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舞台と日常生活の往還


「行事は通過点であってゴールではない」
「行事が終わった後は荒れる」

と言われる。

あるいは、

「行事を成功させよう。そして、子どもたちに自信をつけさせよう」

「行事を通して個や集団を育てよう」

とも言われる。

その通りだと思う。

では、行事が通過点であるとは一体どういうことなのか。

なぜ行事が終わった後は荒れるのか。

行事を成功させなくては、自信がもてないのか。

あるいは、自信とは何に対するどんなものを指すのか。

はたまた、個や集団の何を育てるのか。

私の中に、こんな問いが湧いてくる。

劇。

舞台の上で、他人を、非日常を演じる。

ところで、学校では、劇を通して何を学ばせようとしているのだろうか。

声を大きく出すことだろうか、人前で臆せず話すことだろうか、それとも全員で協力することだろうか。

尊敬してやまない平田治先生は、「演劇とは他との関係性を学ぶ場だ」とおっしゃる。

自分にスポットが当たっている時は、自分の責任を果たすべく精一杯演じる、ストーリーの中でどう自分を生かすかを考える。

全体のためにどう動くといいかを考えて演じる、ということもあるだろう。

自分にスポットが当たっていないときは、今スポットが当たっている人をより輝かせるように振る舞う。

じっと動かないのがいいのか、相槌が必要なのか、別なアクションが必要なのか。

「自分が自分が」ではなく、人を引き立たせるために何ができるのかを考える。

あるいは、誰かがセリフを忘れてしまった時、間違えてしまった時、自分ができるフォローを考える。

台本にはないけれど、場つなぎのセリフをアドリブで言う、そのためには自分だけのセリフを覚えるのではなく、作品の全体像を覚えていなくてはならない。

どれもこれも、他者との関係性の中で成り立っていくことだ。

他者がこう動くから私はこうした方がいい、他者がこういう状態だから自分はこう動くべきだ……。

「他者との関係性を学ぶ」とは、こういうことではないだろうか。

台本通りに言えることが大事なのではなく、他との関係性の中でどう考え判断し動けたのかが大事なのではないだろうか。

これは実生活の中でも言えることだ。

例えば、授業中、発表する子の声が聞こえなかったとする。

自分が主役と思っていれば、聞こえない!もっと大きな声で言って!となる。

しかし、発表している子が主役、自分はわき役と思えば、どうしたらその子の声がみんなに届くかを考えることができる。

あるいは、誰かが牛乳をこぼしてしまったとき。

他者との関係性を意識できないと、自分じゃないから拭かない、助けない、手が汚れるから嫌だもん、となる。

しかし、今他者が困っている、自分にできることは何だろうと考えれば、雑巾を渡すことだったり、一緒に拭くことだったり、「大丈夫、気にしないでね」と声をかけることだったりするのではないか。

舞台で考え行動したことが、日常生活で生かされる。

日常生活で実践したことを、舞台でも生かす。

こうした往還が、「通過点」である意味だと私は考える。

行事と日常が地続きであることを子どもと共有しながら指導ができていれば、行事が終わった途端荒れることもないだろう(もちろん、様々な状況から一概には言えないだろうけど)。

荒れるのは、行事指導と日常指導がかけ離れているからではないかと考える。

そして、いい劇ができた自信ではなく、他との関係性を自分で考え主体的に動けたという小さなチャレンジこそが「自分でできた」という自信につながるのではないか。

それが、個が育つ、集団が育つという中身ではないだろうか。

劇。

たくさんの成長が見える。

セリフを忘れた子をカバーしたこと、場が止まりかけた時に一人でも声を出したこと、アドリブでどんどん場を盛り上げたこと……。

小さなことかもしれないけれど、でも、どれも私が指示してさせたことではなく、自分で考えて決めて行ったことだ。

そのことに価値があると思うし、誇りに思ってほしいとも思う。

なぜ学芸会を行うのか。

台本を配る前に子どもたちに問うたことだ。

その時、明確な答えをもてた子はいなかったけれど、きっとこの取組を通してそれぞれが答えを見つけただろうと信じたい。

そして、舞台で学んだことが、日常生活で実践されることを期待している。

やがてそれが、自分はどう生きるかという問いにつながるだろうと思う。

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