うぬぼれ配信映画夜話 第5回 清水崇『ホムンクルス』(2021) ー Jホラーにおける男性性について

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※原作との比較を始めるので、原作含めてネタバレ有り


 今回は清水崇の新作『ホムンクルス』になります。ここ数年のJホラーにおいて主題となっている「男性性」について話しながら、映画史に結びつけていきたいと思います。配信日に完全解説するぞ、位の気持ちで書いておりますので、観てから読んでみてくださいね。

作品の時代性とズレについて

 作品というものはそれ単独で存在する訳ではなく、時代や社会のその時々の考え方、或いは過去や同時代に存在する作品の影響関係の中でつくられる織物であると言われています。作品を考えるためには「作品それ自体を見ること」も当然大事ですが、同時に時代や他の作品との繋がりから捉える視点も重要です。作品は時代に縛られているのです。
 当然、時代が変われば作品の捉え方も変わってきますし、中には古くさいと感じるような部分も出てくる。最近だと、八木竜一、花房真『ドラゴンクエスト ユアストーリー』(2019)の前半部の描写が結構しんどかったですね…。男性が結婚相手を選ぶという展開と悪い意味で昔の少年漫画みたいなラブコメ描写に「うわ…」となってしまった。逆に、原作の主題を引き受けつつ、現代につなげて捉え直しをしている作品には唸らされるし、今映像化する意味を感じられる。原作付きの作品やリブートではこの時間のズレをどう解釈し、現在という時間をどう取り込むかが成功の鍵といえます。

90年代回帰とポリコレと

 山本英夫『ホムンクルス』の設定やキャラクターも、その点でいえば古い作品です。手術を受けた主人公が片目をつぶると、内面のゆがみに合わせた怪物に見える。その歪みを持った人々を主人公が「治療」していくというプロットは、内面や精神分析に依拠しているところが強く、90年代のサブカルチャー特有の閉塞感があります。しかも、そのプロファイルや人物描写には類型的なものが多い。特に女性に対する風刺には、今見ると品位を疑うようなものも含まれている。だから、近作で現代の社会問題を盛り込んできた清水崇と内藤瑛亮が組んだ本作が、前半部で原作をそのまま踏襲していることには正直驚きました。
 やくざのエピソードもトラウマを指摘すれば全てが解決するという展開に古臭さを感じますし、女子校生のエピソードはポリティカルコネクトの観点からいえば明らかにアウトでしょう。武正晴『全裸監督』(2019)や三宅唱『呪怨 呪いの家』(2020)以上の批判を受けるかもしれません。
 「女子高生は記号の集積で本当の生を生きていない」という捉え方自体が90年代的で、個人的には庵野秀明『ラブ&ポップ』(1998)が脳裏に浮かんでしまうのですが、「そういった認識自体が古くさいし、そもそもおっさん達の言う「現実」って薄っぺらじゃない?」と高らかに宣言した山戸結希『ホットギミック ガールミーツボーイ』(2019)の後にそんなこと言われても・・・と思ってしまったという。
 ところが、そういった前時代的な設定が、ある主題を描くための前振りだったことが後半で明らかになります。というのも、後半展開されるのが、女性をまなざす男性の欲望についての物語だからです。

窃視症、男性性、ヒロイズム ー映画史との接続


 後半の物語はある女性を軸に展開されていきます。記憶喪失の主人公は、病院で出会った女性に「赤いのっぺらぼー」のホムンクルスを見た後、彼女がかつて自分が愛した人物だと「思い出し」ます。彼は彼女を追い求めていくことで自己を取り戻そうとしていきます。同時に、彼は自らが接したホムンクルスのイメージが自分へと転移していることに気づく。トレパネーションを施した研修医の伊藤は、そこで彼が見ているホムンクルスが彼自身のトラウマや主観と呼応したものであると告げます。「ホムンクルス」は彼の主観が見たものであり、妄想にすぎない、と・・・。
 後半では、女性を見る男性性に焦点がズレていくことで、今までの話が反転する構成になっているように見受けられます。そこで導入されるのがホラー映画でおなじみのモチーフである窃視症と、Jホラーでイコンとなった赤い女です。


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アルフレッド・ヒッチコック『サイコ』(1960)より 

モダンホラーにおける窃視症の歴史は古く、アルフレッド・ヒッチコック『サイコ』(1960)とマイケル・パウエル『血を吸うカメラ』(1960)が公開された1960年を契機に、映画の定番となっていきます。女性を性的な物体として見つめる異常な男性たちが映画の中心に据えられることで、男性性の権力と歪みが描かれてきた訳です。

オープニングシーンと目のクローズアップ


 本作がその系譜を受け継いでいることはファーストシークエンスからも明らかでしょう。ドリルによる円のイメージが提示された後、穴から脳を見つめる目が不気味に動く様を捉えた長回しは『サイコ』の有名な覗き穴の場面を彷彿させます。成田凌の目が別の女性らしき目に切り替わることが、本作のテーマである「見る」男性性を見つめなおすというテーマを表象しているのです。
 事実、映画で軸となる二人の男性は、どちらも無自覚に「見る」ことの欲望を抱えた人物として描かれている。先の女子高生のエピソードでも、二人がいかがわしい店の客として女子高生と出会うのもそのためです。
 そのため、映画では彼らが見るものと現実が異なる可能性が示唆されている。名越が女子高生の携帯からインスタを見るシークエンスでは、彼女のインスタの画像は、主人公の車で映し出された形で表象されており、あくまで彼の所有物(スクリーン)越しから描かれたそれは、名越の欲望に沿ったイメージであることが仄めかされている。

ホムンクルス

34:00~ 女子高生のインスタを観る名越の表象
(画像加工すると車のフレームがとても見にくい…)

 だからこそ彼と女子高生のシークエンスでは、彼がCGIのイメージと対峙しやり取りをしていく一方で、現実の女子高生とはカットによって断絶され、空間を共有することができない。彼女自身の現実の身体にたどり着けずCGと戯れる名越の姿が示しているのは、記号的に物事を見ているのはむしろ彼の方だという現実なのです。そのことは、ホームレスとのやりとりで、人を数字として計算する下りからも明らかでしょう。

女性性の呪詛 ー 「赤い女」の映画史


 また、そのような彼が執着する女性がJホラーの象徴的なイコンである「赤い女」であることは、本作が男性性と女性性にまつわるメロドラマであることを指し示しています。そのためにはJホラーにおける「赤い女」がどのようなものかを再度確認しましょう。

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 起源はもっと先にありそうですが、Jホラーにおいて「赤い女」を度々登場させたのは、黒沢清でした。その代表作こそが『叫』(2006)です。観念的かつメタ的にJホラーを相対化した本作は、女の幽霊を真っ正面から捉え、世界=男性社会への呪詛を説かせます。今まで無言で人々を、画面の隅から襲ってくる存在だった女性の幽霊に言葉を取り戻させたそれは、男性からの一方的な恐怖とまなざしを描いていたJホラーを脱構築した作品であり、蓮實重彦をはじめとした批評家からは「見る」ことの問題を突き詰めて描いた作品と評価されています。(注1)この『叫』を起点として、「赤い女」は女性個人の呪詛と抑圧を象徴する存在として他の作品でも度々モチーフとして登場するようになってくる。
  例えば、『大和(カリフォルニア)』(2016)『VIDEOPHOBIA』(2019)などで注目される宮崎大佑が脚本を書いた吉川久岳『ひ・き・こ降臨』(2014)は黒沢清の主題を引き受けつつ、ガールズムービーとしてJホラーを刷新した傑作でしたし、個の呪詛が互いに傷つけあう悪意の世界をもたらしていく山田雅史『コープスパーティー』(2015)『コープスパーティー Book of Shadows 』(2016)もまた忘れてはならない作品でしょう。海外であればサム・ライミの最も優れた後継者であるフェディ・アルバレスの『蜘蛛の巣を払う女』(2018)でも同様のモチーフが出てきたのは記憶に新しいですよね。(注2)脚本を担当している内藤瑛亮も『ミスミソウ』(2018)でそういった映画史を引き継いでおり、当然本作でも『叫』は念頭にあったはずです。

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 そのような「赤い女」を錯視した主人公は、記憶喪失になった女性を、自分が愛した人だと「想起」します。さらに、彼女が来ていたはずの赤い服を着せて、かつての部屋を訪れて・・・自らの「過去」を再現しようとしていく。ですが、研修医はそれを都合のいい主観にすぎないと突き放します。その後、記憶が明らかになった時、彼女が別人であり、愛した人物は亡くなっていることが判明する。愛した人物に、あなたは私を見てくれない、と拒絶された記憶と共に。
 このように『ホムンクルス』の後半は、「赤い女」というJホラーのイコンを軸に、歪んだ男性性を描くものになっています。自らの願望と欲望に従って女性を都合のよい投影として見ていることが、ヒッチコック的モチーフがちりばめられた展開によって表象されている。主人公は『めまい』(1958)のように女性を記憶のままの姿に仕立てあげようとし、研修医もまた、父の影に怯えて誰もいない部屋で頭蓋の向こうを見つめている。その二面性はどことなく『サイコ』のノーマン・ベイツを思い起こさせます。クライマックスでの両者の対峙には、この男性性に対する批判が込められているのです。
 本作では『リング』(1998)のタイトルバックのようなイメージが頻出します。女性性を恐怖の存在としてメディアに結びつけた『リング』を、男性的な欲望の視座として語り直す。そのような意図があったのではないでしょうか。…ですが、どうにも納得いかない部分があるのもまた確かでした。というのも、このような男性性の捉え直しは、最近のJホラーでトレンドだったからです。

女性性から男性性へ、近年のJホラーの変化


 ここ数年、Jホラーにおけるジェンダー、特に男性性をどう描いていくかは大きな主題でした。
 急先鋒は黒沢清の弟子にあたる安里麻里でしょう。ジャンル映画をジェンダーによる主題によって捉え直す作品を多く作り続けてたJホラーの異端です。今まで男性が女性に行うものだったエクソシズムを女性同士のものに置き換えた『呪怨 黒い少女』(2009)を皮切りに、ジェンダーと女性の実体の齟齬を象徴主義で描きだす『バイロケーション』(2014)と『劇場版 零』(2014)と続けて発表してきた軌跡は、海外ならばジェニファー・ケントのように気鋭の作家としてもてはやされてもおかしくないフィルモグラフィーだと思います。その最新作『アンダー・ユア・ベッド』(2019)は本作同様窃視症と錯視によって歪んだ男性性を描いた作品となっています。ホラーではありませんが、同じ映画美学校で問題意識を共有している深田晃司の『本気のしるし』(2020)でもジェンダーの捉え直しがなされていますね。「赤い女」を描いた作品だと、大庭功睦が手がけた『キュクロプス』(2018)もまた忘れてはならない作品でしょう。また、清水崇が『犬鳴村』(2020)『樹海村』(2021)で組んだ、Jホラーにおいて最も語られるべき異形の脚本家、保坂大輔による英勉『妖怪人間べラ』(2020)も男性性の怪物を描いています。会社でも家でも立場がない森崎ウィンが「妖怪人間」というヒロイズムに囚われて狂っていく様には、どとこなく本作と通じるテーマを感じます。

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 ここ数年のJホラー界隈でこれだけ多くの作品で男性性の捉え直しがなされており、本作はその流れの一端に位置しているのは確かです。ですが、『ホムンクルス』の男性性の捉え方は、先行作品に比べて非常に甘いと言わざるをえない。主人公が観た主観を「錯視」と言い切ることができずに、それが個人を救うもののように描いてしまっている。先に挙げた多くの作品が男性主人公の「主観」を切り捨てつつ、そこに何を見いだすのかを考えているのにも関わらず、です。
 原作でも、名越が見ているものはあくまで主観の産物にすぎない可能性が、後半までずっと担保されていました。ですが、今回の『ホムンクルス』はそうはなっていない。「ホムンクルス」が名越の妄想である可能性は名越と伊藤が直接対決するシークエンスで棄却されてしまっている。しかも、錯視の対象だった女性と主人公が結ばれるという、ヒッチコックでさえ用意しないラストで物語が閉じられています。結果として、物語は旧来の男性性を肯定しているようにしか見えないものになってしまっている。ここには、脚本を担当した内藤瑛亮の作家性が悪い意味で反映されてしまっているように思えます。

内藤瑛亮という危険な新鋭と原作との違いについて

 Jホラー業界で最も注目すべき、そして歪んだ才能。内藤瑛亮を評するとすればそのような文言になるでしょうか。社会の歪みや問題点を切り取る視点の鋭さや構成力の高さに定評のあり、尚且つカットに対する嗅覚が鋭い監督です。ですが一方で、描写の節々に本人のフェチズムや暴力衝動が見え隠れする自らの欲望に忠実な作家でもあります。商業デビュー作から延々と百合映画の主演女優ばかりをヒロインに迎えているところからもその辺は窺えますね。『ライチ☆光クラブ』(2016)も本筋とあんま関係ない中条あやみを延々と映すシーンが一番記憶に残りますし…。代表作である『ミスミソウ』もその辺の趣味が原作を浸食している作品ですが、構成力の鋭さで原作ファンからも受け入れられています。欲望=作家性を理性と感性で肯定するような、そんな作家なのです。

名称未設定


 そんな彼の作品に頻出するのが、歪んだヒロイズムです。山田祐介原作の『パズル』(2014)が顕著で、社会に虐げられている女性と二人だけの関係を作りたいという、新海誠が健全に見えるようなセカイ系を原作に全く関係なく展開していくのですよね。(注3)最新作である『許された子どもたち』(2020)にもその特徴はでていて、前半事細かに描かれた少年犯罪の問題が、後半主人公とヒロインのやりとりによって曖昧になっているような印象を受けてしまう。彼がそういった欲望を批判的に描くことができたのは、原作が強くその色を打ち出していた『ミスミソウ』だけなのです。本作もそういった意向が反映されていて、原作と大きく違う菜々子の描写に表れています。
 原作の「赤いのっぺらぼう」ことななみは、もっと主人公に対して攻撃的な、主人公の自省を促す存在でした。名越を「嘘」の存在だと侮蔑する彼女は、彼自身の欲望と罪を暴き出す役割を担っています。ですが、本作の菜々子は記憶喪失という形で言葉を奪われ、観られる客体であり続けてしまう。彼女の自我が確認できるのは、回想の中での諍いだけなのです。そして彼女を助けようとする展開はヒロイズムへのロマンが見え隠れしている。本来展開されるべき男性性への批評的視座が欲望によって曖昧になってしまっているように自分には見えました。結果として、本作は原作が持っていた時代の架け橋としての役割を喪い、90年代をノスタルジックに回想するようなものにさえ見えてしまう。その違いは原作との伊藤の違いに表れています。

原作の主題の変化(原作のネタバレ有り)

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 驚くべきことに原作は短編向きの題材でありながら2003年から2012年まで時代を跨いで連載された作品です。マンガを論じる難しさにもつながる話ですが、長い連載期間は、作品に一貫性ではなくその時代時代の影響による変化をもたらします。『ホムンクルス』もまた90年代の影響が色濃く残っていた連載当初から、休載を経て主題が明らかに変化しています。その象徴が伊藤のキャラクターです。
 原作の伊藤も父に抑圧された人物として描かれ、ホムンクルスも水槽と金魚である点は映画と共通してはいます。ですが、原作では伊藤が抑圧されたのは彼自身が内包していた女性性だとされることで、トランスジェンダーの問題が盛り込まれている。しかもそのトラウマを探る中で明らかになるのは、名越が美醜にとらわれ、自分自身を整形で消したという過去なのです。 

 原作の後半は、男性にかけられたルッキズムの呪いについての問答が繰り広げられ、その帰結としてななおとのエピソードが用意されている。能力によって人や社会を救いたいというヒロイズムへの批評的視座も交えつつ、男性性に囚われた1人の男の物語が展開されることで、前半で描かれた古臭いジェンダー観が問い直されていく。そのことによって、時代をまたいだ原作は、価値観や社会規範を捉え直す作品になっているといえるでしょう。
 ですが、映画版では伊藤を名越の分身として描かれることで、そのような男性性の問題が焦点化されることはありません。・・・原作でも名越と伊藤は分身関係なのでこう説明するとかなり語弊がありますが、ニュアンスや比重がかなり異なっています。原作の伊藤が鏡像であり投影だったとするなら、本作の両者はどちらかといえば一つの人格が分裂した存在といえるでしょう。見る欲望に対する描写が伊藤に全て付与されたことで、名越の特権性が保持されてしまっている。
 クライマックスの名越と伊藤が対峙するシークエンスで、綾野剛と成田凌の好演と美しい照明に目を奪われつつも、「何か違うのではないか」と感じざるをえなかったのもそのためだといえます。台詞では原作を反復しつつも、原作で否定されたヒロイズムの欲望がここで爆発しており、結果として女子高生への名越の行動が肯定されているようにしか見えない。原作が持っていた時代性がスポイルされてしまったと、自分は思いました。

終わりに ー ラストショットについて

 少なくとも、ラストシークエンスの順序は逆にすべきだったと個人的には思います。成田遼の目のショットで映画を始めたのだから、その帰結として、見る欲望に囚われた一つ目の怪物として男性性を描いたあの美しいクローズアップで映画は終わるべきだった。それが出来なかったのが男性性に対して甘かった両作家の手落ちであり、他の作家たちとの差に繋がってしまったというのが個人的な評価です。(注4)
 少なくとも、男性性の偏狭を一つ目の怪物に仮託して描いた作品として、「エヴァを終わらせた男」との噂もある大庭功睦『キュプロクス』が先行していることを決して忘れてはならないでしょう。(注5)ではまた次回に。


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「次はホラー以外な!」「え…マジすか…。」

(注1)この辺は、川崎公平『黒沢清と“断続”の映画』(水声社、2014)や 本法明「黒沢清『叫』とJホラーの歴史」(2019)を参照のこと。後者の後半部で展開される「眼」の議論は、本作を考える上で非常に大きな示唆にとみます。
(注2)フェディ・アルバレス、『ドント・ブリーズ』(2016)って内田英治『グレイトフル・デッド』(2014)だよなぁ?とか、やたら日本映画に対する造詣が深い感があるので、一度誰かに日本映画について聞いて欲しい作家だったりします。『蜘蛛の巣を払う女』、かなり攻殻っぽいし。
(注3)内藤瑛亮、原作のときは原作を無視していいと思っている節がありますね。もう一つ、あまりに欲望に忠実な作品があるのですが、流石にここでの言及は避けさせていただきます。
(注4)後、映画のスタイルも少し曖昧というか、長回し主体で撮るべきかモンタージュ中心でいくかがぼやけていて、映画のトーンが少し散漫なのですよね。ここは賛否があるところですが、前半は内藤瑛亮が監督してモンタージュ中心で撮った方が良かったような気もします。力のある撮影とライティングを用意して、役者をじっくり撮る最近の清水崇の良さもでているのですが。その辺のショットの使い分けも徹底していた『アンダー・ユア・ベッド』やモンタージュで勝負するという決意が読み取れた森ガキ侑大『さんかく窓の外側は夜』(2021)のが個人的には好み。
(注5)意味がよく分からない人は『滑走路』(2020)観てね!

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