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2024年3月2日 「春にして君を離れ」感想


アメリカの小説が合わなくて、イギリス小説に戻ってきた話は以前、書きました。

イギリスミステリの女王、アガサ・クリスティーの作品をAudibleで聴き終えましたので、その感想です。
今作、「春にして君を離れ」はジャンルとしては、ミステリではありません。
じゃあ、何のジャンルなのか?と聞かれると、「文学作品」ということになりましょうか。
ミステリを期待して読むと肩透かしかもしれませんが、しかしこれはとんでもない作品です。
ミステリではないのでネタバレと言えるほどのネタバレはないのですが、
気になる方はここでブラウザバックしてください。


アガサ・クリスティー!あなたって人は!

殺人によっては、誰も殺されない、
しかし、確かに、ある「死」が描かれています。
1944年に、わずか3日で書き上げられ、アガサ・クリスティーの別名義、メアリ・ウェストマコットで発表された作品です。
今から、80年前の作品と思えぬ、鮮烈さ、
そして、これを3日で書き上げられる胆力と文章力、心底、アガサ・クリスティーの才能に感嘆しました。
アガサ・クリスティーの筆力というのは、トリックでも、エキゾチックな異国や英国の田園地帯の描写でもなく、人間の心理描写でこそ、真価を発揮するのです。
どこを読んでも、無駄な文章がありません。
主人公、ジョーンの立場から見た世界を的確に描写し、後半、それが崩れていく部分を丁寧に描き、そして、エピローグに至る、構成も完璧です。
「アガサ・クリスティー、あなたって人は!
どんな風に、この世界や人間を体験して、いたの?」と
聞いてみたくなります。
アガサ・クリスティーの写真は、どれも、包容力のある笑顔をこちらに向けています。決して神経質な感じはなく、温かく落ち着いた女性に見えます。
それでも、この小説を読むと、アガサ・クリスティの冷徹とも思える観察力と分析力がわかります。
あまりにも賢くて、おそろしい人だなぁとも思うのです。
実際のアガサ・クリスティーとはどういう人だったのでしょう。
アガサ・クリスティの目の前に立つと射すくめられるような気持ちになる人もいたのではないかと、思ってしまいます。
それとも、観察されていることすら相手が気づかないようなスタイルだったのでしょうか。
アガサ・クリスティー自身に、とても興味が湧いてきました。そういう書籍があれば読もうかしら…と思っています。

素晴らしい人生…でも本当に?


主人公のジョーンは、誰からも羨ましがられるような家庭をもつ女性です。
弁護士と結婚し、二女一男の子どもをもうけ、いずれの子どもも成人して結婚しているのです。ジョーンは、弁護士の妻として、家事はメイドに指示を出しながら任せ、様々な活動に精を出し、忙しく暮らしています。
そして今回、ジョーンは、海外で暮らす末娘が体調を崩したため、看病に駆けつけ、その帰りに、異国を旅しているのです。
経済的に不安もなく、家族にも恵まれているジョーン、
古く、不快な表現にはなりますが、「女の人生すごろくのあがり」とも言える境遇です。
ちなみにこの小説の舞台は、Wikipediaによれば1930年代だそうですから、90年ほど前となります。
女性の生き方が狭く、限られていた時代であり、今よりずっと「女性ならこうあるべき」という考えが根深かったはずです。
物語冒頭、ジョーンは自分の素晴らしい夫、夫の仕事、そして素敵な3人の子どもについて語る時、何の疑いも持ちません。
それどころか、旅の途中で再開した学生時代の同級生のみすぼらしさ、だらしなさに哀れみを向けます。
また、過去に知っていた知人の「かわいそうな人生」も、同様に思い出し、「あんな風でなくてよかった」と思うのです。
読者は最初、ジョーンの立場からものを見ますから、学生時代の同級生の「落ちぶれた現在」や知人の「かわいそうな人生」に眉をひそめたくなるわけです。
しかし、読み進めていくうちに、読者は夫や子どもたち、他の人たちの様子や言葉から、ジョーン自身に対して疑いを持つことになります。
それはまた、ジョーン自身の内省の過程でもあります。 
「良い妻」で「良い母」である人が、こんなことを言ったり、言われたり、するだろうか?、
そもそも真の意味で「良い妻」や「良い母」とは何なのか?、
そして、「良い妻」や「良い母」だからと言って、良い人生を送ったと言えるのか?、
ジョーンはどうして、こんなに「良い人」なのに「嫌なやつ」なのか?、
たくさんの疑問が浮かび、そのつど、ジョーンの欺瞞、思い込み、不寛容さがゆるゆるとあらわになります。
心理的には激烈な真実がゆるやかに明かされていく様子は、背筋が寒くなります。
流石ミステリの女王と言わずにはいられません。
そして、エピローグまで読んでみると、本当にかわいそうなのは誰なのだろう、と思うに至ります。

最後の選択

ジョーンが選んだ選択を読み終えた時、
小さな溜息が出ました

アガサ・クリスティーは、
ジョーンのような考え方の人間が、
どういう選択をするか、どうやって人生をやっていくか、よく知っているのです。
決して絵空事は書きません。

自分ならどうするでしょうか?
ジョーンが選んだ選択を、「安易だ」とか「浅はかだ」とは言い切れません。
あれが、普通の人間の選択のひとつだと思うのです。
自分の中にも、確かに、ジョーンがいて、
ジョーンがそれを選ぶ理由も確かにわかります。
90年前の女性の気持ちがわかるわけない?、そんなことはありません。
「現状を維持していけるなら、変化することなくそのまま維持したい」
「劇的な変化よりも、現状維持したい」
という思いは
今、この瞬間もあります。
ジョーンの選択をどう捉えるか、
それは本を閉じた後も残る、深い余韻です。

ロドニーの心はどこに?


この小説はジョーンの物語であると同時に、彼女の夫、ロドニーの物語でもあると思います。
物語の冒頭で語られるロドニーは「弁護士」という程度のキャラクターなのですが、砂漠で1人内省を深め,過去を遡っていくジョーンの思考を追うと、ロドニーの魅力が浮き上がっていきます。
押しが弱いところはあるものの、
誰に対しても寛容で温かく、誠実で、洞察力があり、それ故に多くの人から慕われているロドニー、
その上、弁護士という激務の中でも、柔らかい感受性を完全に失ってはいないようです。
だからこほ、どうして、ロドニーはジョーンと結婚してしまったのだろう、とも思うのです。
ジョーンは、「良き母」「良き妻」であるけれども、あきらかにロドニーの柔らかい感受性を理解し得ない部類の人間です。
若いロドニーにはそういうことがわからなかったのでしょうか。
しかし、ロドニーの洞察力を考えると、結婚前にも、ジョーンの性格は、わかっていたと思うのです。
ロドニーが何を思って、ジョーンと夫婦となったのかは小説では、はっきり書かれていません。
恋ゆえに判断が甘くなったのでしょうか。
ロドニーがジョーンと結婚した決め手は何だったのだろうというのは気になる点です。
ジョーンに押されたのかもしれません。
ロドニーは誠実であるゆえ、明確に、結婚の誓いを破るようなことはしなかったようですし、今後もそういったことはしないことでしょう。
しかし、とエピローグを読んで思います。
ロドニーは、ジョーンを愛しているのでしょうか。ロドニーが「リトルプアジョーン」と呼びかける時、背筋が凍るような心持ちがしました。
ロドニーの心、それはジョーンのそばにはないのです。

さて次は何を聞こうか


たまたま選んだ作品でしたが、
読み応えがあり、非常に面白かったです。
小説という表現方法の可能性を感じました。
小説にはまだ大きな力があるのです。
自分も少しでも面白いものを書きたい、という気持ちが、強くなりました。
消えかけていた焚き火が強い風で燃え上がったようです。

次の作品もアガサ・クリスティーにしようかと思っています。
アガサ・クリスティーの人間描写を少しでも学びたいのです。
しかし、80年ほど前に書かれた物語が、これほどまでに生き生きとして迫ってくるとは、本当に驚きました。
今回の読み手の方、非常に表現力が豊かで、その効果もあると思います。
ジョーンの心の揺れを素晴らしい朗読で、表現してくれました。
Audibleは読み手も重要です。
次に聞く作品も、読み手もしっかり選ぼうと思います。


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