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宛がない手紙



眠れない日が続くと誰かに話を聞いてほしくなるのに話し方も頼り方も分からない、話を聞いてくれそうな人を探すためにLINEの友だち欄を開くけど迷惑をかけたくなくてスマホを閉じた。そもそも、わたしはいまの自分について話すのが得意ではない。こういうとき、誰かがそばにいてくれたらちがうのかもしれないという漠然とした考えが浮かんで、いとこのお姉ちゃんのことを考える。このあいだいとこに会ったとき、「わたしにいま同棲してる彼氏がいなかったら、のあちゃんと一緒に暮らしてたよ」と言われて、ほんとうにそうなったら良かったのにと思った。わたしのあらゆる問題は、家族以外の誰かと暮らすことで少しは解決するような気がするし、わたしは、いとこのことが大好きだから。

9歳上のいとこは光と闇を、絶対的に闇の方を多く背負って生きていて、わたしによくごはんを食べさせてくれる。学生の頃はいわゆる不良で、学校を卒業した後もしばらくはふらふらしていた。わたしはそのときの話を聞くのがたのしくて好きだ。可愛くて人懐っこいからおとこのひとによく好かれて、でもいつも心がどこか遠くにあって、いまにも死にそう、ほんとうに消えそうでさみしい。「いますぐに痛みなく死ねるボタンがあったら、迷わず押すと思う。付き合ってる人がいてもいなくても、それは変わらない」。恋そのものは救済でもなんでもないんだよ、分かってたけど。分かってた、はずなんだけどね。



小さい頃、わたしをよく笑わせてくれていた人が少し前に若くして亡くなったという報せを聞いて、やっぱり神さまなんていないのかもしれないと思った。やさしい人ばかりが、誰かに必要とされたり愛されたりしている人ばかりが早くにいなくなって、そういう話を聞くたびに、自分の生きている意味が分からなくなる。自分にとってどれだけ大切な人が死んでもみんな普通に生きていて、時間が経てば悲しみも薄らいで元の生活に戻っていく、そうしないと生きていけないと言われた。そうしないと、生きて、いけない。



バスに乗ると、女子高生が窓に頭をもたせかけながら遠くを見ていた。夕方のまばゆい光の中でぼうっとしていて、肩までのきれいな黒髪がさらさらと揺れる姿が、とても神聖なものに見えた。自傷行為の痕がある同い年くらいの人を見かけると安心する、わたしだけじゃなくて、いろんな人が悩んでいると、目に見えて分かるから。お互いに知らない道を歩いて、その過程でいろんな感情が生まれて、交わったり交わらなかったり、悩みのベクトルはちがうかもしれないけど、やっぱりおんなじ人間なんだなと思う。


ほんとうに、いつもいつも、いつも、


小学3年生のときに好き同士だった子が、卒業式の前日、友だちと一緒にわたしの家までプレゼントを渡しに来てくれた。わたしのことをどのくらい好きでいてくれたのかは分からない、卒業するまでにたくさん話していたわけでも存在が大きかったわけでもないけど、しばらくそのことで頭がいっぱいだったくらいにはうれしくて、いまでも偶に、思い出す。その子は中学生で不良になって学校に来なくなったと聞いた。小学生のときもなんとなくそんな子だったから驚きはしなかったけど、けど。ひとりぼっちじゃないといいなと思う、元気だと、いいな。

わたしの周りには透明な人が多い、なんでだろうと考えて、わたしがそういう人間を好きになるからだと思い至る。その人たちは心を病んでしまっているはずなのに、わたしのことを気にかけてくれる。わたしは、ぼくは、おれは心配だと言ってくれる、いい人たち、だから、辛いんだろうな。人のいのちとか人生とかはその人のものだから、わたしがなにか言えるわけではないけど、死んだらいやだなと思う、わたしより先に、わたしが知らない世界に行かないでほしい。死後の世界のことをわたしに教えにきてくれるわけでもないから。



『人の苦しみは数値化ができないからこそ、自分の痛みを痛みとして受け止めながら周りの人の気持ちも理解できるようになればいいけど、今は逆に行ってる。「もっと大変な人、おんねんぞ」って、苦しむことすらできない人がつくられている』という又吉直樹の言葉を思い出す。こういう考えの人が増えてくれたら、心がひとりきりになっている人たちが今よりも息がしやすくなって、笑えるようになるんじゃないかなと思う、思って、そうなりますようにと祈る、祈ることしかできないから。


考えごとをするから眠れないのか、眠れないから考えごとをするのか。わたしは眠っている時間が一番好きなのに眠れないから悲しくて、外が青くなるにつれて軽く絶望する。20歳までのわたしがどうやって生きていたのか、なにを考えながら生きていたのかを思い出せない。もうすぐ22歳になるのに、ちっとも大人になった気がしない、しないしない、しないよ。小さい頃のわたしがいまのわたしを見たら、憧れの大人からはほど遠くてがっかりするだろうけど、いまのわたしは小さい頃のわたしを見てなにを思うだろうか。

仕方がないから、ベランダに出て外を眺める。まわりにある家のひとつひとつにそれぞれの生活や人生があることを考えると、自分の輪郭がぼやけてくる。静謐なまち、誰も歩いていないし車も走っていない、時間が止まってわたしだけが動けているような感覚、たのしい、たのしいたのしい、たのしい、のかな。


ずっと時間を止めたままではだめだ、進まないといけない、進まないと、どうにかしてどうにかして、歩いていこうとしなければ、




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