そこには台所もあったのですが、水を汲むこと以外に使われるのはまれでした。ヒヤは、私の両親が結婚した時に、新婚夫婦のためにと祖父母が作ってくれたそうです。

このように、戦後日本の亡霊が住むホーンテッドマンションとも言うべき隙間風の吹き込む旧い家に住み、超のつくど田舎に生まれ育った自分がどのようにしてドイツへ移住し、しかもそこで永住権まで取得したいと考えるようになったのか。

その根本的な理由や、「絶対に海外移住してやる」という執念を持つまでに、どのようなことがあったのかを説明すべきなのではないかと考えました。

海外での生活では、当たり前ではありますが、使用する言語が、常識が、生活習慣が、全く異なるのです。慣れない海外生活にストレスを感じるのは当然のことです。少なくとも、私は最初、なにをするにも不安と恐怖が先立って、自分の部屋から出るのにも時間を要しました。カギの開け方、窓の閉め方、ゴミの捨て方、買い物のしかた、ネット環境、暖房の入れ方、なにからなにまで日本の様式とちがうのです。私がなにかしたいと思って行動すると、いつもなにかがうまくいきません。なにか問題が起こるたび、誰かに助けてもらわなければ、なにもできませんでした。

私はドイツに到着した時すでに28才のいい大人でしたが、それはまるで5才の子どもにもどってしまったかのような体験でした。その情けなさと、ふがいなさ。毎日、毎秒、震えるような自分の根源的な無力を思い知らされたものです。

予想はできていたはずです。だって私が行こうとしていたのはヨーロッパの、私が全く触れたことのない言語を母国語とする、少しも馴染みのない外国だったのですから。そんな思いをしてまで、なぜ私がドイツに来たいと、そして移民になってでもこの地に残りたいと思ったのか。

それを誰かに理解してもらうには、私がどのような環境で、どのような思いを抱えて生きてきたかを知ってもらわなければ、「絶対にここに残る」という私の決意、後戻りのできなさ、崖っぷちで起死回生を狙い、死に物狂いで必死になる気持ちは伝わらないでしょう。

そして、その強い気持ちがなければ、私はとっくの昔に日本に帰っていたと思うのです。なぜなら、日本にいれば経験せずにすんだかもしれない悔しいこと、悲しいこと、屈辱的な無力感に打ちひしがれることは、腐るほどあったからです。

すこし長くなりそうなので、家族と故郷のことは分けて書こうと思います。noteでは、読みやすさを重視するために、2000字前後を目安に一つの記事を書こうかなと思っています。


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