『現代思想入門』を読む。 #153
思想史について勉強していると「今はポスト構造主義の時代である」という話を聞くので、ポスト構造主義とは何かを学ぶために『現代思想入門』を読むことにしました。現代思想は、主にフランスを中心に展開されたポスト構造主義の哲学を指すようです。
以下では、個人的に大事だと思った箇所を引用していきます。
はじめに 今なぜ現代思想か
まず、現代思想を学ぶ意味について以下のような説明がなされます。
たとえば、日本における「自粛」の文化を理解するために役立つと言えばわかりやすいでしょうか。この時点で、何が「狂気」であるかは時代によって異なるという「ミシェル・フーコーみ」を個人的に感じます。以降の章で、脱構築という言葉が章の名前につくのですが、ここでは以下のように定義されています。
どちらかを良いと評価する時、そこには何かしらの判断基準があるということであり、その判断基準を疑うことが脱構築であるとも言えそうです。このように現代思想は構造主義の次の思想を模索してるので、その構造をどうすれば破壊したり抜け出したりできるのかを考えているということでしょうか。
第一章 デリダ――概念の脱構築
二項対立を「脱構築」すると言い出したのが哲学者のジャック・デリダだそうです。彼から始まったとされるポスト構造主義は、以下のような特徴があります。
差異という言葉は、最近の批評文を読むと頻出するキーワードなのですが、その理由はポスト構造主義に基づいているからだったようです。デリダの主張を一言で言えば「パロールとエクリチュールの二項対立からパルマコンに注目する」という意味不明な要約になりますが、薬は毒にもなり得るというような両義性に注目しているということのようです。
個人的には以下の文章が気になりました。
アメリカのデザインスクールへの留学中に、脱植民地化というキーワードを何度も聞くのでどのような背景があるのかと疑問に思っていましたが、ここに答えが書かれていました。今度からは脱植民地のデザインを見たら、「なるほど、そのデザインでデリダの唱えた脱構築をしたいんですね」と言えます。
第二章 ドゥルーズ――存在の脱構築
以上が、ドゥルーズの主張です。著者は仏教の縁起説にも似ているという指摘をしていますが、私も読みながらそう思いました。
「物自体」が存在していて関係性はその後という考え方に対して、関係性が先に存在していて、あとから物の性質が現れると考えるのがドゥルーズの主張です。実存主義の「本質は実存に先立つ」とも似ているような気もしないでもないですが、実存主義の場合は「だから、自分自身で生きる意味を決めていこう」と言うのに対して、ドゥルーズは「自分で決めなくても、周囲との関係性で決まっていくよ」と考えているという違いはありそうです。
また、ドゥルーズはガタリとともに精神分析批判をしたことでも有名です。つまり、幼少期の家族関係によるトラウマだけが人格形成に寄与するわけではないという主張です。以下に、「エヴァっぽいなぁ」と思って個人的に気になった文を紹介します。
第三章 フーコー――社会の脱構築
ミシェル・フーコーは権力に対して、脱構築のメスを入れました。しかし、それは「権力=悪」という常識を覆すことになるのです。
また、「正常」と「異常」の二項対立に対しても脱構築を試みました。
こうした考察を踏まえて以下のような提案をしていると著者はまとめています。
第四章 現代思想の源流――ニーチェ、フロイト、マルクス
デリダ、ドゥルーズ、フーコーという3大現代思想家を見てきましたが、この章ではこうした現代思想に至る起源として、ニーチェ、フロイト、マルクスが紹介されます。
まずは、ニーチェがショーペンハウアーの思想を引き継ぎながら、ディオニュソス的な混沌なエネルギーが秩序の下に押し込められていることに注目する考え方を提唱しました。ちなみに、そのショーペンハウアーは「ヨーロッパで初の、本格的に仏教思想を念頭に置いた哲学者でした」と書かれていました。
続いて、フロイトの無意識の発見も現代思想には欠かせません。これまで意識や理性といったものを前提としてきた哲学に、無意識という存在を唱えました。そして、無意識を前提とした思想は今も生まれ続けています。
意識では、それらを「ストーリー」に仕立て上げようとします。アイデンティティとは自分の人生をストーリーにしたものです。でも、本来人生とは偶然の産物であり、そこに必然的な因果関係はない。その矛盾が、アイデンティティの危機を生み、自分探しをしたくなったり、自分が存在する意味のなさに不安になるのかもしれませんね。この辺りの議論も、仏教の「無我」に通ずる気がします。
最後にマルクスについてです。ここで「意識が高い」ことへの言及があります。彼らは所詮はマルクスが唱える構造の中での効率化に過ぎず、むしろ資本主義の負の側面を助長しているのではないか。それが自分が資本家になれというアドバイスだとしても、「資本主義の搾取構造」という枠組みからは抜け出ていないと指摘します。
最後に、「偶然性」をキーワードに以下のように締めくくられます。
ちなみに、フロイトとマルクスが現代思想の源流にあるという主張は、反逆の神話やソシュール入門などの思想史に関する他の本でも指摘されています。(特に西洋的な)思想史を学ぶうえでフロイトとマルクスは避けて通れないということをあらためて理解できました。
第五章 精神分析と現代思想――ラカン、ルジャンドル
現代思想はジャック・ラカンの精神分析が前提になっているため、彼の考え方を理解しておく必要があるようです。まずは人間を以下のように定義しています。
そこから、人間がどのように成長するかについても考えていきます。母からの疎外と父による去勢という子供時代の経験を踏まえて、以下のような「欠如の哲学」が唱えられます。
永遠に欲しいものが手に入れらないという構造を「メタ的に捉えることによって、欲望を『滅却する』方向に向かうのが仏教的な悟りなのでしょう」と述べており、仏教との関係性を指摘してもいます。
第六章 現代思想のつくり方
ここまで哲学者ごとの思想の概要を見てきましたが、この章ではこれらに共通する構造を見出します。それは、①他者性の原則、②超越論性の原則、③極端化の原則、④反常識の原則であると言います。以下、そのまま引用します。
「ポスト構造主義の共通点はこんな感じです」と提示するこの章の試み自体が、ポスト構造主義を構造主義的に捉えている感じがして、未だに構造主義的なものの見方の威力は凄まじいのだなぁとも思います。メタ視点こそが素晴らしいみたいな風潮も、もしかしたらポスト構造主義(構造主義?)の特徴なのでしょうか。
第七章 ポスト・ポスト構造主義
思弁的実在論、オブジェクト指向存在論、非哲学など新たな思想が生まれていることが紹介されています。この辺りは「ポスト構造主義に対してポスト構造主義の手法(脱構築)を行う」という入れ子構造が生まれているというイメージでしょうか。
個人的な感覚として、構造主義までは思想史としての重要人物がある程度確定していたり、新たな思考や主義が生まれているように見えるのですが、いわゆるポスト構造主義以降はそこまでのインパクトはなく、まだどの思想が社会の主流になるのか決まっていないようにみえます。
もう少し時が経って、自然淘汰のふるいにかけられた結果残った思想が構造主義の次の思想として定着するのだと思います。なので、「いまのところは構造主義とされる思想までを中心に勉強し、ポスト構造主義以降は概要を把握することに努めればいいのではないか」という今後の勉強の方向性の参考になりました。
おわりに 秩序と逸脱
著者は「現代思想は、秩序を仮固定的なものと見なし、たえず逸脱が起きながらも諸要素がなんとか共存する状態を考察している」とまとめています。現代の思想家や哲学者は、構造主義を前提としながら、その構造の破壊or構造からの逸脱を目指し続けているということでしょう。
感想
まさに「入門の入門」の名にふさわしい内容で、現代思想の全体像を学べました。「構造主義をどうやって乗り越えていこうか」と考えてきた現代の哲学者の営みの一端を垣間見れた気がします。あと、精神分析系の内容になると、どうしてもエヴァが頭をよぎるのは完全に個人のバイアスですね。
「では、ポスト構造主義に何が来るのか?」という疑問については、現代思想へアンチテーゼとして東洋思想を持ってくるというのがあり得る気がしました。本書でも度々仏教と現代思想の共通点が指摘されていたように、ここまでの西洋哲学の歴史は、仏教などの東洋思想から見れば「そんなことは数千年前に気づいていましたけど」と言われてしまう部分もあるのではないでしょうか。東洋だって同じように深遠で複雑な思想体系を構築してきているのだから、東洋思想をそのまま西洋に投げかけるだけでも、問題提起の役目を十分に果たすように思えます。
そのためには、仏教や禅をはじめとする東洋思想を理解していく必要があります。もちろん、本書で紹介されているような西洋思想も理解していないと、クリティカルな問題提起はできない。となると、西洋思想も東洋思想もどちらも勉強していかないといけない。これはかなりハードルが高い……
この記事では現代思想の流れを中心に引用したので紹介しきれませんでしたが、現代思想に基づいた生き方のコツも書かれています。生き方に悩んでいる時に参考になるような文が随所に散りばめられているので、ぜひ実際に本書を手に取ることをオススメします。
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