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絶対に忘れたくないこと

2011年3月11日は、東京の自宅にいた。
たまたま仕事が休みで、3時15分に歯医者の予約を入れていた。
2時46分、歯医者に向かおうと玄関を開けたそのときに、地震が起きた。
その当時は古い木造家屋に住んでいたので、地震でドア枠が歪んだら開け閉めができなくなる。扉を開いたままにして、まだ買って間がなかったiMacが倒れないように手で押さえて、揺れが止むのを待った。

揺れが収まってから、本棚から落ちた本は帰宅してから片付けることにして、玄関に鍵をかけて歯医者に向かった。
最寄駅に着くと、異様な光景が広がっていた。

電車が止まって駅が閉鎖されたらしく、駅前が運転再開を待つ人で溢れていた。
再開の目処はなかなか立たず、その間にも、駅と駅の間で停車した電車が徐行で到着して、降ろされた乗客が駅前に追い出されてくる。
狭い駅前広場は立錐の余地もないくらいの黒山の人だかりになった。

大きな余震が電柱をぐらぐら揺する。
勢いよく揺れる電線がブンブンと異様な音を立てる。
近くの保育園から駅前広場に避難してきた子どもたちが泣く。
駅の向かいの交番には7人も警官がいるのに、どうしていいのかわからないらしく、ただ手を束ねて立ちすくんでいる。

数分の間そこにいて、運転再開はしばらくなさそうだと判断し、携帯電話で歯医者に連絡しようとしたら、通じなくなっていた。

これはどうもただ事ではないのかもしれない。だとしたら今日はもう歯医者には行けないから、出たついでに夕食の材料でも買って帰ろうと踵を返し、いつものスーパーに立ち寄ったら、商品がたくさん床に散乱して、臨時休業になっていた。ではコンビニにと思ったら、コンビニもやはり臨時休業になっていた。

仕方なく家に戻ってテレビをつけたら、仙台空港の駐車場に津波が到達し、車が何台も押し流されている光景が画面に映っていた。


それからまもなく、私は復興支援ボランティアの活動を始めた。

いちばん最初は食事支援。瓦礫撤去。家財出し。清掃。漁業支援。農業支援。イベントのお手伝い。ニーズ調査。傾聴。お祭りの綿菓子配布。土木工事。薪割り。草刈り。写真洗浄。勉強会や研究会、シンポジウムの開催。

やれることは何でもやった。
できる限りのことはしたと、自分では思っている。

他の地域の災害復興支援活動に参加したら、東北の経験を買われて、マニュアルやテンプレートの作成にかり出された。

そういう私にも、どうしてもできないことがひとつあった。

被災した子どもの世話だ。

一度、深刻な被害を受けた地域の子どもたちの教育支援を振られたことがあったけど、どうしてもできる気がしなくて、無理やり断ってしまったことがある(災害復興ボランティアは原則的にボランティアセンターから割り振られたタスクを断れない。断る場合はボランティア活動には参加できない)。
子どもたちの前で、どんな顔をすればいいのか、どうしてもわからなかった。

でも、子どもはいつまでも子どものままではない。
被災当時高校生だった羽生結弦選手がオリンピックに出場して世界的アスリートにまで成長したように、小学生だった子もいまは全員18歳以上になっている。

あるイベントで出会った女の子は、大学進学で東北を離れ、周りに誰も震災や原発事故のことを話せる人がいなくて、とても孤独で苦しい。地元を離れるまでこんなことになるなんて想像もしなかった、と話してくれた。

津波で居住不可となった地域に住んでいた男の子は、物心ついたときから仲の良かった幼馴染みたち全員がてんでばらばらに転居して気軽に会えなくなって、本音で語り合える相手がいなくなったと話してくれた。

きっと彼らは、言葉にできない思いを胸いっぱいに抱えているのだと思う。
子どもの語彙力は大人よりずっと少ない。
だから、幼くして体験した悲惨な出来事の数々を、問わず語りに共有できる存在がとてもたいせつなのだと思う。

大事にしてたモノや家や家族を失った悲しみや苦しみや悔しさ。
暖房もまともな寝具もなくて、寒くて眠れなかったこと。
水も食事もおやつも着るものも何もかも足りなくて我慢ばかりしていたこと。
体育館や校舎が避難所になって、校庭に仮設住宅が建っていて、長い間、普通の学校生活ができなかったこと。
仮設住宅が狭くて寒くて暑くて、劣悪な生活環境すら黙って耐えなくてはならなかったこと。
つらくても周りみんな同じような境遇だからと、自分を抑えつけるしかなかったこと。
自分の身に起きたことを信じたくない、信じられない思い。
まだ子どもだから、自分一人の足でどこかに逃げ出すわけにはいかなかった。
逃げ場なんかどこにもなかった。

何も話さなくても、心の中の、残酷で過酷で悲しくて悔しくて寂しくてままならないことだらけで、自分でもうまく向き合えないことを、ただわかってくれる、わかってあげられる、そういう友だちが、あのころ、子どもたちにとって重要な支えになっていたのではないだろうか。

地元を離れて孤独だといっていた女の子は、その後、大学を辞めて働いている。
幼馴染みと会えなくなったという男の子も、大学を中退して、別の大学に入学し直している。

見た目にはごくごく普通の彼らにも、彼らにしかわからない苦悩があるのだと思う。
それは誰かが何かして助けてあげることはできない。
彼ら自身で乗り越えていかなくてはならない、それこそ茨の道なのだろう。


昨シーズンに史上最年少でノーヒットノーランを達成し、今年、ワールドベースボールクラシックでも注目を集めた千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希投手は、9歳で被災して父親と祖父母を失っている。

最近になって、3月に放送されたドキュメンタリー番組「情熱大陸」を視聴したけど、故郷・陸前高田市でインタビューに答える場面でも、いつものように、言葉は少なかった。

私が東北地方で出会った男性には、口が達者な人はあまりいない。どちらかと言えば無口、口下手、口が重い人が多い。極端な人だと、丸一日そばにいても、声を聞くのは一日2回ぐらいなんて人もいる。

出身地で人をジェネラライズするのはいいことではないかもしれないけど、私はそういう、東北の男の人の「男の子っぽさ」がとても好きだ。
うまく喋れなくても、何とか態度で示したいと不器用ながら気を遣う優しさや、気持ちをこめてどうにか話そうと逡巡する生真面目さに、胸があたたかくなる。

佐々木投手も東北人らしく、シャイで口下手で、インタビューも訥々と、途切れ途切れに言葉を繋いでいくような話し方をする。

その言葉と言葉のあわいのしじまに、彼がほんとうに心の裡に秘めた思い、蓋をして仕舞い込んできた記憶の重さ、乗り越えられなかった感情のさまざまな感触が、じわじわと伝わる気がする。


震災から12年経ったけど、時間だけが過ぎて、被害そのものはいまも続いている。
もしかしたら、このままずっとずっと、誰もが思うよりも長く、それは続いていくのかもしれない。

忘れる人もいる。
すでにもう忘れたという人もいる。
そもそもよく知らないという人だっている。
そんな昔のことはもうどうでもいいという人もいる。

だけど。
だけどね。

私は忘れたくない。

2011年3月11日のあの日からこれまで、1日たりとも、東北のことを忘れた日はない。

いまは復興支援活動からは離れているけど、心だけは、東北の人たちとは離れたくないと思っている。

彼らが口に出したくても出せない、胸の中にしまって堪えている気持ちを、いつかわかりたいと、ずっとずっと願っている。


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