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頑丈な死にたさが揺らぐ小説

今日、
中村文則著『悪意の手記』
を読んだ。
小説の世界に夢中になりすぎて
ボロボロ泣きながら一気に読み進めた。
前回読んだ『流浪の月』に続いて、
めちゃくちゃ良かった。
今回もアタリ引いた。

新作をどんどんチェックするというよりは、
本との運命的な出会い
(これも何かの本で読んだような気がするが)
『出会うべき時に、読む本は現れる』
というロマンチックなものを、
今でもなんとなく信じたまま本屋に向かっている。

私の中でそれを確固たるものにしたのが、
中村文則の『何もかも憂鬱な夜に』
との出会いだった。

通信制高校(基本は通学のない高校だった)の、
たまにある対面授業の日。
自分以外の同世代が眩しくて、
健康的な生徒の気配が残る校舎も、
集まった生徒も、全てが嫉妬の対象であり
学生や、同世代や、それに関連するものを
見るのが苦痛だった私にとってはマジ地獄の時間だった。
(今思うと、嫉妬に値する他人の良い部分を瞬時に見つけられるというのは、なかなか良い習癖だと思う)

同じ条件の多い同世代が集まると、条件制御が発動し、嫌でも比較が始まるからそれがマジで無理だった。反吐。血反吐。
背筋を伸ばした状態で、(私は貴方の話を聞いていますよ感)を存分にアピールし、後ろを振り返ったり、伸びをすることすら許されない「授業」というものも苦手で、ドアが閉まっていると呼吸が浅くなる感じがした。換気を意識した空気感にはだいぶ救われた。

まあそういうたまの地獄日があったので、その日用の現実逃避グッズが必要だった。スマホも同じ性質だと思うが、スマホよりも強く、集中して現実逃避をしないといけない日なのだ。
当時、翌日の登校日に備えて、現実逃避用の本を買いに行った日があった。地獄の日の前日、わりと世の中を恨み始めている時間。

その日、
いつもの本屋の、いつもの棚に向かって歩いた。私は大文豪の梶井基次郎氏を崇拝しすぎて、不安になった時に著書の『檸檬』を買う、というルーティンがあるので、いつもの棚というのは、『檸檬』が置いてある棚のことである。その棚に向かい合って、この棚から1冊選ぼう!という適当な選び方で手に取ったのが、
『何もかも憂鬱な夜に』だった。
その時の私の心情とマッチし過ぎるタイトル。
帯には「又吉推薦」みたいなことも書いてあった。信頼〜。

翌日、
授業が始まる前から読み始めて、
お昼休みの辺りでもう読むのを辞めた。
これはここで読むべきじゃないと思ったから。
絶対に泣くと思ったし、注意散漫になる状況では読めないと思って、私は帰りに河川敷に寄って、河原の階段でそれを読んだ。
マジでビビるぐらい泣いた。不審者すぎた。

『何もかも憂鬱な夜に』は
誰でも1度は考える
「生きる意味」について、めちゃくちゃ真摯に向き合った小説。
夫婦2人を殺した、とある死刑囚の、死刑までの生きる意味(生きる喜び)について。誰ともうまく関われなかった死刑囚の、最後の、刑務官との出会いで考え始められる生きる意味。それを考え始めたからこその反省とか。

今でも、ちらっと好きな箇所を読むだけで全然泣く。
誰にも論破できない、私の頑丈な死にたさを揺らがすような作品で、近しい死生観を持っているのに、物語が地獄じゃなかったことがめちゃくちゃに革命だった。

引用↓


「現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方もない奇跡の連続は、いいか?全て、今のお前のためにだけあった、と考えていい」

『何もかも憂鬱な夜に』より


「ベートーヴェンも、バッハも知らない。シェークスピアを読んだこともなければ、カフカや安部公房の天才も知らない。ビル・エヴァンスのピアノも」
あの人は、タバコのパックを指で叩いた。
「黒澤明の映画も、フェリーニも観たことがない。京都の寺院も、ゴッホもピカソだってまだだろう」
彼はいつも、喋る時に僕の目を真っ直ぐに見た。
「お前は、まだ何も知らない。この世界に、どれだけ素晴らしいものがあるのかを。俺が言うものは、全部見ろ」

『何もかも憂鬱な夜に』より


これは2つとも、孤児院で育った刑務官(死刑囚と触れることになる人間)が、孤児院の施設長から言われたセリフ。マジ良。

躁鬱で、
何回も何回も繰り返して希望を打ち砕きにくる
終わりのない鬱の訪れに対して思うのは、
瞬間的な死にたさじゃなくて、
見通しの立てられた死にたさであるけど、
でも、
未来とか見通しとか置いといて、
「今この瞬間にも、
世の中には素晴らしい作品がある」
っていうのは
私の脳みそが鬱でそれを捉えることができなかったとしても、
死ぬことが勿体ないほどのことなんやと
読んだ時に感覚として思った。
これ日本語伝わってる?

当時の私は、何回も何回もこれを読んで、
(気に入った本を繰り返し読む習性あるのよ)
1回電車の中で読んで泣いた。
電車の中で読むの向いてなさすぎ。

ふらっと適当に選んだ小説が
ここまで私の価値観に影響を与えるなんて
全然思ってなくて
奇跡的な出会いだぜ〜とか思った。
今でも思ってる。

それからも中村文則の作品はちょくちょく読んだけど、今回読んだ
『悪意の手記』
も、めちゃくちゃすごかった。
自分の善悪の、
悪に包まれてるときの安心感とか、
自傷的な生活感覚の
めちゃくちゃな矛盾とか、
勝手に訪れる幸せと
それに対する否定の気持ちが共感の嵐。
死ぬ怖さから逃れるために、
現実世界を
(くだらない無意味な世界)と仮定して、
(くだらない無意味な世界)である証明を得るために、親友が溺れて死ぬ瞬間を、助けもせずに見つめ続けてしまった男の反省と自己凝視と、自傷的に進む人生を綴った手記形式の小説。
もっと言うと、
「自覚の無い無意識の生きたさ」
みたいなものも書かれてる。
もう読んでもらわないと
これはわからんと思うんやけど、
マジですごい。

私も、8月の終わりごろに
大人たちがSNSに「学校に行かなくてもいいよ」
っていうメッセージを載せることに
違和感(気持ち悪さ?)を感じていて、
でも、死にたいはずの学生たちは、
無意識にそのメッセージに触れていくんや
っていう、
よくわからん
人の脳が理解できる範疇を越えた流れ
みたいなのを感じたことがあって、
それが書かれてた。
私が、
『何もかも憂鬱な夜に』
と出会ったのも、
それなんじゃないかなみたいな。
何書いてるんかわからんけど。
なんでそれが書けるん?
凄すぎるんやけど。


小説読むと、1人じゃないな〜という感じがするよね。
同じ感覚の人がいるのか〜っていう。
世の中には作品が大量にあって、
まだ出会えていない、素晴らしいものがいっぱいある。

上で引用した、有名な作家たちの有名な作品群を素晴らしいから全部見ろってセリフも好きやけど、
それを言われた主人公が大人になってから、
その作品(本)が廃れていくことに対して

「でも、それで別にいいんじゃないかって思うんだよ。最近は」
「……なんで?」
恵子はそう言い、テーブルの上の本を見た。
「それが素晴らしいからだよ。これは、ちゃんと、素晴らしかったんだから。何も悪くないんだから。読む人は読むし、それでいいんじゃないかって」

『何もかも憂鬱な夜に』より


って言うシーンがある。
廃れていってもいい。
なぜなら、
その作品はちゃんと素晴らしかったから。
めっちゃ好きなセリフ。
沢山の人に気付かれていなくても、素晴らしい作品がいっぱいあって、せっかく生きてるなら、それに出会いたいなと思う。

で、出来ることなら私も何かを作って、
多数じゃなくていいから、
素晴らしいって思ってもらったりとか。
したかったりね。



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