死んでいく人たち


うちの花屋の佳境どき


水商売向けの花屋は今も続けている。自分が出来ないことに立ち向かうことは変わらない。
けど、恩着せがましくない程度の情で手助けしてもらってる。
かつてほど、生きることに苦しくはない。


父親が今夏、孤独死した。
借金を重ねて、身内から縁を切られた末。
葬儀は費用を最低にするために、お経も唱えず火葬場直行コース。墓じまいするとのこと。
父親の兄弟の喪主から連絡があったが、もちろん顔は出さない。
妹と死を祝って、面倒な死に方をしたことを恨んだ。
遺産放棄のために、まとまった額のお金を出さなきゃいけなくなった。

今も繋がりのある母は、自分の火葬費用と、自宅の後始末の業者への依頼、墓はいらない、骨が欲しければ、安く粗末なアルミ缶を用意してる、いらなければ、棄ててくれとのこと。

死なれるって面倒らしい。

自分が死ぬための準備を考えなきゃなと漠然と思った。
面倒にならないといいと願いながら。
わたしも結局、お経はいらないかな。
骨は燃え尽きても、溶けても、自然に還ってもいいけど、誰か人間の負担にならなきゃいい。

精神は、そこで潰えると思う。
循環も永劫もない、生まれ直しもない。
わたしの枠外の自然だけが続くのだろう。いや、枠内だから、わたしがいなくても続くのだろうか。

廃屋と肉体が同時に朽ちればいいのに。

自分が撮ったお気に入りの新潟のラブホの廃墟から