小説「剣闘舞曲」6

本作をお読みになる前に
 この作品は、闘技場で行われる試合を描いたファンタジー小説です。
 怪我や血の描写、魔法の要素、他にもあなたが苦手とするものが含まれるかもしれません。ご了承の上でお読みください。

 また、本作は特定の国や楽器、音楽に対する批判など、作者の思想を広める意図で作られたものでは無い事を予めご理解ください。
  空山非金

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  6:勇姿

 タロウが目を覚ましたのは、準決勝戦の第一試合が始まる少し前だった。
 休憩時間に入った闘技場の屋内は騒ついていて、医務室の扉越しにもその喧騒がうかがえる。
「サンノゼ選手、お加減如何いかがかな」
 視界の外から、ぬっと現れた高年の医師に驚いて飛び上がり、タロウはベッドの手摺に腰を思い切り打ち付けた。
 痛みに悲鳴を上げて丸まったタロウに、医師の笑い声が降る。
「痛がれるなら大丈夫。あざならすぐ治せるから」
「そういうっ、問題じゃ…………」
 じんじんと痛む腰を抑えて、タロウは額に浮かんだ冷や汗を拭った。
 腕に額の――肌の感触を覚えて、タロウは首を巡らせる。
「あ、あの、俺の鉢巻知りませんか。裏に寄せ書きのある……」
 タロウの声に、医師は「ああ」と言って事務机に載っていた木箱を手にした。
「これかな。戦闘中の事故だ、あまり気を落とさない様に」
 医師が蓋を開けて差し出した木箱の中には、血と土で汚れた鉢巻が収まっていた。複数の斬撃を喰らったらしく、あちこちに穴が空き、四つに切断されてしまっている。
 タロウはそれを摘み上げて手の平に乗せ、指で繋げた。
 隙間が無くなる程に寄せられた故郷の人々の文字は、幾つかが読めなくなっている。
「…………あの、先生。俺、勝ちましたか?」
 タロウの問いに、医師は力強く頷いた。
「サンノゼ選手はおよそ二十分後の準決勝戦、第二試合に進出。額やこめかみ鼻梁びりょうにもナイフの様な刃が刺さったけど、よく生き残ったもんだよ。……きっと、それが守ってくれたんだ」
 タロウの手に乗る鉢巻を指差して、医師は微笑む。
「そっか…………へ、へへ。負けるの怖ぇなぁ」
 そう呟いたタロウの意図が読めず、医師は眉を上げた。
「鉢巻こんなにしちゃったらさ、優勝して帰んないと。みぃーんなに、怒られる!」
 あっけらかんと話し、無邪気に笑ったタロウは手の平の鉢巻を握り締める。
「先生、針と糸を貸してくれ。もう二試合、コイツには付き合ってもらわないと」
 一瞬の内に戦意を取り戻した横顔を見て、医師は呆れ混じりに笑っていた。

  ***

 準決勝戦、第一試合の後処理が終わり、次なる選手両名が南北の通用口に待機するまでの間、闘技場中には期待と緊張が溜まりきっていた。
 ざわざわと人の声や衣擦れ、足音が第二試合を急かす中、司会者は襟に着けた魔法道具の声を聞き、息を吸う音を拡声器で響かせる。
「皆様、大変長らくお待たせ致しました。これより、剣闘舞曲祭の準決勝戦、第二試合を行います。――まずは選手の入場です!」
 司会者が口上を終えると、場内は一瞬の静寂で満たされた。
「南より! 鍛え抜かれた肉体と、猛るほむらの木刀で数多の戦士を打ち負かした東岸の闘士! タロウ・サンノゼ!」
 司会者の声に招かれて、タロウが南側の通用口から姿を現す。
 その額には幾らか不格好になった鉢巻が締められており、タロウはそれを今一度締め直して自らの両頬を、ばちんと叩いた。
「押ぉぉ忍! よろしくお願いしまぁす!」
 先刻の試合よりも大きく、闘技場中を震わせたタロウの声に拍手が送られる。その中には観客がタロウを歓迎する声も含まれており、タロウはそれに満面の笑みを返した。
「そして、北より! 美しくも恐ろしい剣技と、それを制する強靭な精神力で勝ち抜いてきた王華おうかの騎士! ハンソーネ・トロンバ!」
 タロウに釣られてやや強い語気で司会者が叫び、北の通用口からハンソーネが歩み出る。
 ハンソーネはそのまま数歩進んで足を止め、堂々と騎士団式の敬礼を見せる。
「フランゲーテ魔法国、国王直下騎士団、第五師団長、ハンソーネ・トロンバ!」
 幾らか省略した、騎士としての名乗りを上げたハンソーネには拍手とときの声に似た歓迎の声援が向けられた。
 観客から捧げられる音を浴びてたっぷりと五秒、敬礼を保持したハンソーネに、開始線の一歩手前に立つタロウもまた拍手を送る。
「良いねぇ、流石は騎士様だ!」
 にっかりと白い歯を見せて笑うタロウに、ハンソーネは開始線へ向けて歩き乍ら微笑みを返す。
「声量では君の勝ちだな。実にたくましい名乗りだった」
 ハンソーネの言葉を受けたタロウは頭を搔いて顔を伏せ、笑顔を吹き消した顔を上げる。
「この試合も――いや、優勝も貰うぜ。サンノゼ海岸の英雄になるって約束したからな」
 きっさきよりも鋭い眼差しでハンソーネと見交わすタロウが一歩踏み出し、少し遅れてハンソーネも開始線の前に立つ。
 真剣その物のタロウに対して、ハンソーネの表情は程良い緊張感を保っている。
「期待は重いよな。お互い」
 ハンソーネの言葉に、タロウの眉根が跳ねる。
「重いもんか」
 怒気をはらんだ声で呟き、タロウは胸の革鎧を叩いて背筋を伸ばした。
「俺がここまで来れたのは期待があるからだ! 期待されてねぇのに戦うなんて、人を悲しませるだけだ。俺は俺の家族、故郷の皆の代わりに、勝ちに来たんだよ!」
 叫び、敵意を剥き出しにするタロウは、逸る気持ちを抑えて地面を強く踏みしだく。
 対面の開始線に着こうとするハンソーネは、片足を線上に着きかけて足を引いた。
「ならば故郷の期待ごとお前を斬り伏せる。騎士団の強さを、いや……我が国の強さを示さねばならないのでな」
 言ってハンソーネは足を踏み出し、それと同時にタロウが顎で開始線を指していた。
 言葉を交わし終えた二人が、開始線の上に揃った。
「両者、準備は良いか!」
 成り行きを見守っていた審判員が声を上げ、僅かな沈黙が流れる。
「準決勝戦、開始!」
 審判員の号令と共に、タロウが爆炎を上げて正面に飛翔した。
 対するハンソーネはそれを見て足を踏ん張り、細剣を抜き放つ。ただそれだけの動作の内にタロウはハンソーネの間合いに突入し、二度目の炎が瞬く。
 ハンソーネの胸郭きょうかくを挟み込む様に繰り出された二振りの木刀を認識するや否や、ハンソーネは右から迫るタロウの左手首に柄頭を当て、ひゅっと鋭い息を吐いた。
 呼吸に合わせ、ハンソーネの愛剣『トロンバオネ』の刀身が伸びる・・・
 一瞬にして刃長を倍にしたトロンバオネのきっさきがタロウの右前腕に突き刺さり、骨の隙間を滑って傷口を広げた。
「ぎっ」
 痛みに呻き声を上げたタロウが地面を蹴り出し、ハンソーネはそれに合わせて剣を捻ってタロウを引き止める。
 ハンソーネに引っ張られて重心を崩したタロウの顔面に、頑強な鉄篭手てつごてを填めたハンソーネの左拳が打ち込まれた。
 血の玉を浮かべてタロウが仰け反る一瞬にハンソーネの剣が引き抜かれ、そのまま踊る様に回転したハンソーネが、その刃がタロウのくびを目掛けて走る。
 闘技場の誰もが一分に満たない決着を幻視したその瞬間、ハンソーネの視界は紅炎に眩んだ。
 痛みと衝撃で萎縮した意識に残された戦意を掻き集め、無我夢中でタロウが木刀の引き金を引いたのだ。
 再び飛翔したタロウは青空に飛び上がり、空中で鼻を擦る。
「いってぇなぁ」
 タロウが零した声は誰にも届かず、次に噴き上がった紅炎の爆音が闘技場を震わせる。
 直上から降る隕石と化したタロウを睨み、ハンソーネは剣を緩く構えた。
 接触の瞬間、タロウが更に加速して縦に回転を加えた斬撃を繰り出す。
 ハンソーネはそれを一歩退いてかわし、しかし続く横薙ぎの、いや、横回転の斬撃につばを打たれた。
 タロウはハンソーネに息付く暇も与えずに、何度も何度も紅炎を上げて空中に紅炎の花を咲かせる。
 十秒間に三十も四十も続く猛攻に対し、ハンソーネはそれらを紙一重でかわし、時には剣やつばなし、まばたき程度の隙を突いて反撃の刃を伸ばす。
 タロウは回転の最中に迫る刃を感じてはそれを木刀や拳で叩き伏せ、ハンソーネを喰らわんとする火の玉と化し続けた。
 およそ常人の目では追えない攻防が繰り広げられ、爆発音の隙間に差し挟まれる鋼の絶叫だけが観客に人並み外れた戦闘を悟らせた。
 目紛しい乱舞も、やがて終わりを迎える。
 それは一つの誤ちによるものだった。
 タロウの木刀『火桴ひばち』と『戸桴とばち』は、引き金を引く事で刀背みねに仕込まれた噴出口から炎を発して推進力とする魔法を組み込んでいる。
 タロウはその引き金を引く瞬間を間違えた。
 意図せぬ瞬間に引き金を引いてしまったタロウは、左手の愛刀、戸桴とばちに宙を引き摺られて吹き飛び、右手の火桴ひばちの引き金を引いてその勢いを殺しつつ着地する。
 猛攻を続けて限界を迎えた三半規管が異常を訴え、胃からり上がる物を堪え乍ら、タロウはそれを見た。
 五メートル以上も離れた位置に立つハンソーネが、顔の左半分から黒煙を立ち上らせている。
 左手で顔を抑え、不格好に剣を構えるハンソーネが顔を覆うその手を離した時、観衆から短い悲鳴が上がった。
 ハンソーネの顔、その左目を中心に、彼女の顔は焼け焦げ、ただれている。
 ――事故だが、好機だ。
 タロウは逡巡を組み伏せて二振りの引き金を引く。
 ――偶然だろうが、王の叱責だ。
 ハンソーネは苦痛と半分を失った視覚にそう言い聞かせて、駆け出す。
 言葉の無い覚悟に押し出された両者は、空中で刃を交わした。
 何度も紅炎を上げて飛翔するタロウに対し、ハンソーネは跳躍して斬撃を加えたのだ。
 タロウの力を借りて高く跳んだハンソーネが着地し、今正に翻り様の斬撃を繰り出さんとするタロウを下段から斬り上げる。
 それに気が付いたタロウは振り切った木刀を無理に捻って引き金を引き、ハンソーネの斬撃を逸らした。だが、ハンソーネはその流れに乗って再び跳び上がる。いや、跳び蹴りを繰り出した。
 タロウの右脇腹にハンソーネの鉄靴がめり込んだ時には既に、タロウが右の引き金を引いている。
 ハンソーネの蹴りでタロウの体は必要以上に回転し、空振りのまま宙を舞った。
 制御を失い、がら空きの背中に細剣が伸びる。
 タロウはそれを察して、敢えて背後に飛翔した。
 背中から土手っ腹にハンソーネの細剣が突き刺さり、つばで止まる。その時を待って、タロウは右手の木刀を手放し、ハンソーネの右腕を掴んだ。
「おらぁ! アウトロの時間だ!」
 叫び、タロウが体を捻る。
 ハンソーネが驚いた一瞬、タロウの木刀が二度閃き、ハンソーネの側頭部を打ち付けた。
「ドラムソロだぜ!」
 驟雨しゅううの如き猛撃がハンソーネの右半身を襲い、しかしハンソーネは剣を手放さない。
 複雑に組み付き合った体勢で殴られるハンソーネは、痛みを堪え、左手で宙を掻き、手探りでタロウのうなじを掴んだ。
「見つけたぞ」
 我知らず呟き、ハンソーネは笑う。
「我慢比べだ! タロウ・サンノゼぇ! お前の首か! 私の命か!」
 組み合い、殴り、頚椎を掴んで振り回し、両者の脚がもつれ合って転がる拍子に二人は離れた。
 土に塗れた二人は息を荒らげ、咳き込み、震える両手で地面を掴むも、すぐには立ち上がれない。
 肺に空気を満たし、全身に酸素を送り込み、相手よりも早く立ち上がる。
 それだけを求めた両者は、やはり同時に立ち上がった。
 タロウは左手に携えた木刀を握り直し、空いた右手で首の具合を確かめ乍ら。
 ハンソーネはへこんで邪魔になった鎧を外してその場に捨て、身を軽くし乍ら。
 血と土埃に塗れた二人が睨み合い、不意にハンソーネが刃を下げて数歩歩いた。
 向かう先はタロウではなく、ハンソーネの近くに転がっていた木刀。
 ハンソーネはそれを取り上げて、タロウに放り投げた。
 反射的に木刀を受け取ったタロウは、躊躇いがちにハンソーネを見る。
「お互い、体力の底が見えてきたろう。今度こそ最後だ。全力のお前に、勝たせろ」
 ぎらぎらと戦意を滾らせて燃える瞳に射抜かれ、タロウは二振りの木刀を構えた。
「体力の底だぁ……? ……俺の刀の名は、火桴ひばち戸桴とばち。それを握る俺はかすがい。絶える事の無いだ! お嬢様なんぞに――」
 言葉が途切れ、爆発音が轟く。
 タロウに刃を向け直したハンソーネは、二度目の紅炎と同時に空を見上げた。
「勝てッか!」
 叫び声と共に三度目の爆発音が響いて、タロウの姿が眼前に迫る。
 応戦するべく刺突を放ったハンソーネは、しかし首を巡らせる結果を迎えた。
 タロウが飛翔したのはハンソーネの死角、左側。急いで突き出した腕を引き込むも遅く、ハンソーネは左の腹に強烈な二連撃を見舞われて吹き飛ばされた。
 次々と爆発音が響く中、ハンソーネは地面を蹴り、動き続けてタロウを探す。
 対するタロウは木刀の炎と疾駆を組み合わせてハンソーネの死角を取り続け、渦潮に乗る様に彼我の距離を詰めていく。
 闘技場内を二人が駆け巡る最中、ふとハンソーネが立ち止まった。
 左半身の方へ回ろうとするタロウを追わず、ハンソーネは身を翻して一直線に駆け出す。
 背後から爆発音が追い掛けて来る。ハンソーネはそれから逃れる様に駆け続け、遂に闘技場の内壁、観客席の眼下に位置する場所に辿り着いて、壁を蹴った。
 宙に躍り出たハンソーネの姿は風に舞う木の葉を思わせるも、右手に握られた銀色は蜂の針。
 一度も振り返らず、タロウの姿を見ていなかった筈のハンソーネは空中の一瞬で飛翔するタロウの首に狙いを付けて鋭い刺突を放った。
 遮二無二体を捻り、刺突から逃れたタロウに、今度はハンソーネ自身が伸し掛かる。
 そのまま地面に背中を打ち付けたタロウは、腕を顔の前で交差させて木刀の引き金を引いた。爆発で押し上げられたハンソーネは体勢を崩し、タロウはそのままハンソーネの顔面に頭突きを食らわせた。
 焼けた傷が痛むのか、ハンソーネが呻き声を上げたのを聞き乍ら、タロウは両腕を伸ばして引き金を引く。左の木刀は背中側に、右の木刀は正面に、それぞれ紅炎を噴出してタロウの体が時計回りに回転し、地面から足を離す。
 腕を引き込む最中に再度引き金を引いて回転を加速させ、自らを火の車輪と化してハンソーネの右半身に絶え間ない連撃を見舞う。
 三度、四度と打ち込まれた連撃によろめき、五度目に顔を狙って迫る木刀をかわしたハンソーネは、行き過ぎようとするそれを掴んで跳んだ。
「バカが!」
 罵倒と共にタロウが左の引き金を引き、木刀の噴出口ごと掴んだハンソーネの左手が、いや、左腕全体が燃える。
 しかし、ハンソーネはそれを離さない。
 木刀を掴んだままタロウの回転に乗り、残る右眼でタロウの姿を捉え、タロウはその眼光に恐怖した。
 回転を速めるべく二振りの引き金を引くも、ハンソーネは振り回され乍らも食らいつく。
 空中で錐揉み状に回転する中、タロウは右の木刀でハンソーネの左腕を狙った。
 そこに、銀の光が差し込む。
 甲高い鉄と木の悲鳴が響いて、ハンソーネの刃がタロウのくびに迫っていた。
 タロウが弓形ゆみなりに体を反らし、ハンソーネが腹の底から息を吹く。
 瞬く間に伸びた細剣がタロウの喉に突き立ち、タロウが音にならない悲鳴を上げて、両者は地に落ちた。
 落下の衝撃で喉を裂かれたタロウはぼたぼたと血溜まりを作り、だが、それでも立ち上がる。
 ハンソーネもまたそれを見て立ち上がりかけて、紅炎を見た。
 咄嗟に剣を構えた時にはタロウの鬼の形相が目の前にあり、用を成さない筈の喉から獣の唸り声を上げて、鍔迫つばぜり合う。
 二振りの木刀に挟み込まれた細剣は押しても引いても動かず、かと言って何もしなければ剣が弾き飛ばされそうになる。
 正気を失っている様で、確実に勝利をぎ取ろうとするタロウを胸中で賞賛して、ハンソーネはタロウの鳩尾みぞおちを殴りつけた。
 焼け焦げた篭手こてが砕け、左腕が異音と激痛を訴えて目眩を覚えるも、ハンソーネは崩れ落ちるタロウの体を必死で受け止めた。
 気を失い、ぐったりとしたまま拍動と共に大量の血を流すタロウの体を横たえて、ハンソーネは剣を高く掲げる。
「勝者! ハンソーネ・トロンバ!」

  ***

 決着後、二人の元に医療班が駆け付けた。
 治療を受け終えて地面で上体を起こしたハンソーネが、傷跡は残ったものの機能を取り戻した左腕の調子を確かめていると、不意に右肩を叩かれた。
「ハンソーネ選手、申し上げにくいのですが……」
 ハンソーネの治療を行った医療班の長を務める男が、沈痛な面持ちで視線を彷徨わせる。
「なんだ。言え」
 ハンソーネに促され、医療班長は手鏡を取り出した。
 鏡の中のハンソーネは見慣れた顔ではなく、左の上瞼うえまぶたを中心に押し花を貼り付けた様な褐色の火傷跡が残っていた。
「タロウ選手の武器、その魔法は、恐らくマギニウムと天青石てんせいせきを合成した発火機構を備えていた様でして……その、天青石の成分を取り除くに当たり、傷跡を完全に処置をする事が出来ず…………」
「つまり治らないんだな?」
「は……」
 謝罪の意か、深く頭を下げた医療班長に対し、ハンソーネは彼の目に映る様に手を振る。
「構わん。死にはしないのだろう? 婚期も捨てて剣に走った身だ。気にするな」
 顔を上げ、申し訳なさそうに表情を歪める医療班長に、ハンソーネは笑いかけた。
「素晴らしい医療技術だった。戦場ならば命は無かったよ。ありがとう」
 心の底からそう言ったハンソーネに、医療班長は再び頭を下げて泣き出す。
「勿体なきお言葉です…………」
 それだけ言って俯く医療班長の震える肩に手を置き、ハンソーネは立ち上がった。
 辺りを見渡し、もう一つの医療班に目を遣ろうとして、医療班長の物とは別の泣き声を聞いた。
「みんな、みんな、ごめん……クソッ、くそぉ……おれっ、ここまで来て、来たんだよぉ…………あと一歩までぇ…………」
 声を最小限に抑えて、流す涙は観客に見えない様にと、タロウが地面にうずくまっている。
 それでも溢れ出して止まらない悔しさを己の膝にぶつけて、息を吹き返したタロウは敗北と戦っていた。
「こんなんで、帰れるかよぉ……」
 フランゲーテ国の中央都市に建つ、国内最大級のこの闘技場『クシフォス・ハーモニー』で不定期に催される剣闘舞曲祭は、経済的にも大きな意味を持つ。
 タロウ・サンノゼが故郷と呼ぶサンノゼ海岸は、山と海に挟まれた敷地だけは広い田舎町だ。
 歴史も長いその町は、良く言えば安定していて、悪く言えば閉鎖的に長らえてきた土地だと言えよう。
 そんな町の資源に、近年枯渇の気配が立ち上っている――。
 騎士団の仕事上で知り得た、血の通わない文字だけの情報を思い返したハンソーネは、うずくまるタロウへ向けてゆっくりと歩み出した。
 彼の姿は、背中だけを見ても、まだ幼さを感じさせる少年のそれだ。
 歳の頃は十代中頃か。
 嗚咽おえつを零すタロウの前で膝を着いたハンソーネは、タロウの肩に手を乗せて、顔を上げさせる様に力を掛けた。
「立て。立って、お前を心配している観客に挨拶をしろ」
 言われ、ハンソーネを見上げるタロウの顔は、泣きじゃくる子供そのものだった。
 しかし、それも顔を拭う一瞬で隠され、再び見せたタロウの表情は明るい。
「すっ、すいません! 一人で反省会始めちゃって、ははは」
 泣き腫らした顔で笑うタロウの頭を、ハンソーネの素手が荒々しく撫でた。
「下手なクセして隠すな。客席からもバレてるぞ」
 頭を揺さぶられ乍ら、タロウの顔が見る間に落ち込んでいく。
 それを見詰めるハンソーネは、努めて優しい声を発した。
「戦いは痛いし、怖い。負ければ悔しい。だが、故郷を背負い、最後の時まで食らいつく姿は、誰の目にも英雄として映っていたよ。――タロウ・サンノゼ、お前は正しく、サンノゼ海岸の英雄だ」
 俯いたタロウが眼を零さんばかりに見開いたのは、ハンソーネからは見えていない。
 しかし、その小さな背に力が甦るのをハンソーネは肌で感じていた。
「生存確認! 生きてます!」
 タロウの頭に乗せた右手はそのままに、ハンソーネは左手を挙げて医療班の代わりに声を上げた。
 瞬間、何処までも届きそうな程大きく、優しい歓声が沸き立った。
「おかえり!」
「おかえりー!」
「タロウ! よくやった!」
「師団長様ー!」
「かっこよかった!」
 一つ一つの声が、掻き消えてしまう筈の言葉が、ハンソーネとタロウの元までしっかりと届いている。
 見渡す客席には笑顔が満ちていた。
「ほら立て。二度も挨拶を忘れたら流石の魔王様も怒られる」
 ハンソーネの手を借り乍ら、タロウは苦笑した。
「そういや、忘れてましたね。ハンソーネさん」
 タロウを立たせる最中、ハンソーネはきょとんとしてタロウの目を見る。
 タロウはそれに驚いた様な、照れた様な表情を見せてわたわたと手を動かした。
「ほら、アレですよ。マリアンヌ選手との試合の後の! あの時ハンソーネさん挨拶も忘れて」
「ああ、いや、そうじゃなくて」
 タロウの言葉を遮ったハンソーネは、目を丸くしたまま小首を傾げた。
「お前、敬語だったか?」
「へっ?」
 素っ頓狂な声を上げてタロウが固まり、次いで頬を掻いて目を逸らす。
「あー、はは…………へ、へへ」
 作り笑いで誤魔化すタロウに吹き出して、ハンソーネはタロウから視線を外した。
「まぁ、いいさ。何でも。……ほら! 手を振れ!」
 そう言ってハンソーネが右手を振ると、観客は声を更に張り上げる。
 タロウと共に闘技場全体に手を振り終えて、ハンソーネはタロウと共に南の通用口に向けて歩き出した。
「今度、サンノゼ海岸への遠征を打診してみるよ。理由は……そうだな、優秀な戦士の勧誘?」
「ちょっ、やめてくれ! みんな温厚な人たちばっかだし、人手が減るのは困る!」
「ははは。じゃあ資源の調査でどうだ。問題視はされても、専門家が訪れた事は無いだろう?」
「それは、たぶん…………でも、海産物も減って、鉱山も痩せてきてる。理由なんて知っても……」
「それが対策出来る物なのか否かを知る為に行くんだ」
「それで何も出来ないって分かったらどうすんだよ」
「その土地で新しい資源を探すか、今ある産業を伸ばすかだろう。サンノゼ海岸は塩の生産地でもあるし、観光にも適している。それには現地の人々の協力が必要だが、まずは知らなければならない」
「結局、何もわかんないんじゃ……」
「なんだ? 戦う前から諦めるのか。東岸の闘士」
「あ? そんな事言ってね」
「言っている。知るのが怖い。試すのが怖い。だから動けない、と」
「俺はっ……」
 通用口の中、闘技場内に降り注ぐ陽光を背に、タロウが俯いた。
 声を発さない口が何度か動いて、再び上げられた顔は、闘志に満ちている。
「俺は、サンノゼ海岸の英雄になるんだ。ここでは負けたけど、優勝者を連れて帰って、故郷を生き返らせる。あの頃の、みんな、誰もが、当たり前に生活出来た頃に」
 タロウの力強い瞳を見詰め返して、ハンソーネは頷いた。
「良い夢だ」
 靴音が二人分、南へ続く通用口に響く。
 強く、確かに。


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