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「問題解決のデザイン」から、「共に生きるデザイン」へ。 #257

パーソンズ美術大学・Transdisciplinary Designでの学びも2年目に突入。日々「デザインとは何か?」への答えが更新されていく日々を過ごしているが、今回は「なぜデザインをするのか? 何のためにデザインをするのか?」に対する答えが大きく変わったので、節目として現時点での私なりの考えを記しておく。

反・デザイン思考

Transdisciplinary Designで学んでいるデザインは、いわゆる問題解決型のデザインではない。パーソンズ美術大学はニューヨークにあり、IDEOを中心とした西海岸寄りのテクノロジー中心主義的なデザイン思考を教わることはほとんどない。むしろ、パーソンズ美術大学にはダン&レイビーが在籍していることもあってか、スペキュラティブデザインを学ぶ機会が多い。

こうした1年生の頃の学びをもとにしてTransdisciplinary Designのプロセスを言語化したのが以下の記事である。この内容を英語に翻訳してクラスメイトに読んでもらうと「まさにこんな感じ」というお墨付きをもらったので、ある程度は的を射ている内容のはず。

Zineという紙媒体にしてみた

また、Transdisciplinary Designが目指しているデザインは問題解決型のデザインへのアンチテーゼであり、社会構成主義を土台としたナラティブベースドデザインでもあるという記事も書いた。端的に言えば、「思い込み(ドミナントストーリー)に縛られていることに気づかせて、別の考え方(オルタナティブストーリー)を選んでもらう」というデザインである。

こうした理解も間違いではないのだが、今回の記事ではさらに理解が深まった部分を更新したい。結論を言えば、「デザインを通して他人を知る、対話する、関係性を築く」である。この考えに辿り着く前に、一度「自分のためのデザイン」も考えていたので、まずはその話から。


自分のためのデザイン

留学生活も2年目を迎えて自分の論文を書き始めるにあたって、自分が理想とするデザインを考える機会が増えていた。そんな中で思いついたのが「自分のためのデザイン」だった。

「デザインはいつも『誰かのため』と言うけれど、デザインをする自分自身は『誰か』に含まれていないじゃないか」と思い、「だったら『自分のため』のデザインがあってもいいのではないか」と考えた。哲学の世界でも「普遍的な善とか美とかはいいから、自分とは何かが知りたい」と実存主義が始まったことに倣って、実存主義的デザインなどと勝手に命名したりしていた。

ただ、自分のことをいくら考えていても、結局は他人のことを考えざるを得ないことに気づき始めた。どれだけ「私のためのデザイン」と言っていても、人間社会で生きていくためには他者のことを無視することはできないからだ。もちろん一人の時間を確保して内省することは大事だが、それは他者との交流があって初めて意味を持つ。

こうして「私のためのデザイン」を考えることから、どうやって他者と関わるのかを考える方向にシフトしていった。自分のことを見つめながらも、結局は他人との関係性を考えていかなければならないのだ。


共に生きるためのデザイン

「デザインを通して他者と関わること」を考えている中で、Transdisciplinary Designの講師の一人であるJohn Bruceの話がブレイクスルーのきっかけとなった。その話の概要を『パーソンズ美術大学留学記』に書いた内容から引用する。

印象的だったのは彼のプロジェクトへの向き合い方について。彼はFilmmakerでありプロジェクトを"End of Life"という映像作品にまとめてはいるのですが、カメラを回していない時の経験やカメラを回しているけれど使わない映像素材も彼にとっては大切なのだと語っていました。より良い映像作品をつくるという観点で言えば、常にカメラを回すor必要な場面だけ撮影してさっさと撤収した方が効率は良さそうです。でも、彼は最終的な映像のために撮影をしているわけではないとのことでした。

パーソンズ美術大学留学記シーズン3 Week10

つまり、彼は「End of Life」という映像作品をつくるために被写体である死が近い方々と会っているというよりも、「映像作品をつくる」という方便で彼らと一緒に過ごしているようだった。この「共に過ごすこと」が主で「映像作品」が従であるという構図が、私にとってコペルニクス的転回だった。


コーヒーを飲む理由

ある日クラスメイトに「一緒にコーヒーでも飲まない?」と誘われて、キャンパス近くのカフェに行って30分ほど話をした。ただ、あらためて考えるとこの誘い文句は不思議である。そもそもコーヒーを飲むという行為は一人でできるので、誰かとしなければならない行為ではない。それに、私はホットチョコレートを買ったので一緒に「コーヒー」は飲んでいないが、クラスメイトは何も不満を言わなかった。

つまり、「一緒にコーヒーを飲む」という文字通りのことが目的ではなく、コーヒーを飲むというのは「一緒に話をする」という目的のための手段であったということだ。当たり前のことのようだが、この気づきからも「何のためにデザインをするのか?」の答えが見えた気がした。

日本で言えば、「お茶でもしない?」になる。その誘い文句が芸術にまで昇華されたのが茶道ということになるのだろうか。もちろん、お茶の味やカフェインの覚醒作用を楽しむという側面もあるが、「一期一会」という言葉があるように茶会を通して共に時間を過ごしたということ自体に意味があるはずだ。


共に生きるということ

「他人のことを助けようとするよりも、他人のことを知ろうとすること」。こんなことを考えていると、ミヒャエル・エンデの『モモ』の主人公を思い出す。彼女はただひたすらに話を聞く。それによって、話を聞いてもらった人は悩みが解決するという場面が何度も登場する。彼女は資本主義を象徴する灰色の男達が「無駄なことをやめれば時間が節約できる」と提案するのと対照的だ。

そういえば、「私」という存在を受け止めてくれていると感じることはあるだろうか? 自分の話をいつまでも聞いてもらった経験はあるだろうか? スマホ片手に話を聞かれたり、話が長いと急かされたり、次の予定があるからと切り上げられたり。自分の言いたいことをすべて言えて、聞きたいことをすべて聞けたと感じる会話をしたのはいつのことだろうか?

私たちは解決策を求めているのではなくて、自分が生きていることを認めてくれる(=「私」の存在を証明してくれる)他者を求めているのではないか? その欲求を「問題」と呼ぶとするならば、その「解決策」となるのは「ただ相手を知ろうとすること」ではないか? そこに技術的イノベーションは必要ない。ただひたすら相手に興味を持ち、話を聞くだけでいいのかもしれない。


まとめ

問題解決型のデザイン思考も社会構成主義的なナラティブベースドデザインも、デザインを使って人為的に何かしらの変化をもたらそうとしている点は共通していた。現状の欠陥を修繕・克服してオルタナティブな状況に移行することで「幸福な状態」になるという希望的観測に基づいていると言える。

一方、「共に生きるデザイン」ではデザインを問題解決のために使うのではなく、他者との関係性を始める・築くために使う。「ただ一緒に過ごしたい」というお願いの代わりに、「デザインに協力してくれませんか?」とか「困ってることがあればデザインさせてくれませんか?」という誘いをするのだ。私が経験した「一緒にコーヒーでも」と同じ構造である。

「問題解決のためのデザイン」から「共に生きるためのデザイン」へというのは、Transdisciplinary Designを語る上で中心となるコンセプトかもしれない。「一緒にコーヒーでもいかが?」と誘われて「このあたりで一番美味しいお店はここだよ」と答えるのが問題解決型のデザインならば、「いいね。あなたと過ごせるならどこでもいいよ」と返すのがTransdisciplinary Designらしい気がする。

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