「屍者、躙る」小説:PJ18
はじめに
本作「パラレルジョーカー」には、暴力、暴言、戦争や著しい差別などの描写を含みます。
それに伴い、グロテスクな描写、憂鬱な気分にさせる描写を含む為、苦手な方は本作を読む事をお控え下さい。
また、本作は創作物であり、実在するあらゆるものへの批判や、思想の拡散を目的とした物では無い事をご理解下さい。
01話はこちら。
目次について
本作では本編中の場面転換を軸にnoteの「目次機能」による見出しを付けております。
表記は「 ✕✕✕ 」が大きな場面転換。
その後に付く「 01の零 」など、末尾の漢数字を見出しの番号代わりとしております。
例外として、長い節にも小見出しによる区切りを付ける場合がございます。
しおり代わりにご活用ください。
18 屍者、躙る
全身を使って投擲された短剣は回転し、夜風を千切って鋼の円を描き赤黒い獣の左前肢を斬り飛ばした。
右の短剣を投げ付けたグリーセオは其れを追う様に駆け、体勢を崩して落ちる獣目掛けて跳び、砂地に組み伏せる。
暴れる獣の首を空いた右手で鷲掴みにし、左の短剣を逆手に持ち替えたグリーセオは、体重を乗せて鋒を獣の胸元に突き立てた。
『クソッ! クソ、クソ! 奪うな……! 何もかも持ってるクセに……オレから……ッ!』
耳に入る獣の悲鳴とは別に、獣の胸部を突き刺した短剣を伝って左腕から脳裏へと声が響き、グリーセオは目を見開く。
その一瞬で、赤黒い獣の姿が揺らぎ、煙と化して風に乗って流れ、グリーセオの手から滑り出した。
はっとしたグリーセオが短剣を振るえば、煙は揺らいで変形し、瞬く間に収束して獣の形が――いや、現れたのは獣と人を混ぜ合わせた様な灰色の影だ。
四肢を突いて地に伏せる其れは手足の先から頭へかけて像を結び、襤褸を纏う獣と人間を掛け合わせた様な姿に成り、垂れた襤褸の奥から、憤怒を籠めた琥珀の双眸がグリーセオを睨む。
「カァニダェェ……」
呟かれた声は人のそれであり、グリーセオがそうと認識するや否や、靭やかな灰色の肢体が跳び上がった。
グリーセオは咄嗟に短剣を構え、頭上から来ると睨んだ攻撃に備えて短剣の峰に右腕を添える。
衝撃は直後、短剣越しに伝わり、グリーセオは膝を突いて骨身を軋ませる膂力を受け止めた。
灰色の獣人が硬い外皮に覆われた右脚を振り下ろして来たのだ。
敵はそのまま、右脚を受け止めたグリーセオに対して何度も、体重を乗せては僅かに浮かせるを繰り返し、グリーセオが奥歯を食い縛って堪える内に、衝撃が止む。
攻撃を止めたのでは無い、グリーセオに振り下ろしていた右脚を素早く引き、その勢いを利用して左脚でグリーセオの顎を掬い上げる様な蹴りへと移行していた。
「――くぅっ、お!」
痛む体に鞭を打って上体を反らすグリーセオは小さく悲鳴を上げて、顎先を掠めた鋭い爪先にひやりとし乍ら、今度は腹に力を込めて前転する。
「クソォッ!」
毒突いたのは灰色の獣人。砂を穿ち、舞い落ちる砂の音を背後で聞きつつ、グリーセオは振り向き様に短剣を薙いだ。
剣戟に似た音が響き、脇腹を斬り付けられた灰色の獣人が後退る。
その背後で、長槍を構える者が居た。
風切る音も無く突き出される漆黒の長槍に、灰色の獣人は振り向く間も無く腹を貫かれ、遅れて悲鳴を上げる。
腹から突き出た槍を掴み、引き抜こうと藻掻く獣人へグリーセオは駆け出し、獣人の左肩を掴まえてその首を刎ねた。
悲鳴は途絶え、力無く垂れた四肢を見たグリーセオは小さく溜め息を零して、灰色の体を背後へ押し出す。
それと同時に若い騎士が突き刺していた長槍を引き抜き、グリーセオと彼はお互いを見る事無く残る敵――ハンソーネと小柄な女性騎士、そして逞しい体躯に見合う大剣を振るう騎士が対峙する、炎の獣へと向き直った。
「クソ、クソッ……大失敗だ」
声と共にグリーセオは襟首を掴まれて引き倒され、二度三度と振り回されてから投げ飛ばされる。
砂原と夜空が何度も行き交い、二秒近く宙を踊らされたグリーセオは腹から砂地に落ちた。
肺から無理矢理押し出された息に咳き込み、息を荒らげて顔を上げた先で、長槍を奪われ足蹴にされた若い騎士の姿が映る。
「やめろ……!」
叫び、駆け出そうとしたグリーセオの脚が萎え、砂地に膝を突いて服越しに傷を押さえた。
(動け……まだ間に合う、まだ……!)
胸中で叫ぶ意志に反して疲れ切った全身は震えるのみ。
耳の奥で響く、地鳴りの様な音を聞くだけで精一杯だった。
✕✕✕ 18の二
赤味掛かった岩盤の上、点々と散らばっていた十二のた肉塊達は互いを縁とする様に寄り添い合い、然し何が起こるでも無く蠢いている。
濡羽色の外骨格を纏う、悪魔とでも形容すべき姿に成ったトラゲは、背を預けていた砂岩の壁から離れ、長い尾を揺らして溜め息を吐いた。
「……成程、失敗作は一目見れば分かる、か」
鋭利な爪の生えた趾行性の足が、一歩岩盤を踏む度にきしきしと音を立てる。
引いた潮が再び寄せる様に、奇妙な気配が俯せたままのライガへ向かっていったのはつい数分前。
ライガも目覚めず、地の底に取り残されたトラゲに出来る事は、今頭の中に浮かべた事の他に思い付かなかった。
こんもりとした山になった肉塊達へ近付き、トラゲはその一つへ手を伸ばして、鋭い爪を立てて拾い上げる。
大した抵抗も無く、悲鳴も上げずに蠢き続ける肉塊を見詰め、トラゲは大きく息を吸って顎を開いた。
躊躇うよりも速く顔を、腕を動かして肉塊を齧り、食感を意識しないように乱暴に咀嚼して飲み下す。
フェリダー共和国の戦士は、自身が使用していた駱駝が衰え始めた時に止めを刺し、その肉を食ってから次の駱駝を領地より受け取る風習があった。
トラゲもまたその例に洩れず、自身が使用していた駱駝の他にも、部隊の仲間が駱駝を新調する際にもその肉を食べた事があり、貴重な肉の味を忘れられた事は無い。
だからこそ、今齧り付いた肉が駱駝のものでは無いと、意識を逸らしていても理解してしまった。
変化する瞬間は疎か、肉塊と化した何れにも元の特徴が無い為に、どれが誰だったのかは分からない。
然し――そう心に浮かべて、トラゲは二度、三度と肉塊に齧り付く。
状況を見て、冷静になった頭では、この肉塊の内の九つは部下だった者達の姿だと確信していた。
フェリダー共和国、その全土は高濃度のマギニウムに汚染されている。
濃度が幾ら高くとも、人間程度の大きさ――立方にして一メートルから二メートル程度――であれば、余程の事が無い限り人体への影響は皆無だ。
だが、其れが飲み水に接していたり、粘膜で接触する、又は人体に影響を及ぼす魔法を持っているのなら、話が変わってくる。
フェリダー共和国の岩盤は、その内二つの条件を満たしていた。
井戸水や川は必ず岩盤を通って人々の手に渡っているし、長い年月を経ても尚謎に包まれている岩盤が持つ筈の魔法は、確実にフェリダー共和国の人間を変化させている。
変化の最たる例が、フェリダー共和国人の血液だ。
百年ほど前、西のカーニダエ帝国や、北のグラーツィア山を越えて斥候が持ち帰ったものと照らし合わせて、その事実が判明した。
フェリダー共和国人の血液と比べ、他所の人間は血中のマギニウムが極めて少なく、治癒力や耐久性もまた、フェリダー共和国人よりも低い。
恐らく世界で唯一の特徴は、皮肉にもフェリダー共和国の人間が今日まで生き永らえた理由であったし、生体兵器の開発を実現させた理由にもなっていた。
――紅血。
そう名付けられたフェリダー共和国人の血は、直接魔法を操る為の媒質として作用し、『心意式』を冠する複雑な魔法を比較的高い確率で制御できる。
そしてその効率をより高めるのは、血中のマギニウムを更に濃く、多くする事。
トラゲが感情を殺して肉塊を喰らう理由が、其れだった。
✕✕✕ 18の三
白銀の兜が宙を舞う。
炎と共に蹴り上げられた獣の後肢を睨んで、ハンソーネは鋭い吐息と共に細剣を突き出した。
炎の獣、その左後肢を穿いた〈トロンバオネ〉が熱されるより速く、ハンソーネは息を吸って剣身を縮めつつ引き抜く。
白銀の細剣〈トロンバオネ〉に込められた魔法は、反応式空間伸縮魔法。
主であるハンソーネの鋭い呼気と吸気に応じ、剣身に限定した空間が伸縮する魔法の前では、如何に硬い鎧であろうとも容易く断ち斬られる。
外骨格ごと炎を発する膝関節を穿たれた獣は呻き乍らも体勢を変え、火柱を上げて旋回し、ハンソーネの左脚を狙って大口を開けた。
(似た動きを散々見ているッ!)
胸中の怒号を乗せた呼気と共に突き下ろした細剣の鋒が、獣の顎関節を貫き砂原に縫い止めた為に、勢い余った獣の顎が裂ける。
ハンソーネはその傷口を更に広げる可く、吸気と共に細剣を振り上げた。
肉の裂ける音と、薄い金属が拉げる様な音が立ち、血を滴らせて白銀の刃が夜空の元に現れる。
顎から項迄を斬り開かれた獣はびくびくとのた打ち、此方を見上げる橙色の瞳を冷たく見下ろしたハンソーネは、獣の頭を踏み潰して砕いた。
そうした右足を抜き、血に汚れた細剣を払って背後を振り返る。
「…………おい、もう一体は……ヨハンとグリーセオは何処だ!」
ハンソーネよりも早く事態に気が付いていたらしい二人の騎士――小柄な女性騎士、ツィンクと、彼女の倍はある体躯の男性騎士、バストロは身構えたまま周囲を駆けていた。
「分かりません……! 隊長、俺はアキッレ男爵を……!」
「任せた、死なせるなよ」
早口に答え、ハンソーネは駆け出す。
ツィンクの傍らに立ち、互いに別方向へ目を凝らして、ツィンクが声を上げた。
「隊長! グリーセオです!」
「頼む、私はバストロを」
一瞬間だけ目を見交わして指示を飛ばし、ハンソーネは手近な砂丘を駆け上がる。
視点が大きく変わるほど高い丘では無いが、それでも広い視界を確保するには充分な高さがあり、ハンソーネは周囲を何度も見渡した。
通り過ぎた砂岩製の集落は夜闇に溶け込む程に遠く、争う音が微かに聞こえる方――南には目指していた集落らしき影が見えるも、後は夜空と砂漠のみ。
何度も、何度も目を凝らして全周囲を見渡し、ふとハンソーネは違和感を覚えて視線を向け直した。
理解すると同時に、ハンソーネは駆け出す。
「警戒を続けろ! まだ潜んでいる!」
叫び、先程炎の獣を仕留めた位置へ。
見間違いでも思い過ごしでも無く、火炎を発していた獣、その山吹色の死体が、消えていた。
付近にあるのは、獣に弾き飛ばされたハンソーネの兜のみ。
ハンソーネは兜を拾い上げて、苛立ちの儘に砂地を蹴り付けた。
「……クソッ!」
巻き起こった小さな砂煙が漂い、掻き消える。
敵と仲間の姿を探すハンソーネを嘲笑うかの様に。
✕✕✕ 18の四
「おいおい、コレ、治んのか……?」
男の声がして、彼は目を覚まし、飛び起きようとした。
然し、意思に答えたのは胴体だけで、彼は四肢に、その中程に強烈な痛みを覚えて呻く。
「ああ、起きたか。フランゲーテ人も頑丈なモンだな?」
痛みにちかちかとする視界に、獣とも人ともつかない襤褸に覆われた顔が現れ、砂を這ってでも逃れようとした彼の目に、上腕の半ばから先の無い自身の右腕が映った。
それも一瞬。彼は前髪を掴まれて怪物の顔と向き合わされる。
「おい、治療魔法は? 道具、ねぇのか?」
彼の心は痛みを忘れ、目前に迫った死に空白と成り、必死に頭を振った。
「そうかぁ……じゃあ、食わせれば治っかなぁ……。イヤだけど、食わせてダメならオレが食えばいいかぁ」
怪物は彼に興味を失った様に顔を背けて、彼は何とは無くその視線を追う。
砂原の上に、頭部を破壊された獣らしき肉体が転がり、生きているのか反射なのか、其の四肢がぴくり、ぴくりと空を掻いていた。
ぱっ、と彼は怪物から手放されて、左耳を砂地に付ける形で落ちる。
目は頭の無い獣の方を向いており、彼は恐怖と絶望に硬直したままだった。
「あー、めんどくせぇ」
呟いたのは怪物だ。
怪物は彼に背を向けたまましゃがみ込んで、何か作業をしている。
其の作業は直ぐに終わったようで、振り返り様に怪物の手から何かが零れ落ちた。
いや、捨てられた。
砂地に落ちた其れは、彼――ヨハン・シャリュモーの左手にあるべき指輪だ。
そう認識した途端、ヨハンの目からは涙が溢れ出す。
「やめてくれ、やめて……」
ヨハンのか細い声に怪物が振り返って、凶暴な顎が嗤った。
怪物はそのまま何も言わず、見せ付ける様に頭の無い獣の首を掴み上げ、その喉らしき部分に、ヨハンから捥ぎ取った左手を押し当てて握り潰す。
「生体兵器ならさ、死なねぇんだろ? 食わせりゃ治るといいけどなぁ」
態とらしく語り、獣の喉へ磨り潰した肉と骨を送り込んで、怪物は笑った。
泣いている内に、ヨハンの意識は遠のく。
只の悪夢であれば、何れほど良いだろう。
そう祈ったまま、ヨハンは絶命した。
✕✕✕ 18の五
或る者は涙していた。
生まれ乍らの格差を埋める為、鍛錬と勉学に費やした日々が無に帰する革新、其の足音が背後に迫っている。
倫理を捨て、忠義を尽くし、戦い続けた果てが、生命活動の終わりか、人間としての終わり。その何方かしか無かった。
後は、再び目覚める時を待つのみ。
或る者は自由だった。
幼い頃に見出した真実、其れは十余年を経た今でも変わらず、如何なる魔法をも受け付けない絶対の摂理として屹立する。
絶対的な理があれば、その他に守る可き事も、従わねばならない事さえ己で決め、気に入らなければ抗えば良い。
唯一つの論理によって、其の者は自由だった。
或る者は痛みに苛まれていた。
いつまでも、只繰り返し続けていくのだと確信していた日常が破壊され、焼き尽くされて、跡形も無い。
そこに丁度敵が居て、試みは小さな成果と成り、胸の裡を焼き続ける憎悪に焚べられた。
胸の痛みは、復讐で和らぐのだと知る。
或る者は光を持っていた。
白と黒の二色に斬り分けた心根は、何方でも在り続ける己を理解し、決して忘れない為の楔。
其れは剣の鋭さを増し、迷いを断ち斬り、役割を明らかにする。
白を纏う己こそ黒であると、認めていた。
或る者は祈り続けていた。
辺りに散らばった人の破片、其の中に蹲って、身を焦がす炎に堪え乍ら、己の肩を抱く。
自分だけなら、何れほど良かっただろう。
悲愴な義弟の顔を想って、戦火が自分で留まる様にと、祈り続けていた。
✕✕✕ 18の六
心臓から熱が帰って来た。
冷え切った体でも分かる程に地面は冷たく、其処に付けた体の前面に感じる硬い感触から、俯せていたのだと知る。
掌を地面に突いて、軋む体に小さな呻き声を上げつつ身を起こした。
「遅いお目覚めだな、ライガ」
重たい瞼を持ち上げ、声のした方を見ると、二メートル弱はある痩身の所々に濡羽色の外骨格を纏う者が、ライガを見下ろしている。
ライガは彼女の全身を見遣り、硬い地面――いや、岩盤に座って血腥い空気を吸い、重たい息を吐き出した。
「……トラゲ、お前…………何をした?」
迷った末に訊ねたライガに、トラゲは目の無い顔を逸らして、長い尾を揺らめかせる。
「私がした事は機密だ。だが誤解の無いよう、これだけは言っておこう。変革の起点はお前だった。ライガ」
再び向けられた漆黒の頭を見詰め、ライガは立ち上がった。
「……そういう事を聞いてんじゃねぇよ。仲間を喰ったよなって確認してんだ、オレは……!」
「――そういう事か……。それなら、ああ……そうだな。お前が発した魔法で、私はこの姿に成り、他の奴等は蛆虫の様な肉塊に成った。無為に這わせるよりも生体兵器の糧とする方が良いだろう」
淡々と語るトラゲの許へ歩み、ライガはトラゲの顔、下顎の辺りを鷲掴みにする。
「テメェが生体兵器? ふざけんな! 生体兵器は簡単には作れねぇ、テメェは紛いモンだッ! オレがぶっ壊してやるよ……!」
怒鳴るライガはトラゲの顔を掴まえた右手に力を込め、其の肘から先、手首までが深紅の外骨格を纏う異形に変化し、然し、トラゲに触れている右手は人の形のまま、少しも変化しなかった。
「――なに」
呟く間にライガの右手は振り払われ、外骨格がその衝撃に驚いたかの様に引っ込んでいく。
「仮に紛い物であったとて、私が同化したのは接触式強制停止魔法。私を殺すか、私自身が望まねば、お前に手出しは出来ん。人間であった時とは違うぞ」
濡羽色の頭部から厳然たる視線を感じて、ライガは俯いた。
トラゲの姿を見る前、覚醒の直前に岩盤から受け取った夢現。
其の膨大な情報の中に在った五つの強い意志、その中の一つは彼女だったのだと妙な確信を得て、眩暈を覚えた。
「……好きにしろよ」
小さな声には短く鼻を鳴らす様な音だけが返される。
ライガから離れる足音がして、ライガはそれ以上トラゲの姿を見ないように、足音に背を向けて辺りを見回した。
周囲は円形に落ち窪む地の底で、十メートルは下らない砂岩の壁が立ち塞がっており、他には僅かな血の跡だけ。
吐き出したい溜め息を堪えて緩く弧を描く砂岩の壁に近付き、両手足の先に力を込める。
トラゲに触れていた時は出来なかった変化は、此れ迄の通り何の滞りも無く起こり、深紅の爪を形成した右手を壁に突き立てた。
易々と傷付いた岩壁から、長く掴まっていては崩れてしまうと理解し、ライガは素早く手足を動かして登って行く。
岩盤から離れれば離れる程に広がる夜空の黒は重たい。
壁を形作る物が砂岩から砂へと変わる瞬間、ライガは全身に力を込めて大きく跳び上がり、地上――〈リトラ砂漠〉の砂原に足を着けた。
「流石に慣れているな」
トラゲも同様にして登って来たのだろう。
ライガより少し離れた位置から、砂を蹴る様にして穴の縁から這い出したトラゲは、立ち上がり様に右手を振るって何かを放る。
「忘れ物だ」
そう言ってトラゲが投げ寄越した其れを掴み取り、ライガは何の感慨も無く漆黒の柄を腰帯に差した。
ライガの得物〈コルヌ〉は、柘榴色の剣身を失っている。
取り敢えず腰帯に差しておけば移動の邪魔にはならないので大人しく受け取っておき、ライガは南へ向けて歩み出した。
「何処へ行く。此度の作戦は失敗だ。基地に戻れ」
背後からトラゲが呼び止め、ライガは南方を睨んだまま歩速を緩める。
「敵はまだ残ってる。逃した訳じゃねぇ」
「何を根拠に言っている?」
「ホンモノの生体兵器としての勘だ。あと少しだ。オレなら――」
「また叩きのめされるだろうな。今度は基地から遠い位置で、回収もされず、今度こそ止めを刺される」
「オレが」
「負けるさ。中途半端な状態でその存在を晒し、多くの民の死を無駄なものとし、死ぬだけだ」
南から、微風が吹いた。
ライガは足を止め、奥歯を噛み、ゆっくりとトラゲに振り向く。
顔の無い濡羽色の頭が、嘲笑う様に傾けられていた。
「忠告はした。……が、止めはしない。お前が行くのなら、後はこの身とコドコドを使うだけだ。紛い物であろうと貴重な戦力には違い無い。国も、制御不能な真作よりも自ら忠誠を誓う贋作を喜ぶだろう」
「……オレに国は関係ねぇよ」
「そうか。では、健闘を祈る」
言って、身を翻し歩き出すトラゲの背を見て、ライガは行き場の無い怒りを自覚する。
心臓に手を当て、目を閉じ、再び開いた瞳で変わり果てたトラゲの姿を見詰めた。
「……トラゲ、お前は何がしたい?」
ライガの問いに、トラゲは億劫そうに顔を向けて、また北へと戻す。
「さあな」
呟かれた声は小さく、砂漠の静けさにも負ける程に弱かった。
「――四人。アンタの他に、恐らく南に居る生体兵器モドキの数だ」
凛と張った声にトラゲの足が止まる。
ライガはもう、その姿を見ていなかった。
心音が響き、ライガは肉体を深紅の獅子へ変え、呼吸を整える。
「オレは行く。まだ生きてるなら……生かせるのなら、オレは…………オレが生きる為に、敵を殺す!」
それだけ告げて、ライガは駆け出した。
夜半の冷えた風を切り裂いて、深紅の獅子は走る。
南へ向け、只管に。
✕✕✕ 18の七
深夜、冷え切った〈リトラ砂漠〉の暗色よりも深い、夜の空を映す無辺の〈オキュラス湖〉を過ぎ去って、フェリダー共和国の土地へ踏み込む集団が居た。
その数、三十二騎。先導役である二騎は青碧色の熊――エクゥルサに跨る〈第三ナスス駐屯基地〉の兵士であり、彼らに続く三十騎はエクゥルサとも馬とも異なる動物兵器を駆って砂山を越えていく。
ずんぐりとした巨体に似合わず軽やかに砂を蹴り、進行方向を指す様に頭部から突き出した二本の角を持つ黄土色の牛――クラクホンは、その腰や肩周りに荷物を載せ、革製の鎧を着せられ、更には騎士と見紛う程に甲冑を着込んだ戦士を乗せても尚、砂原を走行してみせていた。
筋肉質な巨体を揺らし、〈オキュラス湖〉を背にしたクラクホンが速度を落とし始めたのは、フェリダー共和国ジマーマン領が西端〈スナド戦線基地〉が広げた砂岩製集落の最外周部へ差し掛かった頃。
集団の先頭を駆けていたエクゥルサも同様にして速度を落とし、それ以上の行軍を嫌がり出す。
「……ヘルマン、無理に進むか陣を張るか、どう思う?」
クラクホンを宥め、北東に見える建物らしき影に目を凝らした女が訊き、傍らで仲間の様子を窺っていたヘルマンと呼ばれた男は項を掻いた。
「んん〜。俺達らしいのは気にせず進む、だけどなぁ。コイツらがこんなに嫌がるのは久々だ。この先は確実に怖い。やる気のある奴に乗り換えて、少数が先行か?」
のんびりと答えたヘルマンを見て、女は自身を乗せたクラクホンの首を軽く叩く。
「グラス、お前が行けないとあたしは困るんだけど」
女に言われたクラクホン――彼女の相棒であるグラスは、鼻を鳴らして背に跨る女を気にする仕草を見せた。
「分かった分かった、細心の注意を払えってな。
――ヘルマン、あんたは此処で指揮。精鋭五人を選べ、あたしと先導役一人合わせて七騎。それで先行、様子を見て慎重に進む」
「了解」
女の指示に短く答えたヘルマンはクラクホンを回頭させ、部下に指示を伝えに行く。
それを見た女はクラクホンを歩かせて、此方を見詰めていた先導役の兵士達の元へと進んだ。
「ちょっと予定変更。あの集落をアンタ達の何方かと、あたし含めた七人で偵察する。その間、もう一人は此処で動きを待て。ナススのやり方とあたしらのやり方で混乱すると思うが、合図は見逃すなよ」
女の指示に二人の兵士はカーニダエ帝国式の礼を見せ、滞り無く二手に別れる。
女はそうする二人を視界の隅にやって、北東、奇妙な静けさに包まれた集落の影を見詰めた。
「マリアンヌ隊長、何か見えますか」
問うたのは兵士だ。
女――マリアンヌはちらと兵士を見遣り、再び集落の影へと顔を向ける。
「……奇襲小隊はあの集落を攻撃したんだよな?」
え、という声にマリアンヌは兜越しに頭を搔き、姿勢を崩した。
「何でこんなに静かなんだ? そりゃあ〈スナド戦線基地〉へ奇襲小隊が向かったら、そっちに逃げる訳にも、他の集落に向かう危険を冒す訳にもいかないのは分かる。
……けどよ、人が息を潜めてる場所ってのはもっと露骨だ。フェリダーの人間がみんな暗殺者だってんなら分かるけど、そんな筈は無い……だろ?」
訊ねられ、兵士は首を捻る。
「私めには、何とも…………。攻撃によって数人しか残らなかったのでは? 若しくは、何らかの理由で一人も居ない、とか」
「誰も居ないのにクラクホンが、それにアンタらのエクゥルサが怯えたりはしないだろ。何かが居る……か、在るのは確かな筈だ」
マリアンヌに言われ、兵士は途方に暮れた様に俯いた。
「マリアンヌ! 揃ったぞ!」
背後から声が上がり、マリアンヌは振り返って右手を挙げる。
「よし、続け! 異様に静かだが何かある、気を付けろよ!」
マリアンヌの号令に各々の口調で返答が成され、七騎は纏まって駆け出した。
静けさの中、動物達の足音だけが響く。
つづく
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