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いちばん古い記憶

あれは2歳になる少し前、すぐ下の兄弟が生まれたころだと思う。
私は父といっしょに映画館で映画を観ていた。
映画館が禁煙になるより前の時代で、館内はタバコの煙でうっすら煙っていた。後で調べてタイトルもわかったその映画のワンシーンを、くっきりと覚えている。
おそらく父は、母が出産で入院している間の子守りのついでに、私を映画館に連れていったのだろう。

私は若かった両親の長子で、物心ついたころにはすでに「お姉ちゃんなんだから」と自立を求められて育った。
おかずもおやつもおもちゃも何もかも、兄弟を優先するのが習慣になった。兄弟喧嘩になっても折れるのはいつも私だった。兄弟が何か悪さをしたら、常に「お前がちゃんとみてないから」と叱られた。
母が病気で入院して不在だった間は、まだ完全に新生児の下の兄弟の面倒を一生懸命みていた。生まれたての赤ちゃんの温かくて柔らかい身体を抱いてあやすのが楽しかった。とにかくかわいくてしょうがなかった。数ヶ月もの長期にわたって母がいない、一度も見舞いにいけず会うこともできないという状況の不安感は全然覚えていない。
小学校に上がってからは、家業の手伝いもした。主に電話番やお使いぐらいだったけれど。

暇だったわけではない。
気がついたら小学校の3年生ごろには習い事をいくつもかけもちしていて、放課後に同級生と遊ぶ時間はほぼなくなっていた。ピアノに水泳、書道、学習塾、その他もろもろ。
私が自ら「やりたい」と望んで始めたものはひとつもなかった。もともと競争心や向上心の薄い私は、どの習い事も真面目に通いはしても、うまくなろうとか、他の子よりいい成績をとろうとか、そういうモチベーションがまったくなかった。どう考えても月謝の無駄でしかない。
そのことを大人になってから親に尋ねたところ、「だってあんた自分で辞めたいっていわないから」という答えが返ってきた。

それから、うちは子どもはテレビを観てはいけないとされていた。観ていいのは夕方6時か7時台に放送されている子ども向けのアニメ番組かNHKの大河ドラマだけで、それも、テレビの前にきちんと座って、観ている間は一言も言葉を発してはいけないというルールがあった。
当時流行っていた国民的お笑い番組や歌番組はみせてもらえなかった。
テレビゲームも買ってもらえなかった。テレビもゲームも何がいけないのか説明された記憶はない。

ここまで読んだ人の中には、なんとなく「なんだか窮屈そうだな」と感じる人もいるだろう。
でも私自身は、長い間、そうは思っていなかった。

何かといえば殴られ、蹴られ、投げ飛ばされ、さまざまな体罰をうけながら、それは全部「自分が悪いから」としか思っていなかった。

暴力を奮われた時点で体罰の理由なんか完全に吹き飛ぶようなパニックに陥っていたにもかかわらず。


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