小説「剣闘舞曲」5

本作をお読みになる前に
 この作品は、闘技場で行われる試合を描いたファンタジー小説です。
 怪我や血の描写、魔法の要素、他にもあなたが苦手とするものが含まれるかもしれません。ご了承の上でお読みください。

 また、本作は特定の国や楽器、音楽に対する批判など、作者の思想を広める意図で作られたものでは無い事を予めご理解ください。
  空山非金

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  5:電撃

 客席が砂時計の代わりだった。
 一度は空いた席に観客達が戻り、闘技場を再び彩る。
 その様子を見て、一足先に南側の通用口の影に立ったモーグは、一つ息を吐いた。
「緊張しますか?」
 五十代前後に見える運営委員会の男に声を掛けられて、モーグは頷く。
「そりゃ、もう…………幾ら考えても、ここからじゃ見えませんから。その、勝つ……勝ち筋みたいな、ものが」
 モーグの答えに、男は眩しそうに目を細めた。
「そうですね。私も昔――何十年も前ですが、選手としてここに立った事があります」
 男の言葉に、モーグは驚いて彼の横顔を見た。
 彼は闘技場の方を見て、目を細めている。
「その時、私も似た様な感覚でしたよ。試合の時間までは何をしても戦う事が頭から離れなくて、あるはずの無い答えを探して試合の時を待っていました」
 そう言って男は自嘲気味に笑い、モーグと目を合わせた。
「モーグ選手、私が言える事は、一つだけです。…………自分にだけは、負けないように。と」
 男の言葉を聞いて、モーグの視線が彷徨う。
「自分にだけは……」
 男の言葉を繰り返して呟くと、視界の端で彼が頷いた。
 モーグはその言葉を考えあぐねて、天井を仰ぐ。
「手強いなぁ」
 絞り出した声に、男が小さく笑った。
「ええ、まったく」
 柔らかなその声音に、モーグは口許を綻ばせる。
「皆様、お待たせ致しました。剣闘舞曲祭の準決勝戦、第一試合の準備が整いました。――選手の入場です!」
 拡声器を通した司会者の声が響く。
 背筋を伸ばして、モーグは通路の中央に立ち、大きく深呼吸をした。
「準決勝第一試合は、多くの強敵に食らいつき、初出場でここまで勝ち上がってきた二名! 南側より、西座さいざの戦士! モーグ!」
 司会者の声に呼ばれ、モーグは太陽の下へと踏み出す。
 通用口までの緊張と不安に背中を押された歩きでは無い。
 自ら戦いに赴く為に土を踏みしだく、凛とした歩みだ。

  ***

 遠く、反対側の通用口から、無数の歓声を浴びてモーグが闘技場に入る。
 その凜然とした歩みを見て、レベクは目を見開いた。
 これまでのモーグとは何かが違う。
 敏感に相手の差異を見て取ったレベクは、無意識に愛剣『テラ』の柄頭を撫でていた。
「そして! 北側より、亜麻の剣士! レベク!」
 司会者の声に導かれるまま、レベクも闘技場へと足を踏み入れる。
 天井の低い通用口から歩き出すと、レベクを迎える歓声が膨らんで降りしきる。
 一足先に開始線に着いたモーグを見詰めて、レベクは開始線の一歩手前で立ち止まった。
 やはり、何かが――ほんの些細な何かが違う。
 何が、という答えは出せず。レベクは顎を引いた。
「モーグさん、僕は――貴方と僕は、どこか似ているなと思ってました」
 レベクの声に、モーグは少しだけ眉を上げる。
「そう、なんですか」
 モーグの声は小さく、まだ成人して間も無いレベクと近いものを感じさせた。
 しかし、それと同時にレベクは自分との違いも感じ取っていた。
 例えば張り直した真新しい弦の様な、そういう、程良い緊張感。
「でも、今は違う」
 知らず内に、レベクはモーグを睨むように見詰めていた。
「その違いについては、この試合の後に分かる気がします。勝敗の決した後に」
 言って、レベクはモーグの答えを待たずに足を踏み出した。
 成り行きを見守っていた審判員が右手を挙げる。
「両者そこまで。準備は良いか!」
 レベクも、モーグも、口を固く引き結んで立つ。
 審判員が息を吸う間、完全な静寂が闘技場内を満たしていた。
「準決勝戦、開始!」
 瞬間、レベクは剣を抜かずに駆け出した。
 猛進するレベクに目を剥いたモーグは、数歩退きつつも両刃の剣の柄に盾を貼り付けた様な得物を鞘走らせる。
 モーグが正中に構える姿が眼前に迫り、レベクは右手で鯉口を切った。
 
 レベクの死角、愛剣『ロバト』の巨大な護拳に隠れる柄は、強く握り込むと操者に対して魔法を発動する。
 ロバトに仕込まれた魔法は、操者の神経伝達を限界直前まで引き上げるというもの。
 それ故に、モーグは常人の目に映る三分の二・・・・の速度で、今まさに居合斬りを繰り出さんとするレベクを見ていた。
 ロバトの柄をより一層強く握り込み、モーグは愛剣を両手で持つ。
 しりりり、とやや引き伸ばされた鞘走る音がして、モーグはつんのめる様に前に出てロバトの護拳盾ごけんたてを突き出す。
 常人よりも僅かに――正確には二分の三倍――速いモーグの動きに、レベクは一拍遅れて目を見開いていた。レベクが驚きをあらわにした時には、モーグの護拳盾は彼の剣のつばにぶつかり、大きな音を立ててレベクの体が仰け反る様に揺らいだ。
 モーグはそこで止まらない。
 ロバトの魔法が看破される事は珍しいが、素早いモーグの動きに適応する戦士はごまんといる。
 剣闘舞曲祭の中でも、そういった手練とぶつかって来たモーグだからこそ、レベクの感情が驚愕に染まっている内にその喉笛を狙うべく刃を振り上げた。
 モーグが腹に力を入れ、全身で剣を振り下ろそうとした瞬間、モーグは蹴り飛ばされた。
 意識の外で肝臓の辺りを強かに蹴りつけられたモーグは、数歩退さがり乍らも右手で剣を、それに取り付けられた護拳盾ごけんたてを構え、左手で腹を押さえる。
 その隙にレベクも体勢を整えていた。護拳盾の衝撃を食らったのか、剣を握る左手首を回し、右手には演奏用の弓を携えて。
 三メートル近い距離を空けた二人は睨み合い、数秒間膠着こうちゃくした。
 その短い時間に、モーグは必死で考える。
 モーグが操る剣、ロバトは操者を補助する魔法のみで、攻撃に転じる力は無い。
 対してレベクの持つ剣は、ヘロン=ウィウスとの試合で見せた炎と氷――熱を操る魔法だと推測できる。
 その熱は突風を巻き上げてしまう程の高温で、尚且つ爆発的に解放する事が出来るらしい。
 では、それに対抗するには。
 いや、それを圧倒するには。
『お前が行う行為とは、全てが摂理に非ず。また、全てが摂理に在る』
 恩師の声が蘇り、しかし答えにはならない。
 思考にけるモーグが睨む先で、レベクが動いた。

 数秒の膠着に、レベクもまた思考を巡らせていた。
 悩みは二つ。
 モーグは魔法を使ったのか否か。恐るべき反応速度でレベクをなすどころか、危うく首をねられる所だった。それが、魔法による賜物なのか、モーグ自身の才能なのか。
 そしてもう一つの悩みは、ヘロンまでの試合で披露した『テラ』の歌が、火炎の歌と氷雪の歌だけであるという事。
 手を抜いて負ける訳にもいかないが、レベクの強みは放つ魔法の種類にあると自認している。その強みが最大限に活かせるのは、相手に「レベクの剣は温度を操る」と錯覚させた上で残る二曲を使う瞬間だ。
 この二つを考えて、考えて考えて考え抜いた数秒の後に、レベクはテラの弦に弓を添えた。
 目の前のモーグが目を見開き、剣を強く握る。
 奏でるのは、氷雪の歌。
 モーグに霜を張り付けて体温を奪い、彼が魔法によって速いのか、持ち前の素早さなのかを見極める。
 そう決めたレベクは、モーグが突進して来ても対応出来る様に速く強く歌を奏でた。
 氷雪の歌が持つ寂し気なメロディは、速度と強弱の変化によって荘厳な雰囲気を纏って響き、剣身が氷河を思わせるアクアマリン色に輝く。
 その間、モーグは動かない。だからレベクは氷雪の歌を重ねた。
 先程の反射神経はまぐれかと問いたくなる程に、モーグが遅まきながら駆け出す。
 詰まる二メートルの最中に三度目の氷雪の歌を重ねて、レベクは剣を真っ直ぐに構えた。モーグを指し示すきっさきに集中して、相手の膝を狙うように下段への刺突。
 風を斬る音よりも速く届くきっさきは、レベクの予想通りにへ払われた。
 レベクはモーグの力を借りて刃を地面に触れさせる。
 途端、刃から解放された冷気が足下に押し広げられ、より刃に近いモーグの左足、その足の甲までが霜にとざされた。
「うっ、く」
 冷たさに喘ぐモーグが身を引き、ばきばきと音を立てて霜を引き剥がしている間に、レベクは跳ぶ様に回り込む。
 足に気を取られたモーグの反応は遅く、その背中を斬るには充分な時間があった。
 凍てつく刃がモーグの革鎧を凍らせてから砕き、さらにその奥の鎖帷子くさりかたびらをも斬り裂いて、右の肩甲骨の下辺りを深く斬り、血の霜でとざす。
 悲鳴を上げ、背を丸めて前のめりに逃げ出すモーグを追い、レベクは更なる斬撃を与えるべく剣を大上段に構えた。
 アクアマリン色の光条が縦一文字に閃き、テラはくうを斬る。

  ***

 一度だけ。
 モーグは、人智を超えた強さを誇る恩師に、ただの一度だけ刃をぶつけた・・・・事がある。
 それは、鍛錬に明け暮れて愛剣『ロバト』の手入れを怠った時だった。
 柄巻つかまきの布がほつれ、持ち変えようとした拍子にマギニウム製の黄金色の柄が剥き出しになり、モーグはそれに気が付かないまま柄を握り締め、常人の五倍の速度の世界へ足を踏み入れてしまったのだった。
 五秒に引き伸ばされた一秒の中、モーグは無我夢中で師の肩に剣を振り下ろし、しかしその動きに着いて来れなかった右腕が折れて剣身が師に当たっただけで終わった。
 恩師からは『封印』を言い渡されたロバト本来の力だったが、モーグはこっそりとそれを使いこなすべを探り続けていた。

  ***

 モーグの愛剣は、人体に流れる電流を増幅させて操者の神経伝達を限界直前まで引き上げる。
 この『限界直前』とは、日常生活に支障を来さず、長期戦や団体戦で息切れを起こさない『限界』を指している。
 では、肉体の『限界』であればどうか。
 恩師の目を掻い潜り、ひっそりと奥の手を開発していたモーグが出した結論は、親指の第一関節まで。
 ロバトの柄巻つかまき、その右の親指が来る位置に、モーグはこっそりと穴を開けていた。
 背後を取られ、レベクの冷徹な斬撃を受けたモーグは、レベクから柄を隠す様にして柄巻つかまきの内側に右の親指を滑り込ませていた。
 そうして手に入れたのは、常人の三倍の世界。
 だが、その状態も万能では無く、りきみ過ぎれば奥歯が割れ、関節を痛め、最悪の場合骨折する。
 枷《かせ》は力加減だけでは無かった。
 モーグが一番苦痛に感じたのは、だ。
 神経の伝達が速くなり、モーグが感じる世界の事象も三倍に引き伸ばされている。
 そんな中では足音一つも騒音になり、風の音も常に強い。
 モーグの背後を取ったレベクの背に回り込もうとすれば、尚のことだった。
 耳に麻布を擦り付けられる様などろりとした風を肌と耳で感じ乍ら、モーグは駆ける。
 モーグにとっては三秒前に蹴り出した足も、レベクや観客にはたった今行われた事として届く。彼らの目は一様にモーグの軌跡を追って動き、レベクもまた目を剥いてモーグの居る――いや、居た・・方向へ両手を掲げて対峙せんとしていた。
 モーグはその様を冷静に見詰めて、羽衣に似た実体を感じる風を押し退け、剣を振り上げる。
(まずは右肩。弦を弾く腕を斬って等速に戻る)
 思考と共に振り上げた剣を振り下ろし、モーグはレベクの右肩に刃を沈めた。
 僧帽筋を深く切り裂き、鎖骨と肩甲骨に止められた刃を引き抜く。
 ロバトの剣身から振り払われた血が、群れる鳥の様な音を立てて、紅い道を作った。
 膝から崩れ落ちるレベクを見届けて、モーグは柄巻に差し込んだ親指を抜く。
 じわりと元の速さに戻る世界に、低く唸るようなヴァイオリンの音色が響いていた。

  ***

 一瞬と呼ぶには長い。実に七秒もの間、モーグはレベクの知覚から外れていた。
 外れていた。としか形容できないとレベクは考えていた。
 右肩を深々と裂かれ、テラの弦を弾き乍ら、レベクは考え続ける。
 モーグの剣に仕込まれた魔法は何か。
 モーグが人のそれを超えた速度で動いたのは、如何いかなる仕組みか。
 たった今弾いた黒孔こくこうの歌で、それを打ち破れるのか。
 惑う様に考えていても、レベクの腕は無理を押して動き続ける。
 レベクの愛剣、テラが理解する歌は四つ。
 火炎の歌、氷雪の歌、雷電の歌、そして黒孔こくこうの歌。
 それらはテラという銘の由来『世界』が持つ力になぞらえた魔法を促す祝詞のりと
 テラの喉、弦を動かすのは、レベクが右手に持つ演奏用の『ヴェント』という名の弓。その由来は、風。
 テラの柄は、ヴェントをつがえて歌う喉だ。
 そのが低く唸る。
 唸りは一度、二度と引き直される度に増して、テラの剣身までが振動し、光を呑み込む。
「お前、まだ」
 モーグが背後で呟いた。
 レベクはそれに振り向こうとして重心を崩し、弓を杖代わりにして何とか膝を着いた姿勢を保つ。
 黒曜石色に染まった、いや、光をさない剣を見せつけて。
「まだ、演目はあるぞ。モーグ」
 霞む視界の中にうごめくモーグの影へ向けて、レベクは黒いあなと化した刃を振るった。
 剣身に溢れる漆黒はさま空気に熔け消え、テラは白銀の剣身を取り戻す。
 だが、黒孔こくこうの歌は鳴り止まない。
 斬り裂かれた虚空に風が、空気が、闘技場の砂粒が吸い上げられ、光さえも呑み込んで離さない、指先程の重力の渦が生まれ、黒孔の歌を奏で続ける。
 その渦は何かを呑み込む度に増していき、モーグが驚き戸惑う内に拳大こぶしだいにまで膨れ上がった。
「防護壁を立てます! 観客席の皆様はそのまま! そのままで!」
 司会者の声が響き、観客席と戦場の間に透明な隔壁が迫り上がる。
 その光景を意識の端で認識し乍ら、レベクは震える脚で立ち上がった。
「モーグ! 来ぉい!」
 叫び、弦に弓を番える。
 奏でるのは雷電の歌。
 タイガーアイ色の輝きに転じたテラの剣身で、レベクは己の右肩を、その傷をなぞった。

 暗黒の渦の向こうで、レベクは剣から己にいかづちを移す。
 モーグはその光景を見て笑い、渦を迂回するべく駆け出すと同時に柄巻に指を差し込んだ。
 途端に引き伸ばされる感覚に心臓が、全身が悲鳴を上げて、絹を割いた様な音が脳裏に響く。
 だが、モーグの胸を満たすのはそんな些末な事では無い。
 強敵と対峙した高揚と緊張、そしてそれを斬り伏せて立つという勝利への渇望。
 黒い渦が絶え間なく空気を吸い込み、巻き込まれた土塊つちくれが押し潰されて蒸散する音がする。わずらわしいだけの騒音。
 では、聴覚に割く意識は必要無い。
 レベクに斬られた背中の霜が体温で溶け、血が吹き出して痛みを訴えている。かしましいだけの生存欲求。
 では、痛覚に割く意識も要らない。
 そうして、音も、痛みも、視界の端にちらつく観衆も、レベクの全身を駆け巡る眩い稲妻の色も、戦い以外の思考も捨て去れば、モーグが感じる世界は単純だった。
 己の体が動かなくなる前に、敵が動かなくなるまで斬る。
 黒い渦の脇を抜けてレベクと斬り結んだ瞬間には、モーグは人並みの思考を捨てきっていた。

  ***

 闘技場の中に黒い渦が発生してからの一合目。
 モーグは目にも留まらぬ速さでレベクとの距離を詰め、右下段から斬り上げた。
 しかし、対するレベクは先刻翻弄されていたのが嘘だったかの様に反応してみせ、斬撃を受け流し、その最中に光速で弦を奏でる。
 レベクの剣から稲妻がほとばしり、タイガーアイ色の輝きを宿した剣身がひるがえってモーグの右肩を掠めて過ぎる。
 ほんの少し、触れ合う程度のそれでモーグの右半身が跳ねるも、モーグは影響を受けなかった左腕で乱暴に剣を振り下ろす。
 レベクはその反撃の軌道を弓ではじいて逸らした。
 爪弾つまびかれた鋼が金切り声を上げ、空を斬る。が、モーグの戦意に満ちた表情は揺るがない。
 レベクの足下を穿って土を巻き上げる剣を軸にして、モーグは蹴りを繰り出した。
 一瞬反応の遅れたレベクに蹴りを防ぐ手立ては無く、レベクの脇腹がしたたかに打ち据えられる。
 足を戻し乍ら剣を引き抜いたモーグに対し、レベクは痛みに歪む顔で弦を弾く。
 黒い渦の唸りと、稲妻を纏うレベクの姿が相俟あいまって、その旋律は禍々しい。
 悪魔の歌は、駆け出したモーグが止めた。
 レベクとの距離を詰め、間髪入れずに二度、三度と剣を振るい、レベクが大きく退いた瞬間に直線の刺突を放つ。
 回避に専念するレベクの演奏は打ち切られ、最後の刺突でレベクは大きく跳び退しさった。
 モーグとレベクの間に三メートルもの距離が横たわる。
 レベクはタイガーアイ色に瞬く剣を鞘に添わせて構え、モーグは一つ息を吸って駆け出した。
 瞬間、モーグへ向けて幾筋もの稲妻が伸びる。
 レベクが居合で空を斬り、剣の雷を解き放ったのだ。
 迫る雷電を斬り払おうとした剣を伝い、ほんの一瞬遅れてその他の稲妻に絡め取られたモーグは、身体を大きく仰け反らせて一瞬の絶叫を上げた。
 不自然にくずおれるモーグは、しかし剣だけは手放さずにきっさきを地面に突き立てて、剣に縋る様にして荒い呼吸を繰り返す。
「負けだ。モーグ。もう剣を手放せ」
 言って、レベクは刃を向けたまま弦を弾く。
 強く、大きく、人の頭大あたまだいに肥大化した黒い渦の唸りと共に、モーグを威圧する音が響く。

 ずっと、同じ風が吹いている。
 視界の端に浮かぶ黒い渦のせいだろうか。
 一定の速さで掻き回される、生温いスープが満たされた鍋の中にでも居る様な感覚。
 モーグはそれを肌に感じ乍ら、同時に内側で跳ね回る痛覚に戦意を削がれていた。
 終わらない風。
 終わらない痛み。
 終わらない――延々と引き伸ばされる知覚。
 レベクは何故、きっさきを向けたまま、半ば開いた口で叫び続けるのだろう。
 淡々とした表情のまま、言葉にならない声で呻く様に叫ぶレベクを見て、モーグははたと気が付いた。
 叫んでいるのでは無い。喋っているのだ。
 何倍、いや、何十倍にも引き伸ばされた世界では、人の話し声など言葉として認識出来ない。
 そこに気が付いて、モーグはもう一つの事実を知った。
 愛剣、ロバトを握る右手は完全に固定されて指が開かず、後から柄に触れた左手はモーグの体感にして三十秒もの時間を掛けて、激痛を訴え乍ら動いている。
 レベクが放った雷電によりロバトの柄巻が焼けて、モーグの掌をも燃やし、モーグの右手とロバトの柄が溶け合っていた。
 そして、モーグの左手は雷電に撃たれて暴れ、難を逃れていたのだ。
 レベクからは見えない、護拳盾ごけんたての裏の状態を知り、モーグは笑った気になった。
 実際には肉体が追い付かず、表情が動く事は無いのだが、それでもモーグは笑った。
 僥倖。
 その二文字は、レベクが間延びした曲を弾き始めた後――体感にして十分以上の時間が経過した後でも、狂気的な希望を示す星として燃え続けていた。

 雷電の歌を奏で終え、モーグが動いた。
 両手で剣を握ったままゆらりと立ち上がり、凍えた様に絶え間無く震えて、笑っている。
 その異常性にレベクは目を見開き、無意識に一歩退がった。
 モーグの異常事態に気が付いたのか、幾らか遅れて観衆のどよめきが広がり、静まる。
 それが合図になったかの様に、モーグが駆け出した。
 いや、脚の感覚を失っているのか、それは走るとは形容し難い、まるで獣――それよりも恐ろしい、屍人の様相だ。土を蹴ってえぐり、地に剣を突き立てて肉体を引き寄せる。跳ぶ様に前進しては地面を捉え損ねて剣を突き立てる。そういう突進だった。
 瞬く間に詰まる距離を見据え、レベクは冷静に刺突の構えを取る。
「もうやめろ」
 呟き、タイガーアイ色の刃を突き出せば、テラのきっさきから一筋の雷が迸る。
 が、モーグはそれを転び様に身を捩ってかわした。
 それだけでは無い。雷が飛び去るのに合わせて膝を丸め、剣に取り付けられた護拳盾ごけんたてを地面に突き出して前転をしてみせた。
 回転で詰まった距離分を離すべくレベクが地面を蹴り出した時には既に遅く、無茶な体勢から繰り出された横薙ぎの斬撃で、レベクの両脚が脛の半ばから斬り離された。
 宙に舞う身体を振り乱し、遮二無二片脚を着いたレベクは叫び乍ら剣を振り下ろす。
 モーグは目の前に居る。これを斬らなければ殺される。
 ただその思考だけに駆り立てられて振り下ろした刃は、予見していた様に頭上を斬り払うモーグによって砕かれた。
「は、はははっ、ははははは!」
 左手で地面を掻き、有り余る力で土を蹴り、震え乍ら笑うモーグが迫り来る様を見て、光の閃きを最後にレベクの意識は途絶えた。

  ***

 突如として狂乱状態に陥ったモーグの斬撃により、レベクは皮一枚を残して目元を一文字に裂かれた。
 脳まで届いた刃によりレベクは戦闘不能とされ、たおれたレベクを見下ろすモーグの勝利とされた。
 審判員の宣言を待たずに戦場へ駆け込んだ医療班はレベクを治療室に運び、立ち尽くすモーグもまた医療班に担架へ寝かされる形で治療室へと運ばれて行った。
 そうして選手が居なくなり、闘技場を整備する運営委員会の十六名が会場へ足を踏み入れた時、悲劇は起きた。
 先のハンソーネ・トロンバとマリアンヌ・フランクリンの試合とは異なり、凡そ自然界で発生しようの無い黒い渦を解除するべく動員された運営委員会が、限界を迎えた渦の爆発に見舞われたのだ。
 隔壁に守られた観客やその他の人間に被害は出なかったが、その時に会場内に居合わせた審判員含む十七名全てが重傷を負った。

  ***

 その一部始終を貴賓室きひんしつから見ていたフランゲーテ魔法国の王は、蓄えた髭を撫ぜ、重々しい溜め息を吐き出す。
「グレゴール、私は先のルテニスとタロウの試合を見て、観客を恐れさせる試合をした選手は両名共に失格にしても良いと思っていた」
 王の声に、貴賓室の扉を背にして立つ中年の男、グレゴールは僅かに頭を下げた。
「私も同じ意見で御座います。これは祭事、平時の闘技場とは異なり、武勇をもって国民に戦士と武器をたたえさせる……わば、我々と民の意志を束ねる催しである、と…………」
 グレゴールの言葉に、王は肩越しに彼を見て頷く。
 そして、黒い渦の圧力で鉱物と化した土塊つちくれが転がる闘技場に目を落とした。
「しかし、これではモーグを勝者とせざるを得ない。私としてはタロウとハンソーネこそが決勝戦を飾るに相応しいと思っていたのだがな」
 闘技場を見下ろす苦々しげな瞳を見る者が、同じ貴賓室の中に居た。
 それは、王の左手側のソファに腰掛ける王妃と王子だ。
 王子は口許で笑い、ソファから立ち上がる。
「父上、この状況は悪い事ばかりではありません」
 屈強な体躯を立ち上がらせた王子は歩き、頭一つ分も差がある父の傍らに立った。
 王はそれを硝子の反射で見る。
「あれ程の爆発の中、運営委員会の者も、審判員も、死者はゼロ。当然観客もです。それはつまり、我が国の技術力を証明する事に他なりません。モーグの異常性はレベクの魔法にあったと観客に説明して、モーグには釘を刺しておけば良いのです」
 王子の提案に、王は左手の甲で頬を叩いてそれを第一声とした。
莫迦ばかが。魔法とは物質に作用する現象でしかない。レベクが生み出した黒いあなは天文学で発見された重力によるものだ。客席に居る技術者には知れている事」
 叩かれた頬を指でなぞり、王子は深く頭を下げる。
「も、申し訳ありません」
 王はそう言う息子の頭に手をやり、乱暴に撫でた。
「お前に足りないのは、他者が己より優れていると知る事だな。――グレゴール、息子の愚考は聞かなかった事にしてくれ」
「はっ。い、いえ、しかし、殿下のお考えは民を安心させようと思っての事と推察します。それはとても尊き事かと」
「甘やかすな。言葉の上に安心など無い。民は国の動きを見て安心するのだ」
 グレゴールを見てそう言った王に、グレゴールは言葉を詰まらせたまま頭を下げた。
「幸い、この後にはもう一試合ある。その間にモーグとは話さねばならぬかな」
「み、自ら向かわれるのですか」
 話し乍ら歩き出す王に、王子は慌てて声を掛けた。
 王は侍従に外套の袖を通させて、王子に向けて笑う。
「直々に行けば、考えを改めやすかろう。魔王の言葉であるぞ」
 グレゴールと数人の部下を従えて、腰の軽い王は貴賓室を後にした。
 それを見送り、王子はソファにへたり込む。
「全く、父上は……」
 呟く王子に、部屋に残った王妃はくすりと笑い声を零した。
「貴方と同じく民思いなのよ。魔王様は」
 母の柔らかな笑みを見て、王子は窓外に目を向ける。
 青く澄んだ空に、西に寄った太陽が雲を従わせていた。

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