〈KS〉短編小説
あらすじ
大学生フェンシング、県大会、その決勝を賭けた一日。
一年生の航道柊吏は、準決勝へと駒を進めていた。
一六九センチ。大会に出場する選手の中で最小の騎士は、全国大会を目指して戦う。
六人の若い騎士達が鎬を削る、青春群像劇。
はじめに
本作〈KS〉は、二〇二二年の十月頃に「小説で戦闘シーンを表現する事の練習」を目的として執筆した作品に、一部加筆と修正をした作品です。
加筆と修正は、当時の文章力を壊しすぎない程度に抑えている事を、予めご了承ください。
また、本作では大学生の「フェンシング」を描いておりますが、現実とは異なる部分が多分に含まれます。
架空の日本を舞台とした創作物であり、本作を通して違反行為への肯定、何らかのものへの批判、否定の目的は一切無い事を念頭に、お楽しみください。
目次について
本作ではnoteの「目次機能」による見出しを付けております。
しおり代わりにご活用ください。
〈KS〉
01 最後の一分間
騒めきは引いた。
強いライトの下、集中で引き延ばされ続ける一瞬が精神を削る。
ぴり、と静電気に弾かれるように、相手の動きと自分の動きが重なった。
これで何合目、細剣の擦れ合う耳障りな音も意識には無い。あるのは一つ。残る一分間に二度、頭ひとつ分は高い相手の胴を突かねばならないという、義務感めいた勝利への渇望だった。
篠突く雨の如き猛攻、それを払い、逸らすも、しかし、伸ばす剣先は届かない。
焦れる。面の中が吐く息と熱で蒸し暑い。視界を確保するためのスポットライトも煩わしかった。
――そう思ってしまった。
微かに撓んだ緊張の糸が、相手の剣先の接近を許していた。面で護られた耳の辺りを掠め、試合上では無効な刺突が恐怖として染みを作る。
(何秒間。何秒間を無駄にした……!)
自刃したくなる程の怒りを反撃の刺突に込めて、引き戻そうとする相手の剣先を外へ逸らしながら跳び込む。
自身の剣先が相手の鳩尾に突き立ったのは一瞬、確かな手応えを記憶しながら跳び退る。
これで同点。相手も自分も第三――最終セットで有効打を四打。残る時間は覚えていない。ただ、突如として動きを変えた相手に全神経が持っていかれた。
長い手足を大きく、緩く開き、待っている。
それに歯噛みするのもまた一瞬、牽制のつもりで放った刺突が思い切り弾かれ、その勢いに乗った相手の剣先が迫る。体を引いてもまだ、腹へ。
渾身の力で身を捩り、引き戻した細剣――フルーレの鍔で剣先を受ける。
(まだ試合は止まらない。……止めさせない!)
そのまま相手の剣身に己の剣身を滑らせる。シリシリと音を立て、突き出した刃はしかし、空を突いた。
腕が届かない。
引く、攻める、返す、目まぐるしく肉体を動かす中で判断力を擦り減らしながら、延長戦を待つ相手を攻め続けた。
ここで逃がせば負ける、相手の癖は掴んでいた。それでも届かないのは、生まれ持った体格差によるハンディキャップだ。
相手よりも速く突いても、相手の懐に跳び込んでも、腕が、脚が、あと少し届かない。
時間も迫っている。
これを最後にしようと決めたのは、互いに跳び退った空白にだった。
掠れた呼吸音が面に反響して、その音はどこか遠くに聞こえる。
コンタクトレンズで補っているはずの視界も白が強い。
一つ、大きく息を吸った。
その瞬間に、相手が動く。
その映像は実際の視界よりも早く映っていた。相手が、この十四分の間に決め手を打ってきた動きと同じ動作で跳び込んで来る。
それはデジャヴのように、予測と現実が溶け合って、そこに自分の肉体も溶け込ませる。
理想の動き、理想の流れ、それに乗せるように、見える先に合わせて動く。
判断とも反射ともつかない。体が動いた。そう言う外に無い感覚。
勝ちも負けも、この瞬間には無かった。
ただ、見知った動きを紐解いて活路を行くだけ。
大きく撓んだ剣が、喉元に迫った剣が、ブザーの音で止まる。
「ラッサンブレ、サリューレ」
主審から試合終了の号令が掛けられた時、相手に突き立って撓んでいた剣身が弾けた。相手の剣先は、自身の首元を過ぎて止まっている。
三つのランプが、勝ち取った二試合を示していた。
相手、海樹燈は初戦のみ点灯。
そして、残る二つは自身――航道柊吏に。
震える手で面を外す。いつの間にか、審判員が傍らに立っていた。
「航道選手、大丈夫ですか?」
呆然としたのも瞬き二回分、柊吏は慌てて海樹の許へ向かい、握手を交わした。
去り際に折れたフルーレの剣身を拾い、スタート位置について礼をする。
じんと痺れる頭で会場に目をやると、大学の先輩達が何事かを笑顔で叫んでいた。一般席にも目をやると、両親が居た。そして、その隣にも一人。
柊吏はようやく微笑んで、コートから外れる。
ベンチでは、仏頂面の監督が待っていた。
02 戦いの後
男子トイレの中で、頬を張る音が響く。
柊吏は洗面台の鏡に向かい、右頬の赤くなった自分を睨み付けた。
ピストを出れば、弱い顔をした子供が現れる。
けれど、ピストに上がっていれば、あの帯状のコート、あそこに居る間だけは違った。違うはずだった。
県大会準決勝、強敵として予想し続けて研究してきた海樹燈を前にして、その手足の長さ、プロポーションの美しさに完全に気圧された柊吏は、相手に初戦の先取を許した。それも、試合時間を半分以上残して。
続く二戦目。もう後が無い柊吏は初手こそ有効打を決めたものの、そこで得意のインファイトは封じられ、時間経過による判定勝ち。
そして決戦。あろう事かその最中に、緊張の糸を緩めてしまった。
自身に対する怒りに震わせた拳を、柊吏は自分の腹に向けた。
ぐ、と息が詰まる。まだ四年目の若手、されど運動の場で柊吏が輝けたのは、騎士でいる間だけだった。そのピスト上で、気を抜いた。
不甲斐なさに唇を噛んでも涙が出る。だからこそ柊吏は、他の試合が始まる瞬間を見計らって、人の少ない離れのトイレに駆け込んでいた。
蛇口を捻り、水を流して嗚咽を隠す。
それ故に、背後から入って来た人物に気付くのが遅れた。
鏡に映る白いユニフォーム、左肩を区切るような青いライン。振り向いた先に居たのは、海樹燈だった。
「航道……? どうしたんだ」
先程までピスト上で柊吏に向けていた鋭い気迫は無く、低くても労る様な、柔らかな声音で燈が言った。
「いや……」
か細い柊吏の声は男子のものにしては高く、頼りない。それを耳にして、柊吏は奥歯を噛む。
「さっきの試合、まさかだった。背が低いからって侮ってたわ。ごめん」
上目がちに見る燈の顔は晴れやかで、それを直視できない自分が惨めたらしい。
「流石は今大会最小の騎士。俺はもっと精進しなきゃな。騎士道精神あるまじき! ってね」
ぽんぽんと柊吏の肩に置かれた燈の手が、強ばっている。
大きな手はそれを隠すように滑り落ち、燈は小便器の方へと歩いて行った。
「海樹くん、僕は」
「今回は俺の負け。最後のカウンター、反射だったろ。努力の差で負けたって感じ」
用を足した燈はまた、柊吏の許――隣の洗面台に戻り、手を洗いだす。
「だから、今大会は優勝しろ。で、優勝した航道を、公式戦じゃなくても、どこかで――俺が負かす」
鏡越しに投げられた視線は、試合中に見える筈も無いのに常に感じていた、真剣の鋒を思わせる鋭さだった。
その瞳の閃きが、先の試合で喉元を掠めたフルーレを思い起こさせる。
「うん。負けないよ」
赤くなった目で笑った柊吏も、燈の傍らに映った。
燈はギラつく目を瞬きの内に消し去り、手を振って水を飛ばしながら振り向く。
「そうだ、今度トレーニングの話とか聞かせろよ。呑みにでも行ってさ」
燈の言葉に柊吏は目を丸くした。燈も柊吏も、大学一年生の筈だから。
「あー。航道、おまえ酒童貞?」
続く燈の言葉に柊吏は大きな目をさらに見開いて驚きの声を上げる。
そんな柊吏を笑い、燈は柊吏の肩を無理矢理に組んでトイレを後にした。
「うそうそ、普通にファミレスとか行こうぜ」
肩を掴む燈の手は、優しく、強く、柊吏も笑顔になる。
競技館の外は、快晴だった。
03 対角線
女みたいな奴だなと、改めて思った。
背丈が燈の首元までしかない航道は、不安を湛えた目で燈を見上げたまま、握手を終えていった。
一八〇センチを超える燈を見上げてきた、女達と同じ種類に思える目。それを面で覆い隠せば、ユニフォームを着ていても分かる程度に筋肉はついていた。
大会より前に見た映像の、そして大会中に目の当たりにした、雷光が如き刺突を忘れる程に、その目を見た燈は航道に対する苛立ちを覚えていた。
両者が開始位置に着く。礼も終えて主審の声を待つこの時間に於いても尚、航道の構えは弱い。
「アレ!」
試合開始を意味する主審の声を聞くや否や、燈は先制の一撃を航道の胸元に放った。
試合前の監督との打ち合わせ通り、初戦の一点を奪い取る。そこからは敢えて航道に点を取らせ、カウンター。リーチの差を理解させる為の盤外戦術に、航道は呑まれていた。
続く二戦目、戦意を取り戻した航道が見せる軽やかなフットワークに燈は翻弄され、悔しさと高揚感の入り混じるまま、航道に逃げ切りを許してしまう。
そして、三戦目。
燈のミスで剣先が航道の面、耳の辺りに当たってから、航道の動きが明らかに変わった。速い。リーチの差が無ければ決着はもっと早かっただろう。息の詰まる素早い剣捌きは確実に燈の隙を突いていた。
あと半歩、あと二センチ、いや一センチ、その生まれながらの体格差に感謝しなければならない程、航道の動きは速い。
フルーレが閃けばその瞬間には迫り来る、直線の歯牙を去なすだけで精一杯だった。
撓る筈のフルーレが、航道の物だけは常に直線で迫る。芸術的な脅威の剣。それを乗り越える為には、航道のスタミナを限界まで削り、時間を待ち、延長戦に持ち込むしか無かった。
そう考えていた。
互いに跳び退る、その時までは。
一呼吸の間、揺らぐ航道のフルーレ、そこを抜けた先の心臓部が空いている。
思う間もなく勝手に動いた体が、燈の得意とする流線状の刺突が、ほんの僅かな力と微塵も恐怖を覚えていない猛進で打ち破られた。
視界に大きく撓んだフルーレがある。燈の物では無い。燈の剣は航道の首元を過ぎているのだから。
真剣ならば深々と心臓を撃ち抜かれていただろう細剣が限界を迎え、目の前で折れた。
歯の根も合わず、開始位置に戻って面を外すと、全身が冷え切っているのに気が付いた。
航道もまた呆然として、打ち寄せる勝利の歓声を浴びている。
試合後の握手や礼は、まともに行っていた自信が無い。
感覚を失った脚で、燈は競技館を出た。
ミネラルウォーターを喉に流し込み、頭から被る。
青い空の下、眩しい緑も目に入らず、映るのは一瞬一瞬が明瞭な敗北の一撃。
当て所なく敷地内に歩き出し、目に入ったゴミ箱にペットボトルを押し込んで、燈は歩き続けていた。
仲間や監督から掛けられた声は、聞こえてはいても意味は分からず、既に頭に無い。
あるのは「何故負けたのか」という虚無感に似た疑問だった。
どれ程歩いたのか、見覚えのない離れのトイレを見つけて、燈はふらふらとそこへ入って行き、そして水音と共に聞こえる嗚咽に息を呑んだ。
恐る恐る入口を潜ると、航道が、洗面台に突っ伏すようにして泣いていた。
「航道……? どうしたんだ」
一も二もなく出た声に、航道の幼い顔が向けられる。敗者よりも敗北を噛むような辛苦の表情。その双眸だけが、恒星のように強く燃えていた。
それだけで、燈は全てに納得する。
俺は、航道柊吏という男に負けたのだと。
04 滑走路
柊吏と燈は競技館に戻った。
準決勝の二組、その試合の間には余興と称したトーナメント出場者の休憩時間が組み込まれていて、しばしの猶予が与えられている。
そのため、客席からも人が流れ、競技館の中はぽつぽつと通行人が見えた。
その中の一人に、柊吏の目が留まる。
マゼンタピンクに染めた長髪を纏め、奇抜な服装に身を包む女性。
「稚気」
柊吏の呼び掛けに目を向けた稚気という名の女性は、険しい顔で柊吏を睨む。
「柊吏、気を抜くくらいならこんな場所に呼ばないで」
冷ややかな声に、柊吏はもちろん、燈の背にも冷や汗が滴った。
ごめん。そう呟いて俯く柊吏の背中を、燈が叩く。
「ま、まったくだ、お前の身長なら自分よりデカい奴としか当たらないだろ?」
驚いたように燈を見る柊吏の顔は、また女の子の様なそれに戻っていた。
対する稚気は、一瞬、燈にも冷ややかな視線を送り、再び柊吏を見る。
「おじさんとおばさんがいるからまだ帰らないけど、決勝もつまらなかったら適当に口実作って帰るから」
柊吏よりも少し背の高い彼女は、言いたい事だけ言い残して足早に客席へ繋がるエスカレーターを上がってしまう。
二人はその背を見送って、試合後にも似た脱力感に見舞われた。
「あれ、彼女? きっついなぁ」
自身の腰に手を置き、燈は苦笑した。
「いえ、幼馴染で……」
柊吏に言われ、燈は目を丸くする。
「じゃあ優勝したら告るんだ?」
頭に「なるほど」とでも付けそうな程あっさりと言われ、柊吏はぶるぶると頭を振る。
「県大会じゃたぶん、無理」
「はぁー、すげぇ女に惚れたのな」
図星を突くトゥシュに、柊吏は悲鳴にも似た声を上げる。
違う違うと言えば言う程に、燈は笑い声を大きくしていった。
「いやいや、仲良いならまだしも、あの調子の子を大会に呼ぶとか、それ以外に何だよ」
先の試合で見た連続の刺突にも似た言葉に、柊吏は言葉も無く赤くなった顔を伏せるだけだった。
そんな柊吏の背中を、燈は押し出すようにして姿勢を正させる。
「まっ、今は試合だ。決勝、頑張れよ」
微笑み、燈は柊吏の元を離れて行く。その先には燈と同じく左肩を区切るような青いラインの入ったユニフォームを着た、学生達が居た。
柊吏はその背を見送って、会場内に続く関係者通路へ踏み込んだ。
通路は三人は並べる広さがあるものの、この時は柊吏の他に人影が無かった。ぎっ、ぎ、と外履きの運動靴が鳴らす音だけの空間。
――フェンシングのコートを、ピストと呼ぶ。
それは、フランス語で滑走路を意味する言葉。それでは、この通路は宛ら航空機を収める倉庫だろうか。
そんな事が頭に浮かび、リラックスしている自分を認識した柊吏は、次に燈と会ったら礼を言おうと心に決め、会場内に戻った。
ピスト上では二人の騎士が舞うように細剣を振るい、刺突と斬撃をぶつけ合っている。
柊吏から見て右側の選手が、左から突き出された剣先を払いながら面を斬り、主審が試合終了の号令を掛けた。
サーブル。三つあるフェンシングの種目のひとつ、胴だけではなく、上半身全てが有効面となり、斬撃の許された種目。
柊吏は余興として行われていたサーブルの試合に苦い味を思い出しながら、自分のベンチに戻った。
05 二大巨頭
大学生フェンシング県大会のBグループ、それに割り当てられたベンチに、大きな体を屈め、頻りに細く鋭い息を吐く男が居た。
錆湫重吾。大学のフェンシングサークルに入り、急激にその才能を開花させた「若き巨人」だが、彼の心臓は体格に見合わない小ささだった。
先のフルーレ個人種目Aグループ、その試合を何度も脳内で繰り返しては、三戦目で鋭さを増した航道の剣技に身を固くしてしまう。
航道とその対戦相手、海樹ら二名の選手は、重吾よりも二つぶん歳下だろう。その若さで学年入り混じる今大会を上り詰め、まして十センチ近い身長差を覆して、航道は海樹を倒した。
海樹の力強い剣技を押し退ける、鋭く疾い刺突。
重吾の体格では、海樹よりも早く動くことは叶わないだろう。それを思うと、心臓を貫かれた海樹の二の舞を演じるのではないだろうか。そう考えてしまって、震えが込み上げていた。
中空を睨み据え、硬直する重吾の額を水筒が打ち据える。
悲鳴は上げなかったものの、低く呻き、何事かと目を白黒させる重吾の前に、背の低い女子マネージャーが立っていた。
「葵……何を」
彼女に問えば、葵は鼻を鳴らしてコツコツと重吾の額に水筒を当て続ける。
「Bグループ、準備」
言われ、重吾の目の色が変わる。
どれだけ恐れようとも、今の相手は航道ではない。準決勝で当たるのは、四年生の桑野花幸という男。
一九五センチの体躯を立ち上がらせた重吾は、遥か向こうの桑野を見据えた。
その視線を感じたのか、桑野も長い髪を結った手を下ろして重吾を見る。
重吾ほどではないが、今大会トップクラスの高身長を誇る桑野は、薄く笑って重吾に手を振った。
それが、重吾の闘争心の撃鉄を弾いた。
ベンチに戻った柊吏を手振りだけで呼び、監督は隣に座るよう示した。
柊吏は監督を指導者として尊敬はするものの、同時に苦手意識が拭えずにいる。
一番の問題は監督が如何なる感情の時も表情の動かない、究極の仏頂面である事だった。
柊吏を座らせてからも監督は沈黙を通し、柊吏もまた時間が経つ程に口が重くなっていく。
そうしている内に、スピーカー越しにBグループの二大巨頭が呼ばれてしまった。
双方共に燈以上の立端を持ち、幅二メートルのピストが狭苦しく見える。
握手を交わして開始線上に立ち、二つの巨躯が礼をする。
「勝つのは錆湫だ」
主審が選手らに準備を問うその間に、監督が呟いた。
桑野はプロの団体から声が掛かる程の実力者で、卒業を間近にしても、その技術は常に磨き続けられている。
錆湫も同じく注目の若株だが、大会前に監督が特に注意するよう言っていたのは、桑野の方だ。
何故、と訊く前に「アレ!」の掛け声が響き、柊吏は反射的にピスト上に集中した。
錆湫よりは体の細い桑野が、真っ先にフルーレの剣先を錆湫に伸ばした。
フルーレ種目には攻撃権がある。初動を握った桑野に対し、攻撃権を取られた錆湫はフルーレを僅かに引いて、桑野の攻撃に備える。
桑野と錆湫の距離は、五秒を掛けて縮まりきった。一歩の間合いに入った瞬間、桑野が跳び込む。畝る剣が錆湫の胴に吸い込まれ、僅かに胴を逸らされた為に空を突く。
バチッと叩き折る様な勢いで目の前のフルーレを弾き、錆湫が動いた。
桑野の剣身を踏み台に、錆湫の剣が跳ねる。
身を捩る桑野より速く、いや、圧倒的なリーチによって、錆湫の剣先が桑野の腹に突き立つ。
審判機のランプが、錆湫の得点を表す赤に輝いた。
06 攻防
桑野花幸の剣は靱やかだ。
飆の如く揺らぎ、刺突は鋭く強い。
高身長のアドバンテージもあり、桑野と当たった選手達は防御をすり抜ける剣先に胴を突かれ、またカウンターで伸ばされた腕により背後を穿たれ、敗れ去っていった。
その桑野の剣が届かない相手、天敵とも言える巨漢が、錆湫重吾だった。
錆湫の動きは決して速くは無い。その代わり、堅牢で重い。
体幹を殆ど動かさないまま相手のフルーレを捌き、弾き、的確に胴に剣先を当てる。
錆湫の試合は一人分の足音だ。と、柊吏の先輩が言っていた。
正にその通りだった。攻撃権を奪われれば桑野が忙しなく逃げ、桑野が攻撃権を得れば、力強い踏み込みで錆湫を襲う。
だが、その尽くが虚しかった。
初戦は五対零で錆湫の物になり、二戦目を待つ一分間、桑野は天を仰いでいた。
時間が訪れ、両者が再びピストに上がる。
桑野は試合開始直後、再び攻撃権を得る。オンガード――基本姿勢よりも少し腕を伸ばしたままに、摺り足に似た滑らかな動きで、桑野は一直線の刺突を放った。
桑野をよく見ていたのだろう。錆湫は撓るフルーレを予測していた構えの為に、脇腹を強かに突かれた。
桑野のフルーレを払い、錆湫の剣先が飛ぶ。それを上体を大きく逸らして避けた桑野は、錆湫のフルーレを打ち払った。
直ぐには攻撃できず、しかし攻撃権を手にした桑野が今度はいつもの調子で、しかし踏み込みは浅く牽制の刺突を放ち続ける。
錆湫の身長で気付けただろうか。桑野は牽制を高めに打つ事で躙り寄る脚運びを隠し、錆湫が大きく斬り払うのを待っていたかの様に蜷を巻く桑野の剣が有効打を与えた。
僅か二十秒の内に、桑野は二点取り戻し、跳び退る。
剣先を向けて攻撃権を得る錆湫は、しかし、動かなかった。
会場内は静かだ。フルーレが風を斬る音さえ響く、静かに強靭な剣のやり取り。
双方そのまま得点に届かず、試合時間は二分が過ぎようとしていた。
桑野の直線が柊吏の目よりも速く動く。それを錆湫が崩す。
フルーレの剣身を打ち、巻き取るようにして桑野の姿勢までを崩し、錆湫の突き下ろした剣先が桑野の胸を穿つ。
合計六対二。その焦燥は会場内で反響し、柊吏の手に汗を握らせる。
圧倒的すぎる体格差に桑野の得意とする背後への攻撃は封じられている。その上で、ここまで隠してきた直線の刺突さえ。
立端があれば勝てる競技ではない。まして錆湫のように動かない戦い方は異質だ。相手に飛び込ませ、動きの遅さをカバーする理性的な戦術。
だが、桑野は更に速く、更に速く動き続けた。
刺突の雨霰が錆湫に降りかかり、桑野が三点目を奪い取る。
そこで、桑野の動きが鈍った。瞬間、錆湫のフルーレが唸り声を上げて突き出される。
その先に、桑野はいなかった。
刹那の硬直を自ら生み出した桑野は、錆湫の剣より早く跳び退ったのだ。
突出した錆湫のフルーレが払われ、再び桑野の猛攻が始まる。
今度は彼の得意とする靱やかな動き、錆湫の体の外を突くフルーレは大きく撓り、それに当たるまいと錆湫の巨体が揺れる。その狭間に、鋭い刺突が真っ直ぐ放たれた。
緑のランプが点灯する。六対四。
食らいつく桑野に錆湫の動きも速くなっていく。
風を斬る音とフルーレ同士のぶつかり合う金属の音、攻撃権を追うので手一杯な柊吏は目の疲労に思わず強く瞬きをした。
再び見えたのは、錆湫と桑野の剣先が互いを撃ち抜いた瞬間だった。
「アルト!」
ブザーと共に、主審が三分間の経過による二戦目の終わりを告げる。
審判機は両者の色を灯していたが、錆湫の得点だけが動く。
七対四。
一分間の休憩が二名に与えられ、桑野は面を外して顔の汗を拭い払った。
柔和な顔立ちは複雑に歪み、今にも叫び出しそうな赤に染まっていた。
07 枯死
錆湫と桑野の三戦目を待つ一分間。
会場内は人が居ないのかと疑いたくなる程に静かだった。
決して広大とは言えない競技館だが、この大会の為に三百人を下らない人間が集まっている。その誰もが、息を潜めて三戦目が始まる瞬間を待っていた。
柊吏もまた、審判機に表示された七対四の数字を黙して見つめ、二戦目の攻防を思い返していた。
初戦こそ絶望的とも言える錆湫のワンサイドゲームだったが、続く二戦目でその暗礁は砕かれた。
桑野の狂暴なまでの食らいつきにより、二戦目だけで見れば二対四の判定勝ち、決して錆湫に手も足も出ないとは言わせない戦いぶりだった。
だが、だからこそ、合計点の七対四が壁として立ちはだかる。
延長戦に持ち込む可能性は残したものの、初戦の大敗が先の柊吏以上に桑野の心を蝕んでいるはずだ。
柊吏がちらと遠くの桑野に目をやると、彼は汗を含んで垂れる髪を掻き上げて、面を着ける所だった。
その横顔には蒼白と紅潮が入り交じっている。
(桑野さんは――)
鬼気迫る形相を面に押し込めば、桑野の足取りは美しいまでの所作だった。漲る力を御しながら、騎士然とした流麗な歩み、その一つ一つの重みを感じさせる。
(桑野さんは、何を想って戦うのだろう)
ふとそんな妄想が走り出し、しかし視界の端に現れた巨人に吹き散らされた。
錆湫重吾、彼は桑野とは対極に、重く、重心の乗った歩みでピスト上に立つ。
「エト、ヴプレ?」
主審の声が、会場内に響く。次いで二人分の「ウィ」という了解の合図の下、主審が動いた。
「アレ!」
(相変わらず、速い……)
たった数分の間だが、それこそが桑野の本領であり、体に染み付かせた攻撃の構えなのだろうと理解させられる、美しく速い構え。
思いながら一歩踏み出した重吾に、眼前の桑野は目まぐるしい速さで迫る。
『落ち着け! 冷やせ!』
フラッシュバックする卒業生の声が、熱を帯びた重吾の身体を溶融点の間近で止める。
桑野は直線の攻撃では足を開き、フルーレを巻くならば両の足先がこちらを向いて、並行になる。
頭の芯だけを冷やした重吾は、刹那の間に桑野の足を見た。
足先は並行。直線に備えて固く構えた手首の力を抜き、桑野の右手、フルーレの根元を睨む。
(右、左、これは予備の揺れだ。……三、四、五、まだ)
痙攣にも似た微細な動きが、一分の目溢し許さず捉えられる。
桑野の肘が外に揺れたのを見て、重吾は先んじて剣を振った。
鎌首をもたげた蛇の如き桑野の刺突は、放ち様に重吾の強烈な斬撃で弾かれる。
刃の根元に命中した斬撃に、桑野の体制が崩れ、左肩ががら空きになった。
反作用に任せたフルーレは舐めるように桑野の背を削る。
重吾の目の端で、赤が灯った。
跳び退る桑野を逃がすまいと、重吾は追撃を降りかからせ、しかし面の前垂れに弾かれる。
瞬間で引き絞り、重吾は桑野の胴、その中の狙撃ポイントを見る。
息も整わぬ間に返してきた桑野の剣先は、明後日の方向へ消えて行った。その、腹。赤。
次いで、巻き上げるように振られた桑野のフルーレが重吾の剣身を叩き、重吾はその力に任せて背筋を伸ばした。
桑野が放ったカウンターの刺突は重吾の胸の前で止まる。桑野は体制を整えるタイミングを逸していた。
その突き出した肩口にトゥシュを捩じ込む。赤。
二戦目の攻防、桑野は恐らく彼の理想とする動きを見せた。正に、蝶のように舞い、蜂のように刺す剣技。激しい攻防の中で重吾は恐怖に震え、無いに等しい休憩の時間はそれを鎮めるのに必死だった。
それが故に、悲しい。
三戦目のやり取りは初戦の再現そのものだ。何故。思考はブレながらも重吾は桑野に休憩を許さない。弾き、躱し、突く。繰り返す動きの中、その一つが下腹部に命中した。
剣を引き抜く流れに桑野のフルーレを巻き込み、桑野が慌てて腕を突き出す。
重吾は思い切り前に出た。
フルーレの柄までが空を過ぎ去り、桑野の空いた背中、その中心を剣先で叩く。
赤。
「アルト!」
主審の声が響き、桑野が崩れ落ちる。
震える体を掻き抱く様に、桑野は横になった。
重吾はその姿に、面の奥で涙を零す。
敗北とは、これ程までに恐ろしいのか、と。
08 潮騒の中で
結局、崩れ落ちた桑野が立ち上がる事は無かった。
錆湫に二度目の完全試合を許し、敗北した桑野は担架で運び出され、会場内には不透明な待機願いだけが放送された。
「桑野は良い選手だ」
場内の喧騒の中で、柊吏の隣に座る監督が言った。
「しかし、錆湫の柔軟な剣の方が圧倒的に強い。だから桑野が勝つ事は無いと確信していた」
監督は選手の居ないピストを見つめて、仏頂面を苦痛に歪めるようにして言う。
「だが、桑野も決して凡人じゃない。優秀だ」
苦々しい表情の理由が、柊吏には分かった気がした。
桑野が運ばれて行ったのは、遠目にでも分かる程に激しく上下する肩と腹から、過呼吸だったのだろうと推測できる。
初戦の大敗を、それも、桑野が得意とする背面への攻撃を錆湫に二度、二度も許した上で、再現してしまった。
それが、彼にとってどれ程の苦しみか、柊吏には想像もつかない。
まして、一度も剣が届かないなんて。
ぶるりと震えた両手を組み、柊吏は桑野の存在を思考の隅へと追いやる。
あの巨大かつ剛堅な錆湫が、今度は柊吏の前に立ちはだかるのだ。
癖を見抜いたとて、相手がそう来る事すら理解している不動の砦を、どう切り崩せばいいのか。
「航道、錆湫相手には限界まで我慢をしろ」
イメージの中へ沈みかけた柊吏は、はたと監督を見た。
「錆湫は非常に冷静な選手だ。だから、十分の一秒の単位でも、辛抱強く耐えて隙を窺うんだ。どんな相手でも、お前の刺突に反応できる奴はいない」
監督の仏頂面は、良く言えば常に真剣であるからこそだ。
彼の言葉を聴き、柊吏はしっかりと頷いた。
競技館内のトイレの丁字路、その男子側から出た重吾に、どこかの女学生が小さく悲鳴を上げた。
悪い、と言う重吾に怯えるようにして、桃色のラインが入ったジャージ姿が女子トイレへと駆け込んで行く。
広い正面ホールに出れば思いのほか人が出ていた。その中で目立つのは、先程も目にした桃色のライン。桑野の大学の生徒達だったか、彼のユニフォームを思い出しながら、重吾は階段の方へゆっくりと歩き出す。
「桑野くん、体調悪かったの?」
「いやいつも通り、と言うか調子良い方だったろ」
(やはり、先程の試合についての話題か……)
意識して視線を外すものの、桃色ラインの集団は階段の前に屯している為に、話が耳に入ってくる。
「それにしてもさ、負けたからって『あれ』はないでしょ」
重吾の足が止まる。
「錆湫が強くって泣いたのかよ、アイツ」
瞬間。考える間も無く重吾の腕が伸びた。こちらに背を向けていた桃色のジャージ、その襟首を掴んで引き寄せ、胸倉を捻り上げる。
「お前に! 何が分かる!」
激情が声として轟く。周囲に意識は行かず、重吾はただ目の前の男を睨み付けた。
敗北を恐怖すらしない此奴に、陰で人を謗る此奴に、桑野と言う男が嗤われている事が我慢ならない。
今にも殴りつけたい衝動に拳を震わせながら、呆然として何も言わない男を前にして、重吾の目から涙が溢れ出した。
(……桑野は、孤独だったのではないか)
鬼の形相で涙を流し、固まる重吾の横面が叩かれた。
顔を上げ、振り向いた先に階段から下りて来たのだろう葵が、呆れたような、怒ったような、複雑な顔で立っていた。
再び硬直する重吾の手を叩き、葵は男を解放させる。
「何の話かは分からないけど、それで退場になったら殺す」
冷ややかに言われ、重吾は自分の体が一回りは小さくなったように感じた。
戻るよ。と言われるままに、重吾は葵の背に着いて行く。
「重吾、相手選手に肩入れするのはやめて」
「無理だ、真剣に戦う彼らに敬意を持たないなんて」
会場内へ続く廊下に、葵の溜め息が響いた。
「だが、だからこそ、俺は全身全霊で倒す。次の航道も、身長差を埋めるために血反吐を吐いてきた筈だ。だからこそ、俺も全力で応じる」
重吾の背筋がしっかりと伸びる。
言いながら、重吾は今更思い出した。
そう、今見るべきは、航道柊吏だったのだ、と。
09 幕開け
桑野花幸は目を覚ました。
体の芯、特に脳髄が痺れている。目を開けている筈なのに、焦点が定まらない。
白く像を結ばない視界に怯え、また呼吸が乱れる。
――また、とは。
デジャヴを感じながらも、思考や記憶までが霞んでいて、怖い。
その中で、花幸は左手に違和感を覚えた。
固いベッドに横たわっている筈なのに、波に揺られたような感覚の中、左手だけが繋ぎ留められている。
温かく柔らかな手に握られた、自分の手。
恐怖心が拭われ、徐々に痺れも引いていく。戻りゆく視界に、ミディアムヘアを垂らして俯く女子が映る。
二つ歳下の後輩、野副香澄だった。
「……かすみ」
嗄れた自分の声を聞きながら、花幸は香澄を見つめる。声に気が付いた香澄は、泣き腫らした目を見開いて花幸と目を合わせた。
「おれは…………倒れた、のか?」
自明の理と知りながらも、花幸は他に言葉を見つけられなかった。
香澄は洟を啜って頷く。
(何故、泣いているんだろう……)
「先生を呼んで来ますね」
そう残して、香澄は部屋を後にした。扉の閉まる音が響くと、空調の唸る音だけの、真っ白な部屋に閉じ込められる。
冷たい部屋の中、掛け布団から出た左手だけが、温もりを残していた。
ピスト脇に主審が戻り、会場内に決勝戦開始のアナウンスが響く。
Aグループ、何度も身長差を覆し、勝ち抜いてきた最小の騎士、航道柊吏。
Bグループ、並み居る騎士の前に立ちはだかった、難攻不落の砦、錆湫重吾。
両名がピストに上がり、握手を交わすと、会場内は水を打ったように静まり返った。
柊吏の手をすっぽりと覆ってしまいそうな程に大きな錆湫の手にしっかりと握り込まれ、柊吏は錆湫と目を見交わした。
「航道、お前は怖い奴だ」
微かに上げた口角、そこから出た言葉に柊吏は眉根を寄せる。
「怖い……?」
「ああ。敗北を齎す、怖い奴だ」
口をきいてみると試合の印象とは随分違うのだな。そう思った自分の妙な冷静さを理解して、柊吏も少し笑う。
「僕も怖いです。錆湫さんに剣が届かないんじゃないかって」
重吾は一段と力を込めた握手をして、それ以上に言葉は無く、構えの線へ退いて行く。
柊吏もまた、面を付けて主審の確認に先んじて構えた。
「エトヴプレ?」
準備を問う主審の声に、二人分の「ウィ」と言う声が響く。
「アレ!」
初戦の一合が同時に衝突した。優先権の不明な斬撃めいた刺突が、音を立てて弾かれ合う。
柊吏は先制を取るべく真っ先に動いた、だが、重吾もまた、今大会で初めて先制攻撃を仕掛けて来たのだ。
双方、意図せず、反応も許されない速度でぶつかった為に、二振りのフルーレは弧を描いて引き戻され、再び強烈な刺突が繰り出され合う。
一つ、二つ、直線の刺突が絡み合い、弾かれ合い、また直線上へ。
異様な空気感のまま膠着するも、柊吏は他の動きを取ることができなかった。
重吾に思考の隙は与えられない。それでいて、こちらも気を抜けば長大なリーチと威力で貫かれる。
――ならば。
突き出す流れに腰の捻りを加え、柊吏は何度目かに迫る重吾の剣身を薙いだ。
ばちんと大きく外側へ弾き出された重吾のフルーレを見て、柊吏は捻った腰を撥条に、次なる刺突を放った。
柊吏自身でも捉えかねる速度の突きが、重吾の脇腹を刺して、柊吏の視界の端で、緑の光が灯った。
10 剣戟
燈の攻撃が雨ならば、重吾の攻撃は噴石だ。
今まで手を抜いていたのだろうかと疑いたくなる程の猛攻を掻い潜り、柊吏はフルーレを撃ち放つ。
電の如き刺突は空を突いて虚しく揺れる。
重吾が跳び退っていた。かと思えば一息に彼我の距離を詰め、唸るフルーレが迫り来る。
この重吾の戦い方は、客席から見れば「漸く本気なのか」と思えるかもしれない。
だが、柊吏には重吾に近付く度に獣の様な荒い呼吸が聞こえていた。
彼は必死なのだ。必死で、本気で負けると思っている。だから不得手でも足運びを限界まで速くして、柊吏に更なる得点を許すまいとしている。
一対零、それから一分は過ぎたか。そう思う間に襲い来る剣先を去なして、半歩退く。
ぴくり。顎を引いて重吾が反応した瞬間を逃す事無く、刺突を見舞う。
防御の為に振った重吾の篭手に阻まれるも、柊吏は冷静に腕を引いた。
遅れて重吾が振り払う為にスナップする。震える剣は、隙だ。
胸へのフェイントを掛け、重吾の剣が防御に動き、空いた重吾の右腰に柊吏の剣先が突き立つ。
柊吏も重吾も弾かれたように距離を取り、再び同時に跳び出した。
フルーレの剣先同士が衝突し、双方やおら剣を引き、また同時の刺突。
柊吏は敢えてこれを正面からぶつけた。
弾かれる剣が、捻る腰が、しかし動かない。
思い出したように息を吸う間に、重吾のフルーレが心の臓へ突き刺さった。
後悔の怒りを脚に流し込んで、距離を取る。
(我慢をしろ、耐えるんだ……!)
監督の言葉を反芻して、基本姿勢に戻る。
相手は城でも砦でもない。重吾の面の奥に、爛々と燃える虎の目を幻視しながら、柊吏は瞬時に深呼吸を終えた。
早鐘の心臓に合わせて素早くピストを蹴る。前へ、後ろへ。
航道に射貫かれた脇腹が、ありもしない痛みを訴えている。
(怖い。……怖い。敗北とは、死だ……!)
試合で劣勢を期する時、重吾はいつも過去の声を聞いていた。
『お前のせいだ』
『なんでシュートを決めない』
『パスを寄越せば』
『お前でさえなければ』
それは重吾の頭を冷やし、胸を黒く焦がし、フルーレに込める力を増幅させる。
無音の雷だ。そう思う間に、重吾は跳び退る。
航道の腕が伸び切るより早く、大袈裟なまでに取ってしまった距離を駆け抜けて埋める。
風切る剣は、まだ届かない。
『お前の足が遅いから』
引き絞った剣先さえも逸らされる。
その刹那、航道が止まった。重吾の思考も止まり、汗が滴るのを感じて退きかける体を止める。
その一瞬、真下から迫る航道の剣先は、幸いにも重吾の篭手に引っ掛かった。
(――速い!)
歯噛みする間もなく次なる剣が振るわれ、それがフェイントだと気が付いた時には、重吾の右腰が穿たれていた。
焼き切れた思考はもう用を成さない。幾度も衝突するフルーレをどこか遠くに感じている。
その中で、真っ赤に燃えるような、誘う点。
本能で航道の隙を突いた一撃だった。
(ようやく、一つ)
11 想う人々
繰り返される猛攻の果てに、審判機が四対四の数字を表示して、ブザーが鳴り響いた。
初戦は柊吏も重吾も全てを出し尽くす勢いで剣の応酬が続き、最終的に同点で時間を迎えていた。
休憩時間は一分。二人共ピストを離れて肩で息をしている。
階段状に並ぶ客席に着き、ピストを見下ろす視線を手元のスマートフォンに落として、煩わしい画面を暗転させる。
稚気は手前に消える重吾から視線を外し、遠くで面を取って呼吸を整える柊吏に目を遣った。
拭揚という小さな町で共に育った柊吏が、たった今繰り広げられた激戦の当事者なのかと半ば疑いたくなりながらも、稚気は膝に乗せた手を握り込む。
稚気はフェンシングに打ち込む柊吏を見る度に「どうしてそこまで」と、思わずにいられなかった。
顔が白くなる程に息を乱し、客席からも分かる程に手足が震え、それでも尚、ピストを睨む目は燃えている。
稚気よりも背が低く、女の子のような顔立ちは昔のまま、努力して鍛えた体はそれでもまだ細い。
柊吏の顔が、面に隠された。
ピストに向かう柊吏の姿と、地区予選を勝ち抜いて県大会への出場を報告してきた実家の玄関先、門灯に照らされて、頼りなく八の字に上げた眉の柊吏が重ならない。
『絶対勝つから。まだ、県大会だけど……見に来て欲しい』
その言葉を思い出して、稚気は両手を胸に当てた。
「つまんない試合したら、帰るから」
誰にも聞こえないように、稚気は小さく呟いた。
休憩時間は残り二十秒。汗を拭い面を付けようとする重吾の背中に声を掛けようと思ったのは、これで何度目だろう。
葵はズボンの裾を握り締めた。
「重吾!」
面を着け終えた巨体が振り向く。重吾の表情が見えない。
「……らしく行こう」
僅かな沈黙の中で思い出した言葉が、口を突いて出ていた。
らしく行こう。このサークルに入った直後、速く動けない事に悩む重吾に、葵が掛けた言葉。
重吾までの距離は、少し遠い。
「ああ」
短く答え、重吾の背が離れて行く。
(……がんばれ)
声に出さず、葵は寂しい微笑で彼を見送った。
柊吏よりも少し遅れて、重吾がピストに上がった。
相変わらず大きい、しかし燈のように細く長い手足という訳では無い。剣は届く。まだ、諦めるには足りない。
「オンガルド」
主審による構えの指示に従い、基本姿勢を取る。
休憩を経て熾火となった闘争心が、再び燃え盛るのを感じる。
意識的な脱力と染み付いた緊張に剣先が震える。
「プレ?」
略式の確認に、覚悟の声。
「アレ!」
審判の声が響いた。
跳び出す柊吏に対し、重吾は動かない。これが怖かった。
マッチ間に与えられる休憩時間、この間に重吾は冷静さを取り戻している。
どうする。考える間にも柊吏は掬い上げるようにトゥシュを繰り出した。狙いは低め、臍の辺りへ。
上から振り下ろされる重吾の剣、その鍔が柊吏の剣先を叩き落とした。
逸れた剣先は重吾の股の間を抜けて、柊吏は腕を伸ばし切ってしまう。
見上げた先から、柊吏の左胸へと重吾の刺突が駆け抜ける。
赤いランプが灯った。
剣を引くのは間に合わない。跳び退る柊吏に、重吾は大股の一歩で迫り来る。
柊吏はそこに、立ちはだかる城を幻視した。
12 後退
追い縋る重吾の剣先を払う。
後退の最中にあった柊吏は、着地と同時に前傾した。体幹がブレているが、構わず刺突を放つ。
重吾の体が柊吏の剣先と同時に奥へ。ここで逃がせない。無理にでも脚を出し、とにかく剣先を当てる事だけを考えた。
その目的だけは、果たされた。
柊吏の剣先が重吾の胴に触れ、しかし審判機は緑の光を灯さない。
審判機が検知する圧力を剣先に掛けられなかったのだ。
頭を冷やすべく、柊吏は距離を取り大きく息を吸う。
重吾は気圧されたように動きを止め、じりと足を前に出すだけだった。
沈黙の時間は己でさえ邪魔になる。詮無く溢れ出す思考を前進で振り払う。重吾は防御の姿勢で動かない。
柊吏のフルーレは中段に構えられ、狙うべき場所を示していた。
航道の動きは人並外れて速い。
重吾は同点で乗り越えた一戦目を踏まえて、二戦目では得意とする体幹崩しから試合の流れを奪うつもりだった。
しかし、航道は素早く重吾の剣に対応し、更なる攻撃を加えてくる。
後退と同時に無理な体勢で食らい付いてきたのがその証左だ。
(恐ろしい……)
だが、その歯牙も僅かに届かず、二戦目の零対一は動かない。
安堵の息を漏らして、距離を取った航道を睨む。たった数瞬の内に息を整えたのか、航道は再び電光石火の勢いで重吾の腹目掛けて跳んで来た。
(騎馬兵の如く腰だめのフルーレは何処を見ている!?)
『落ち着け、冷やせ。らしく行こう』
熱した頭に二人分の声、桑野の姿、様々な人達に背中を押された。
重吾は航道と入れ替わるように前に出た。入れ替わりの刹那、航道の刺突、その剣身を叩いて攻撃権を捥ぎ取る。
航道の頭だけがその動きに反応していても、腕や足が着いて来ていない。
重吾は、航道の背を、剣先で穿った。
いつだって、対戦相手は思うように動かない。
二戦目が幕を開け、一分足らずで二点を奪われた航道を見て、彼の監督を務める東海林壱馬は唇を噛んだ。
錆湫という、冷たいマグマのような選手の本質を見抜けなかった自分に腹が立つ。
錆湫はただ冷静に堅牢な剣を振るう男では無かった、それほど単純では無かった。
いつだって壱馬はあと一歩の読みが足らない。だから、負け続けてきた。
もしも自分ならば、航道の様に初戦は乗り切れなかっただろう。
己の指導の元、素晴らしい選手としてピストの上で舞い、戦う騎士達を誇らしく思いながらも、毎度の如く、壱馬は歯噛みした。
俺がもっと目の肥えた監督なら。俺がもっと先を読む頭を持つ監督なら。
女々しいと知りながら、もしも、もしもが脳裏を巡り、それを払うべく爪を立てて両手を握り合わせる。
今思うべきは一つ。
(航道、頑張れ……!)
試合時間が二分を経過した。
縺れた足を見逃す重吾では無い。容赦無く柊吏の胸元は撃ち抜かれ、三点目を奪われた。
残り一分。
荒い呼吸、酸素の間に合わない視界は薄靄に沈み、手足は厚い手袋をした様な感触。握っているはずのフルーレが遠い。
じっとりと水中にあるかの様な進みで、重吾の剣先が迫る。
思考だけが速い。体は何十秒も遅れているみたいだった。そのせいで、重吾の剣先を鍔で受け止める形になってしまった。
剣先を押さえられた重吾のフルーレが大きく撓む。かと思いきや、剣先に程近い辺りで折れた。
その、歪なフルーレが、柊吏の左肩に当たり、ユニフォームを貫く。
その痛みで景色が急激に速く回り――いや、柊吏自身が転げていた。
視界の左側で、重吾が持っていた筈のフルーレの柄が揺れている。
主審の声や観客の悲鳴はどこか他人事で、柊吏は呆然と天井のライトを見つめていた。
13 時間
駆け付けた医療班に、航道はその場での応急処置を希望した。
胡座をかき、左腕を差し出す航道に気を取られ、重吾は監督に差し出された換えのフルーレを取りこぼす。
かしゃあん、と音を立てて落ちたフルーレに多くの人が目を向けた。
だが、航道はじっとピストの方向、審判機を見つめている。重吾を含め、恐らくこの会場内の誰もが彼を気にする中で、航道柊吏だけは戦い続けていた。
試合としての勝敗でもなく、実力という言葉でも足りない、芯の部分での敗北を、重吾は感じた。
傷は浅いらしいが、肩の関節近くを負傷した航道に医師が再三説明をするも、聞く耳を持たない航道に軽く首を傾げた医師を先頭に、医療班は会場の端へ捌けて行った。
試合が再開されようとしている。
それぞれが所定の位置に戻り、客席の騒ぎも徐々に引いている。
航道もまた、何事も無かったかのように面を被り、ピストに立った。
「錆湫選手」
主審の声に重吾も慌ててピストへ戻る。
面を被ろうとして、今まで装備したままだったと思い出し、航道よりも少し遅れて構えを取る。
「落ち着け……冷やせ……らしく……らしく……」
跳ね回る心臓に小さな声で言い聞かせ続ける。
「プレ?」
主審の声に。
「ウィ」
一際凛とした声が響いた。重吾は声を出していない。
会場内が静まる。
「アレ!」
出血か、痛みか、何れにせよ柊吏の頭は透き通っていた。
残り四十七秒を刻みゆく審判機はきちんと一秒毎に動く。先手に駆け出した柊吏を迎え撃つ体勢の重吾も、一挙一動が空気の中にある。
此処、と打ち込んだ刺突は重吾の剣身に弾かれた。
しかし、重吾の動きは鈍い。余波か迷いか、揺れるフルーレに自身の剣を滑らせながら胴へと。重吾はそれを避ける。だからこそ、ワルツを踏むように重吾の剣を押し込みながら、前へ。
剣身を伝って重吾の動揺が分かる。その波の狭間で、柊吏は剣を跳ね上げた。
音も無く飛び上がったフルーレが重吾の腹を削り、向こう側へ抜けていく。
跳び退る中で、柊吏は緑の光を見た。
お返しと言わんばかりに重吾の剣が迫るのは理解していた。その映像に合わせて噛み合うように回転する。
――そんな事をすれば背を撃たれる!
叫ぶ恐怖心を溺死させて、柊吏は根拠の無い自信に身を任せた。
鍔に受け流された重吾のフルーレが虚しく揺れるのを見たのは瞬間で、次に映ったのは重吾の腹。そこに押し当てるように剣先を向ける。形だけ伸ばし切った腕を認識した途端に、柊吏は退く。
重吾もまた、弱々しく後退した。
二試合目はこれで二対三。全体で六対七。まだ。
構える前に一つ息を吸う。瞬間、重吾の剣先が眼前に伸びて来ていた。
空冷を受けた頭で剣を弾き合う。重吾はそれに乗った。
柊吏が詰めようとすれば退り、更に踏み出せば突いて来る。
重吾は落ち着きを取り戻したようだった。
柊吏は奥歯を割れんばかりに噛み締めた。
(限界まで。辛抱強く耐える……!)
決勝戦を控えた柊吏に託された言葉を、掘り起こす。
『つまらない試合にはしない』
『今大会、優勝する』
(この、目の前の壁を、突き崩して!)
得点の寸前で繰り返す攻撃権の奪い合いの中で、柊吏は大きく剣を振りかぶった。
横に真一文字の光。
背を見せるように体勢を崩した重吾の肩甲骨へ、流星の如き刺突を。
その最中で、ブザーが鳴った。
衝突して撓むフルーレから送られる信号は、もう受け付けられない。
六対七、二試合目の時間が、切れた。
14 勝者
三戦目の開始はすぐだった。
呼吸を整えている内に審判の号令が掛かり、重吾と揃って柊吏は基本姿勢を取る。
「アレ!」
号令と共に来たのは強烈な刺突。
砲弾のように跳んできた重吾の剣先は逸らしきれずに、柊吏の左肩の先に当たった。
双方退いて仕切り直されたピスト上、今度は柊吏が先に前へ跳び出した。
重吾の防御は柊吏の刺突よりも速く、故に柊吏の剣先が腰骨の辺りに突き立つ。
怖い。試合の直前に重吾が言った言葉が柊吏の頭を過ぎ去っていく。
再び先んじて動いた柊吏に対し、重吾は大きく体を開いた。
誘われる様に踏み込みかけた足を攻撃の起点として、剣先の届くギリギリで踏み留まる。
二条の光が重なり合い、フルーレが柊吏の物だけ弾かれた。
堅い重吾の剣先は柊吏を睨んでいる。理解できても防ぐ術を持たない柊吏の胸を、フルーレが穿つ。
――敗北を齎す。それは、ピストに立てば誰しもがそうなる。
逃げる重吾を追って、雷撃の刺突。
平行に構えた鏡の様に、航道柊吏と錆湫重吾は鎬を削り合った。
必殺の刺突が八度、交わされ合う。
まだ一分と経たぬ間に、柊吏は断崖絶壁へと追いやられた。
ここで五点目を奪い、延長戦か。奪われて、敗退か。
九度目の攻撃権は柊吏の物となった。実直に放つ最速の剣が巻き取られる。
巻き取れるものならと、柊吏は腰を捻り重吾のフルーレ諸共軸を無視した回転を加える。それに気が付いた重吾は反対方向へ腰を捻り、腋を締め、大樹と化して立ち止まる。
じゃりりり、と耳障りな音と落ち着いていくフルーレの振動、二人は瞬時に剣を引き絞り、柊吏は次なる刺突へ繋げる。
重吾は止まり、防御の姿勢を見せている。
考える間も持たずに、柊吏は真上へ跳んだ。
驚愕に片脚を退く重吾の心臓。一点に集中した光線。
貫いた剣はしかし、何も得なかった。
光は灯っている、だが、審判が、人間が柊吏に攻撃権を認めなかった。
絡んだフルーレを払ったのは、重吾だった、と。
着地の足でピストを蹴飛ばして後ろへ。
(まだだ。限界まで。辛抱強く、耐える!)
重吾は既に前へ出ていた。刺突と同じ動作をもって重吾の剣を打つ。
弱い。距離が足らない。
柊吏のフルーレを大きく跨ぐように、重吾のトゥシュが、柊吏の右肩を撃ち抜いた。
「アルト!」
15 敗者
叫び声が木霊する。
拭揚の町、その一角にある高架下、生い茂る雑草に塗れて、柊吏は叫んでいた。
言葉にならない叫びは宵の闇に呑まれゆく空に似て、暗く哀しい。
手当たり次第に雑草を毟り、地面を叩き、涙を拭い様に自罰した。
それは幾らかすると電車の音に掻き消されて、また顕れる。
最早、何を悔やんで、何に泣いたのか分からない。
それでも抑えきれない衝動が、顔中から溢れ出した。
変声期を終えても尚高かった筈の声は嗄れて罅割れ、獣じみている。
嗚咽も子供のようでありながら、化け物に聞こえた。
それを確かに聞く理性が、憎かった。
柊吏はただ、泣き叫び続けた。
燈は帰りのバスの中、天井から垂れ下がるモニターに映るバラエティ番組を、無感動に眺め続けた。
決勝戦が終わり、閉会のセレモニーを経る間、ずっと考え続けていた。
柊吏と錆湫のフルーレが真剣だったなら、と。
それならば、フェンシングという競技としての試合でさえ無ければ。速さに於いては。考えては二人に失礼な事だと吹き消し、それでもまた、狼煙のように上がり続ける考え。
「燈、燈、あかり。おい!」
肩を揺さぶられて、窓外に見慣れた風景があるのに気が付いた。
バスは燈の寮に到着していたのだ。窓際で燈を待たざるを得なかった友人を除いて、バス内には誰もいない。
「疲れてんなら部屋行って寝ろ。風呂は明日でも良いだろ」
追い立てられて、燈は通路に出る。
「か、ば、ん!」
足元に置いていたスポーツバッグを受け取りながら、燈が「ごめん」と絞り出した声は、余りに小さかった。
花幸は街灯の明かりが届かない歩道橋を歩いていた。
よく晴れた宵の空。錆湫の空洞めいた面に似ているなと思いながら、手摺に指を乗せて、トラックが行き交う大通りに目を落とした。
「先輩!」
先を歩いていたらしい香澄が、悲鳴に似た声を上げて花幸の手を取る。
「へっ……変なこと、考えました……?」
きょとんと目を丸くする花幸に、香澄は大きな目をさらに大きく丸くして顔を伏せる。
「すみません! 勘違いでした!」
その姿に、花幸は自然と笑みを零す。
「流石にそこまでは無いって」
肩に掛けた鞄、それを抑えていた方の手を、香澄の小さな頭に乗せる。
「ありがとう」
花幸はそれだけ残して、先を歩いた。
遅れて、香澄の足音が後ろから続いてくる。
香澄の家は、花幸の街とは全く違う場所にあることを、彼は知らなかった。
競技館が震えている。
力無く礼を終えてピストを降りる柊吏を見つめて、稚気は膝を抱えて背中を丸めていた。
「つまんないよ」
呟いた声は、彼女だけの物だった。
会場内に満ちる歓声や悲鳴が、すぐ隣に座る柊吏の母親にさえ届けさせない。
そそくさとハンドバッグを膝に乗せ直して、後に続くセレモニーの間、稚気はぶすっとした表情を審判機に向け続けていた。
ベンチに戻った航道を座らせて、壱馬は他のサークルメンバー全員を労い、決めておいた言葉を投げかけ、涙を零した。
項垂れる航道に、それは見えなかっただろう。
だが、それを見たサークルのメンバー達は同じように泣いたり、沈痛な面持ちでセレモニーを迎えた。
歓声の雨が、重く降りしきる。
16 KNIGHTS
騒めきを払った。
試合開始の前の基本姿勢、その動作を大袈裟にして風を切る音を立てる。
海樹燈の働きで集められた人々が押し黙り、小さな体育館に敷いた、安いピスト上の空気が一気に張り詰める。
「アレ!」
主審を務める東海林監督の声で、柊吏が先に、遅れて燈が動き出す。
相変わらず長い手足で、するするとトゥシュを去なされ、二ヶ月の練習の成果が窺える。
だけど。
その念を踏み込む足に込めて、柊吏の一点目が決まった。
錆湫重吾は全国大会の半ばで負けた。
奇しくも似たような剣技を鍛えてきた四年生を相手に、延長戦の一手が届かなかった。
だから、渾身の力でトレーニング器具を引く。
はち切れそうな程太い腕は、県大会の頃よりも一層鍛え上げられている。
引退までの残る三大会、敗北の苦汁を糧に、重吾は唸り声を上げた。
花幸は同学年の友人達よりも一足先に、引退願を監督の元へ提出していた。
県大会の後、四年生にはまだ、あと一度のチャンスがある。
それに加え、花幸にはプロへの道が示されていたが、それも同時に蹴っていた。
引退の旨をメンバーに伝えた日、三年の頃から花幸に付き従い、良きマネージャーとして活躍した香澄に恋心を伝えられ、花幸はそれを断った。
歳上の彼女が遠方に居ると嘘を吐き、髪を切った花幸は就職活動に従事した。
総合点、七対七。
延長戦に突入した。
一点先取で決まる戦い。三回戦の間繰り広げた激戦を塗り替える剣戟で、柊吏と燈のフルーレが舞う。
燈が柊吏の剣を弾き、胸元へ突き出した剣先はしかし、掠めただけ。
柊吏は素早く体を反らし、燈の剣を外へと弾き出す。
想像だにしない膂力で飛ばされたフルーレが燈の手を離れ、迷い無く撃ち出された柊吏のフルーレが鳩尾を穿った。
「アルト!」
掛け声はあったものの、海樹陣営からは試合の取り直しを求める抗議の声が上がる。
「やめろ、やめろってば! 今のは俺が悪い。スタミナ切れ」
降参するように手を挙げた燈に止められて、海樹陣営の男達は不満そうに引いて行った。
「……くっそー! 柊吏! お前」
癇癪を起こして地団駄を踏みながら、燈が柊吏と面をぶつけあった。
「っ燈には、負けないよ!」
息を切らしながらの柊吏に言われ、燈は金切り声を上げて地団駄を踏む。
「次、次!」
交流戦は、柊吏と燈が初戦を飾っていた。
稚気のスマートフォンが震える。
通知の一覧に、柊吏が画像を送信したとだけ告げる文字。
タップして開いた先で、何人もの騎士達が肩を組んで笑っていた。
「…………あーあ! つまんない!」
喫茶店内に響いた稚気の声に、常連しか居ない店内が、笑い声で満ちた。
終
あとがき
本作〈KS〉は、私が創作の方針を固める過程で執筆した作品です。
当時、イラストを描く事を中心として、時折、小説や詩を書く中で、より多くの人に作品を見てもらうには、そして、見た人が心に残してくれる作品を作るにはどうしたら良いのかと、悩み続けていました。
絵を描く筆は速くなく、友人から漫画を描く事を提案されたりもしましたが、幾つもの絵を描き続ける漫画にイマイチ熱意が出せず、そこに思い至って、小説を真剣に書こうと思い始めたのです。
しかし、内輪へ向けた小説も、友人達の心に残る事はなく、そんな中で「あぁ、この人達は私自身に興味はあっても、私の作品には本当の意味で興味が無いんだな」と気付かせてくれる切っ掛けがありました。
その事実に気が付き始めてから、インターネット上の、作品だけで関わる事を目指したくなり、頭の中にファンタジー作品を描く事が浮かび上がったのです。
しかし、その為には今まで小説で描いた事の無い「戦闘描写」が必要であり、その練習として、再び内輪向けに書いたのが、本作〈KS〉だったのです。
この頃、東京オリンピックの中継で観たフェンシングの大会を思い出していました。
ルールも詳しくは知らず、選手の詳細も知らないまま観ていたのですが、熱い戦いに胸を膨らませたものです。
そういう記憶があったので、大学生のフェンシング大会を舞台として、戦闘描写の練習をしようと思い至ったのです。
そして、〈KS〉を書いた感触や反省を元に、過去にnoteで連載した、ファンタジー世界の闘技場で起きた一幕を描く物語〈剣闘舞曲〉が生まれました。
〈剣闘舞曲〉は、現在制作中(第一章の最終話まで投稿済み)の〈パラレルジョーカー〉と同じ世界の物語であり、五年前の出来事を描いた小説です。
〈KS〉とは世界もテーマも異なる作品ですが、作者の視点だと、薄く繋がりがある。
不思議な繋がりですが、五年間も創作を続けていた軌跡を感じられて、言葉にできない感慨があります。
ここからは、本作の登場人物、その関係性などについて書いていきます。
まずは、本作〈KS〉の主人公、航道柊吏。
本作のタイトルは、彼の頭文字から来ています。
というのも、柊吏という人物は、私が友人と交流する中で生み出したキャラクターで、その際に「フェンシングサークル所属、背の低い大学生」という設定まで決まっていたのです。
そして、彼を主人公として小説を書こうと考えた時に、偶然「Knights」つまり騎士という意味の英語に、柊吏の頭文字が入っている事に気が付いたのです。
Knightsの頭と末尾を取って〈KS〉。
柊吏無くして、本作は書けませんでした。
柊吏は、物語の後もフェンシングを続ける事でしょう。
どれだけの間――例えば、プロになるのかどうかは分かりません。
しかし、本作での出逢いと敗北は、柊吏を大きく成長させた事でしょう。
続いて、柊吏の幼馴染である三ツ川稚気。
苗字は作中で登場しませんでしたね。
彼女も柊吏と似たような流れで生み出した人物で、柊吏を出すなら稚気も出さなきゃだろう。と思い、登場させました。
稚気と柊吏が今後どうなるのかは、誰も分かりません。
稚気が素直になれば、柊吏との関係が変わっていくのかもしれませんね。
ところで、「稚気」という言葉が日本語に存在します。
幼い様子を表す言葉ですが、私が彼女の名前にこの言葉を選んだのは、そういう幼い心を忘れない事の良い点を描きたかったからです。
子供っぽい事は、欠点として扱われる事が多いのですが、そういう心も忘れちゃいけないよなぁ。という、そういう気持ちで。
柊吏と稚気以外の人物は、本作を書く中で新たに創作しました。
柊吏と共にフェンシングを続けた海樹燈。
己の在り方に迷い、騎士道を外れ、有り触れた道を選んだ桑野花幸。
圧倒的な強さと、それに比例した恐怖心を持つ錆湫重吾。
彼らのその後は、作中にてほんの少し先まで描きましたが、そこから先は明確にしていません。
しかし、幾つかは決まっています。
例えば、重吾は己を鍛え抜き、恐らくプロの選手になっていくでしょう。
また、花幸を様々な面で慕っていた野副香澄は、彼女が諦めなければ、花幸と結ばれる未来もあるでしょう。
短い期間で見れば、辛い事があったとしても、長い目で見れば、報われる人々だけであって欲しい。
〈KS〉の世界では、現実に近いが故に、取り返しのつかない描写を避けました。
道は、人が死ぬまで続くものですから。
彼らが生き抜き、辿り着いた先は、幸福であって欲しいという願いを込めて。
それはまた、現実への願いでもあります。
ここまで読んで下さった方、誠にありがとうございます。
もしも私の作風を気に入って頂けたなら、過去作も楽しんで頂けたらと思います。
追記:人物イラスト
二〇二四年、九月十三日、本作〈KS〉の主要人物を描き下ろしました。
ご自分の中でのイメージを壊したくない方は、見ないようにご注意ください。
また、画像の中の数字(10min)は、何分で描き終えたかというメモ書きです。お気になさらず。
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