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エッセイな日々を、過ごしたい。 #193

最近、エッセイを読むのにハマっている。ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』、若林正恭さんの『ナナメの夕暮れ』、星野源さんの『いのちの車窓から』などを読んでいる。どれも筆者の人生を追体験できる素晴らしい作品だ。

もちろん有名人ならではの珍しい体験を綴った文章もあるのだが、ほとんどは日常生活での出来事を描いている。「誰にでもありふれた光景もこの人たちの目を通して見るとこんな風に見えているのか」と驚かされる。


今ではエッセイが好きな私だが、数年前まではまったく読んでいなかった。「他人の個人的な経験を読んで何が面白いの?」と食わず嫌い(読まず嫌い?)していたのだ。科学的な客観性を追い求めた理系人間の末路である。

しかし、デザインを学ぶようになってから、一人ひとりがどんなことを思って生きているのかに興味が出てきた。エッセイを読むと、他人が世界をどう見ているのかを知ることができ、日常会話では知ることのできない心の声を聞くこともできる。共感と驚嘆のどちらの楽しみもあるのだ。


ところで、エッセイとは何だろうか。ライターの田中泰延さんは『読みたいことを、書けばいい。』の中で随筆、つまりエッセイをこう定義している。

事象と心象が交わるところに生まれる文章

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事象だけを書く文章は報道やルポルタージュと呼ばれ、心象だけを書く文章は創作やフィクションと呼ばれる。つまり、現実世界と筆者の脳内をどちらも書いているのが、エッセイである。また、エッセイにおける事象と心象のバランスは、事象が99%で心象は1%でいいのだそうだ。思えば私の読んだエッセイは、このルールに従っている。

聞きかじった程度の知識だが、俳句はよりこの傾向が強い。良い句を詠むには事象を描写することに専念する必要があり、そこに詠み手の心象が入る余地はない。それでも、その事象を描写することでそれを聞く人にも同じ風景を想像させて、間接的に詠み手の心象を伝えている。エッセイもこれと同じ構造だと言うことだろう。心象を語らずして心象を伝えることが、優れた表現者なのだ。


そうと分かっていても、自分の思いを説明しないと伝わらないと不安になり、自分の心象をダラダラと説明したくなるもの。しかし、実際はその逆で、心象をできるだけ説明しない方が、かえって相手に心象が伝わるのだ。

みうらじゅんさんは『「ない仕事」の作り方』の中で、自己主張をしない方がアイデアが他人に伝わるし自分の好きも伝わると書いている。「私もエゴの抜けた文章をかけるようになりたい」というエゴを書くことしか今の私にはできないのがなんとも歯がゆい。


上手なエッセイを書く人は、世界を見る視点が肯定的だ。それでいて、自分のエゴを出さない人だ。そんな人たちの人生は楽しそうだし、そんな人たちと一緒に過ごす人も楽しいはずだ。

エッセイを読むことは、こうした人たちの視点を自分の中に取り込むことである。エッセイを書くことは、自分のエゴをそぎ落としていく営みである。日々の人生を、エッセイを読んだり書いたりするように過ごしていきたい。

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