小説「枯らす少年と死なずの少女」一

  はじめに

 本作「枯らす少年と死なずの少女」は創作物である事を理解した上でお楽しみください。
 また、作中には『死』や『怪我』の描写が含まれます。
 苦手な方はご注意ください。

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  枯らす少年と死なずの少女

 何年経っても忘れられないものはなんだろう。
 どうしても忘れられなかった。というのは、その時が来るまで分からない。
 けれど、忘れたくないと、そう思えるものなら、自分で決められる。
 終わりが無いとして、それでも僕は、イーファという人の事をいつまでも忘れたくない。
 生まれて初めて、そう思った。

   一 蜃気楼

 新緑の野に、暗灰色の蛇がいる。
 途方も無く大きく、じわじわと進む蛇だ。
 これはいけない、ここに居ては危険だ。

 山の中腹から『蛇』を見付けてそう考えた栗鼠りすは、齧り掛けの木の実を手放し、大急ぎで蛇とは反対の方向へと駆け出す。
 栗鼠は気が付かなかった。彼が蛇だと思った彩度の無い野原は、動物そのものでは無く、一人の少年から広がる死の世界なのだと。
 いや、そもそもそんな事象を理解出来る動物などいない。
 本能的に異常を察して逃げるか。それとは気が付かないまま死せる野に踏み込み、命を絡め取られるか。その何方どちらかに別れるだけだった。
 植物も動物も、土や水、空気までもが干涸らびる無彩色の一帯で、襤褸布ぼろぬのを纏った少年は歩く。
 進めど進めど、彼を中心として広がっていく遺骸の上を、ふらふらと、空腹と寂寥せきりょう感に顔を歪めて、ただの歩みを続けていく。
 昼が過ぎ、己の影に先を行かれ、それを追う内に夜闇が降って、瞬く星々と夜行性動物達の騒めきを耳にして、体力の限界と共に少年はくずおれる様に眠りに着いた。
 日が昇り、陽光が白と黒の野原を明らかにする頃、少年はまた目を覚ます。
 口中に紛れ込んだ灰だか砂だか分からない物を吐き出して、口元を拭い、眠る前と然程さほど変わらない景色に絶望を覚えて、また、歩き出す。
 疲れてはいないが、疲れた気がする。
 死んではいないが、生きてもいない気がする。
 何を求めているのかは分からないが、何かに――誰かに会いたい気がする。
 ぼんやりとかすみ掛かる、不安の様な、得体の知れない何かに背や足の裏をくすぐられて、少年は歩き続けた。

 彼が初めに目を覚ましたのは、もっとごつごつとした、直線混じりの瓦礫がれきの中だった。
 何も分からなかったが、体を動かせる事を知っている様に、頭の中に浮かぶ『音』を口から発して、辺りを見回しながら歩いたのが始まりだ。
「おーい」
「だ、だれか」
「いきてるか? だれか、だれか」
 そういった事を鳴いて、歩き、二時間もすれば鳴き疲れて、歩行に集中する事にした。
 少年が目を覚ました辺りは枯れない物が多く、またいだり、登ったり、下りたりしないと足を引っ掛けて仕様がなかったのだ。
 やがて、幾日も歩き続けた果てに、少年は枯れない物の集まりから外れた。
 少年が歩くのは硬い地面から、ぐしゃりと音を立てて僅かに足が沈み込む、柔らかいと言うには心地の悪い灰と砂へと変わっていった。
 枯れない物の集まりの外は複雑で柔らかい足場が多く、少年の周囲は常に開けているので、少年は再び鳴き声を繰り返してみたり、常に遠ざかる木々について考えたりした。
 そうしてまた数日。山に近付き、無彩色の一帯が麓に触れて斜面を登ろうとした時、山肌が崩れ出し、そこに生えていた幾つもの木々が少年のすぐ目の前まで形を保って落ちてきた事もあった。
 以来、少年は急な斜面を嫌い、山や木々の多い場所を避ける様になった。
 危険を知り、なだらかな場所を選んで進む少年は、ふと遠ざかりゆく景色の原因に思い至り、足を止めた。
 遠くにたたずむ一つの木を見詰め、ゆっくりと歩み出す。
 その歩みに合わせて、遠く、幾ら手を伸ばしても足りない程に遠い所に立つ木が、しおれた。
 木の変化はそれだけに留まらず、はらはらと緑色だった枯葉を落とし、きっと少年の体よりも太いだろう幹も項垂れて、崩れていく。
 目を覚ましてから十日近く、右も左も分からない世界で歩き過ごして、少年はようやく周囲から聞こえていた『ばきばき』という音の原因を知った。
「ぼくが……」
 独り言のそこよりも先は恐ろしくて口に出せなかった。
 それでも思考は喉の奥や頭の内側にへばり付いていて、自然と浅くなる呼吸が、続く言葉を克明に焼き付ける。
「まって! まって! まって!」
 頭に閃いた言葉を叫び、立ち所に駆け出した少年は、しかし遠くの緑には辿り着かなかった。
 日が背中を焦がす様に傾いて、目の前に伸びる自分の影を見詰め、少年は走りを止める。
 灰色の地面に落ちる影は、肩を激しく上下させていて、それが少年に対して怒っている様に見えて、目に涙を溜めた。
 ぱた、ぱたと音を立てた地面が、そこだけいやに暗い。
 目覚めてから初めて、少年は泣いた。
 多くの遺骸の上で、うずくまって泣いた。

 る日、少年は聞いた事の無い音を聞いた。
 吹き去る風に乗って、さらさらとか、ちゃぷちゃぷとか、そういう音。
 音は少し先、左右に伸びる丘の向こうから流れて来る。
 少年は聞こえる音を口で真似してみて、それが口の中にある唾液と似た音なのだと知った。
 しかし、丘の向こうから聞こえるのはもっと多く、静かなのに大きく、少年の口からする音よりもずっと綺麗で、少年は直ぐに真似るのを止める。
 緩やかな傾斜を慎重に登る内に、音が徐々に大きくなり、わっと一際大きく広がったところで少年はそれを見た。
 丘の先、見下ろす窪地くぼちもまた、二つの丘と共に左右に何処までも伸びていて、窪地の底を止め処無く水が走っている。
 水は左から右へと流れ、そのきわに見た事も無い生き物が死んでいた。
 手も足も無く、ひらひらとした少年の襤褸布ぼろぬのに似た何かを、体から幾つも生やした生き物。少年はそれに目を奪われて、窪地へ向けてそろそろと足を踏み出す。
 少年が踏んだ足元から、からからと乾いた石が転げ落ちて、流れる水に幾つも、ぽちゃん、ぽちゃ、ぽちゃんと音を立てて沈んで行く。
 石が落ちると水の表面には複雑な模様が浮かんでは消えて、少年はそれにそっと笑い、水底に向けてわざと石を投げた。
 ゆらゆらと絶え間無く形を変える水を見詰め乍ら、窪地に進む。
 とぷん、かろから、ぽちゃ、ぽちゃん。
 目を覚ましてから初めての騒々しさは楽しくて、綺麗で、そして、くしゃり。と、足が何かを踏み潰した。
 見下ろした先で、見た事の無い生き物が灰になって潰れていた。
「あ…………さかな……」
 魚、そう、少年は知っていた。
 水に棲み、ひれで泳ぎ、手も足も持たない生き物。
 足を引いても、灰になった魚は少年の足跡を残すだけの遺骸になっていた。
「ぼくが、ころしたんだ」
 呟いて、少年は魚を避けて窪地を進む。
 少年を忌み嫌う様に、水は引いていた。
 僅かに湿り気の残る窪地を、少年は渡った。
 此処ここにも居場所は無いのだ。
 そう悟って、少年は再び歩き出した。

つづく

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