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「Lady steady go !」第10話


坂口工業の顧問会計事務所から業務の引き継ぎの依頼を受けたのは、美環と前田が坂口を訪問してから1週間後であった。
金田会計士は、わざわざハートフードを訪れてお願いに来たのだ。

「坂口さんをよろしくお願いします」

それは厳しい契約協力要請が理由ではなく、ハートフードにお願いした方が坂口のためになるとの親心からきたものであった。
正直、美環には重荷でもある。

今まで幾つもの企業の再生に関わってきたが、その半分近くを自主廃業や事業精算で看取っている。
それが希望ではなく、互いにそれが最適解にしかならないからだ。
もっと早く知っていたら、もっと早く相談してくれたら、廃業、経営建て直し継続にいづれにしてもその思いが拭えない。
その少なからずが、他に相談できる相手を持たず人間関係をクローズにしている、いわゆる社交性が低い経営者であることも心苦しかった。

人間の能力には当然個人差があり、また何事にも向き不向きがある。
社会とは厳しいもので、当たり前に能力の無いものは淘汰される。

それでも美環は思うのだ。

私の知らない昔、父や母や伯母が若かりし頃、この世界はもっとやさしく寛容ではなかったのか。
特別に秀でた才能が無くても、一生懸命やってさえいたら認めてもらえ、仕事がもらえ、事業もできたのではないか?

生きていくこと、仕事を続けることにこれほど苦悩を覚えることなく、誰もがもっとゆとりがあって、明日はきっと明るいはずだと疑いもなく信じていられたのではないか?

それは暴論だった。
この資本主義社会において、必要とされない事業は市場から去らねばならない。
すでに共産主義も破綻して、平等など幻想であることが自明の理になった。
一生懸命やることは誰にでもできる。
その上で自社が社会から必要とされなくてはならない。

そのために、ただ日々の業務に追われるだけではなく、自社の経営理念をしっかりと持ち、その理念を果たすために具体的な経営計画が必要なのだ。

事業とは、最早それだけで社会責任を負う行為であるという覚悟が必要なのだ。

それでも、もっとこう、報われたっていいのではないか…

「金田さん、お分かりかとは思いますが、坂口さんがうまくいく確率は現時点でかなり厳しいです。
私たちにできることはほんのわずか。
経営は本人がなんとかするしかありません。

ただ、可能な限りこの仕事を全うします。
引き継ぎ、ありがとうございます」

美環は前田と共に金田を見送った。

「坂口さん、どうですか?」
デリカシーが無い前田の問いに美環は面倒なやつだなと思った。

「どうですかは他人が口にする言葉。
私たちが言うべきは「どうするか」、でしょ?」

前田は首をすくめた。

…「どう思われるかはわかりませんが、打ち勝つ人が偉い訳ではなく
逃げる人がおろかでもない。
破れ去れば何もかも失うかもしれません。

でもね瀬戸さん、破れ去ってもそれで終わりではないんです。
その後も続くんですよ。人生は」…

美環は坂口の言葉を反芻した。
社会責任がいかなるものか、それを坂口に問うのは愚かだ。
少なくとも彼は、自分の人生を覚悟しているし信じている。
私たちの仕事は、それを信じることだ。

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