短編小説「居処不明」
居処不明
湯気の上る珈琲を音を立てて啜り、口端を上げて、自嘲気味な顔を作る。
彼はそういう男だった。
「両の足で大地を踏む感覚が薄いのは、此処に居ないから。
心の拠り所を決め兼ねていて、絶えぬ流れに押し出される儘で、何かに縋る程度の勇気さえ持ち合わせていないからだ。
だから僕は友に光を見るんだ。
心の拠り所が見当たらなかったというのは、それは詰まり、家にさえ居場所を見出せなかったからだよ。僕の人生ではいつも、口先だけでこの目を見ようともしなかった役所で証明出来る繋がりの人達よりも、僕を批評し続けてくれる友、それだけが、其処にだけ繋がりを深く感じられたんだ。
例えば君がそうだ。君はいつも僕の話を真摯に聞いて――本心ではそうじゃなくとも、振りだけでも良いんだ。けれど、その振りを僕と居る間は続けてくれるだろう。それが良いんだ。
流れに浮かされて生きた心地のしない中、ほんの一時、この瞬間にだけ、此処に居られる。
そういう気持ちになれるから、良いんだ。
君がどう思っていようと、僕は君を友だと言える」
其れが、彼の自己評価の一つだった。
三十を目前にした男が言うには余りにも幼稚で、胃液でも迫り上がって来たかと思う程に私は顔を顰めた。
自己愛に満ちた人間の語る言い訳がましい人生観ほど聞くに堪えないものは無い。
しかし、彼は私が顔を顰めた事がいたく気に入った様子で、一際大きく耳障りな音を立てて珈琲を啜る。
いつだったか、彼の珈琲を啜る癖を指摘した時、彼はにこやかに『珈琲のテイスティングには空気を含むんだよ。ワインもそうだ。口中に広がる香りが違う』と、喫茶店の中で声高に言って見せた。
あの時、私が『公の場で味聞きをするものではないし、時も場所も選べない貴方には嗜好品の味など分かるか』等と言っていれば、今よりは幾らか苛立ちを軽減出来たかもしれない。
そう物思いに耽って、そっと珈琲を口に含んだ。
「君はどうだろう。君にとっての友とは、いや、君が友という存在を強く感じる瞬間はあるかな?」
礫をうたれた様な話題の後に答えたくも無い問いを投げ掛けられ、私は心底厭気が差し、彼と縁を切ろうという考えが項を擽る微風となって過る。
「…………真実を、人には言わない様な事を、時に打ち明けてくれる相手には、尊敬の念を抱くし、それでも尚関係を続けていられるのなら、そういう関係性を友と言う……そう思う」
彼と縁を切る言葉を幾つか肚の底から喉元まで出し掛けて、否、と口中で転がした珈琲と共に呑み込んだ。
彼とは只の一人と一人という関係では無いのだ。
私と彼には共通の知り合いが居る。其の人物は私の上司であり、私は上司に誘われて社会人を中心に構成された文芸同好会に入って、そこで彼と知り合った――いや、正しくは厄介者の彼を押し付けられたのだった。
私は保身の為に、達観した作家崩れという自己を演出する彼に付き合う事を選択したのだ。
余り名の知れていない系列店の珈琲を、渋味だけを感じる退屈な風味に貶めてしまったと密かに後悔し乍ら、私と彼は二時間程を潰し、喫茶店を背にして別れた。
『自己愛に満ちた人間の語る言い訳がましい人生観ほど聞くに堪えないものは無い』
傾いた陽で伸びた影が呑み込む路地を歩く帰り道、私は心に浮かべていた言葉を反芻した。
あれは、果たして彼への評価だろうか。
自身が他人を評価する時、そこには完全なる客観など存在しない。
そして、主観とは己の身の内から他者を見る事なのだ。少なくとも、今はそう思えた。
『両の足で大地を踏む感覚が薄いのは、此処に居ないから』
成程、確かにそう言う事も出来なくもない。
こうしてアスファルトを踏み、自宅へ向けて歩いていても、意識の大半は頭の中で渦巻いていて、三十年弱続けてきた歩行や直立には然したる問題が無い。
しかし、では、私が此処に居ると他の誰に証明出来るだろう。
彼は話の最中に何か、彼がああなった切っ掛けとも言える事を言っていた筈だが、私は心の底から彼を見下していて真に受けていなかったので、思い出せなかった。
例えば多くの人は、彼がそう結論付けた様に、友人や恋人、親族にその証明を求めるのだろう。
例えば私の様な何者をも信じない人間は、心臓が動き、思考して、他者が私を認識している事で自身が生きているのだと仮定し、反証する術が無いからこそ其れを証明の代替案として認識する。
しかし、その何方にも明確な証明としては心許無く感じられる。
前者は特にそうだ。
他者に自己の存在証明を求めれば、余程純粋な人間か同程度に白痴で無ければ、他者が導き出す答えを期待してしまう。
期待があれば、その問いには正答が発生する。
期待した答えが返らなければ、身勝手に答えを求めた上で相手に落胆するのだ。
だが、私は其れを悪い事だとは感じなかった。
人は、自身の答えなど深く考えなくとも一般的にはそうするものであるとして喜怒哀楽を表現し、曖昧に理解した言葉を用いて説明したり、他人を諭す事があるのだから。
態々何も埋まっていない場所を深く掘り下げなくとも、今日明日を生きて、数年後はどうこうしたい。老後にはこうなるものなのだ。そういう、所謂人生設計にだけ注力していれば、人並みという安心を獲得出来るのだから。
文芸同好会にしろ会社にしろ、私は其処に空虚さを覚えた。
その正体が、疎外感なのかと気が付いて足を止め、不意に差した夕陽に手を翳した私は、柔らかく息を吐いた。
では、少数派である私は、多数派である考え方に変わりたいのだろうか。
自問に僅かだけ首を傾げて、再び歩き出す。
たとい孤独であっても、其処に私が居た。
私の中にある、自身が此処に居るという仮定。その考えを肯定する事で、私は踏み出した足を確かに感じる事が出来た。
彼との関わりには心労が多く伴うが、馬鹿の哲学ほど思考の題材に適したものは無い。
一度否定した事を肯定し直し、私は其れに安心を得た。
三十を目前にした男が言うには余りにも幼稚で、改善の余地が多分にある自己を認識し、自己愛に酔うこと。
それを続ける事が、私が少数派だと仮定した人間の生きる道なのだ。
低い度数の酒でも飲んだ気になって、私は夕陽に照らされた。
車通りの多い橋を渡れば、自宅がある。
其処に着けば、今日の思案を文章に纏めよう。
足取り軽く歩く男は、傍から見れば其処に居て、然し、その意識ばかりはその場所に居なかった。
終
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