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PENTAX smc PENTAX-D FA Macro 100mm F2.8 WR

40、70とLimitedレンズを2本手に入れ、SIGAMAの18−35を常用していて、ある程度期間が経った頃、そういえばマクロレンズというものがある、ということに事に気がついた。

手元レンズラインナップを見ると、10−17、18−35、40、50、70、400。
基本的に入手性と価格を優先して揃えたレンズ群は、明らかに間の空いたエリアがある。
一方で。
市場にあるPENTAX純正のマクロはというと、35、50、100。

35は18−35でカバーしているし、そんな短いレンズで寄ったら自分が写るだろう。
50はというとデジタルになってからそんなに使ってないのでピンとこず。
結果。
望遠にもなるし、ま、寄っても自分の影も写らんじゃろという程度の消極的理由で100を入手。


休日、午後
桜も落ち着き、残されたのは桜の花を冠した賞、といった休日。
まさに出走するその場所の横目に、K−3Ⅲをぶら下げ膝をかばいつつ歩く。
今日は平日と同じ街とは思えない程に道行く人が異なる。

普段はいない人々が飲み込まれる入り口を越え、少し。団地の公園には人気がなく。

界隈には桜が多い

特に目的もなく、如何にレンズを使うかを漫然と考えながら歩いていると、急に足を取られる。
西宮と宝塚は地続きではあるが、ところどころこのような違いがあるのではなかろうか、と、ふと思う投票日。

割と深い

車通りが多いこともあり、脇道へ。
マンション、入り口。沢山の赤い花を付けた生け垣。
過去に見たドラマの中で筒井康隆が曰く、サラリーマン家庭にとっては縁起が悪い。
おそらくは、見栄をはらず慎み深い方々が住んでいるのでしょう。

赤、難しい
松笠のようだ

線路のある方に向かう。
10年少し前、映画の舞台にもなっていた駅の付近。
かつて商店街があったであろう風情。

おそらく数年後には別の建物でしょう

学生街の面影なのか、時代の面影なのか。
幼い頃、母とともに生みの父のもとを離れて暮らし始めた時を思い出すような佇まいに、少し息が浅くなる。

離れて40年。
最後に顔をあわせてから36年。

その36年のうちに、母と二人の暮らしが3人での暮らしとなり、ひとりであった私に血を分けた妹が生まれ、自身が世帯を持ち。
そのお披露目で妹とともに家族として、父として挨拶をしたその人以外には私の父はおらぬ。
もはや疾うに「生みの恩より育ての恩」という言葉はその意味を失っている。

流石に年老いてきたその人がなくなった時、私がもし、言葉を発するだけ冷静でいられるならば。
きっと、ルヴェルの「父」を引合いに出して感謝を述べる事となるだろう。

もっと簡素なところだった

息を整え、つまらぬ考えを追い払う。
膝の不調もあるので、折返し。
やはり界隈には桜が多く、八重桜が咲いていた。
理知に富んだ教育、大事。氏より育ちとはこのこと。

ベニユタカ?コウカ?

そのまま、更に線路の方へ。少し先に鐘塔。
学校名に地名が入っているが、実際の所在はというと「塔の町」。
ただ、その「塔の町」は鐘塔に由来するらしく、ちょっとしたパラドクス。
得てして何らかの信仰には矛盾があるものだ、と。

自己言及のパラドックス

そのまま線路脇まで。
おそらくは。塔の主に信仰を捧げた方が横を通り過ぎる。
そういえば。
等しく西方教会から派生しつつもその主張が異なる二派それぞれに、それらを信じて主張を譲らない縁の薄い親戚が居た。
我が身の位置が、本家でありながら異端ということが可笑しく、一噌のことと、FSMの聖職者資格を取得したため、次に合うことがあれば、「1週間だけ信仰してみないか?」と、教義に則して布教を試みることにしよう。

実はあまり区別がついていない
反対側は、行き止まり

行き止まりを戻り、振り返ると先程までなかった自転車が停まっていた。

この界隈の坂にはちょっとつらいかも

そのまま最寄り駅方向に道を定め、歩く。
理念や信仰に関わることは、できれば勝手に修めた上で本人の胸に収めておいてほしい。
祖父母の亡くなった際や、その骨を納める際に起きた出来事を改めて思い返して、その時どう振る舞えばよかったのかが未だにわからず。
自身も金で買ったとはいえ聖職者資格を持つ身でありながら、その正しい振る舞いがわからぬあたり。
おそらく、それを望まぬ人にとっては、いかなる教えも無意味ということであろう。

問えるのであれば問いたい。が、この方は役割期待を果たしたのみとの考え方もある

自分以外の方々の信じるものを毀損するつもりなど毛頭無いが、何かを信じるということはそこで考えを止めてしまうことではないだろうかと。
そこには思考の、人としてのメタボリズムが無いのではなかろうかと。

何となく、メタボリズムを感じるなど

家を出て、川を渡ってからそこそこの時間が経っている。
川の向こう側、要は今いる側はあまり馴染みがなく、車に乗って通り過ぎることが殆どで、稀に用向きがあるとしてもせいぜいが無人の餃子販売所に行く程度。
銭湯があることなど、知りもしなかった。
今日は何かと外を歩くだけで普段は蓋をしている記憶を呼び起こされてしまう。銭湯もまたそのひとつ。
ただ、他の記憶と違うことがあるとすれば、まだそれを記述し、消化し、笑い飛ばせるところにはないということか。

花粉がひどいようで、用意があれば入っておきたかった

再び大通りに。
ちょと手元のApple Watch Ultraに通知。今日の賞が決まったとのこと。
ということは、道を急がねば人波にのまれる。

いくらか早足で駅がある方向へ。

中を見てみたい
何台か馬運車が出ていった

ひと駅分の距離を歩いた折り返し。
まもなくふた駅分を完遂しようかとぐらい。
最後の坂を上る直前。
窓。
今日はPLフィルタを持ってきていないので、腕のシルエットが昔のケロッグのロゴのようだ。

なんではみ出してるの気が付かんかね

勝者の家の前を渡り、駅から通じる地下通路ができる前は人通りの多かった通路。幼い頃はここが怖かった。

100マクロ、天井への照り返しとかちゃんと写る

通路を通り、駅を過ぎ、橋の上。
駅の山側には、馬がいる。
噛む馬はしまいまで噛む、そうな。
川を挟んで概ね向い。
同じく治らぬ癖などあるだろう人を首を伸ばして噛めばよいのに、と。

西宮への憧憬ってどうにかならんのかね

そこからいくつかの坂を上り下り。
かれこれ20年以上空地になっている坂の下。
お年寄りにどうぞと、誰が設置したのかわからぬベンチがあったのだが、いつの間にかフェンスの内側に打ち捨てられていた。
実際、誰かが座っているところを見たことはないのだが……

技術家庭科レベル

程なく帰宅という頃。
擁壁に迷迭香。
外出中なにかと古い記憶、その時々に自身が悩み迷いそして変化し自身を入れ替えてきたことを掘り起こされた一日の終りには、若干洒落がきつい。

迷迭香


写真はいずれもPENTAX smc PENTAX-D FA Macro 100mm F2.8 WR。
手にはしていたが、使うことあまりなく。
改めてHDならずともよく撮れるな、と。
心穏やかな時に使いたい。

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