小説「剣闘舞曲」1
本作をお読みになる前に
この作品は、闘技場で行われる試合を描いたファンタジー小説です。
怪我や血の描写、魔法の要素、他にもあなたが苦手とするものが含まれるかもしれません。ご了承の上でお読みください。
また、本作は特定の国や楽器、音楽に対する批判など、作者の思想を広める意図で作られたものでは無い事を予めご理解ください。
空山非金
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1:歓声
老爺は細い枝を拾い上げた。
彼自身、枯れ木の様な老人だが、その動きは滑らかで若々しく淀みも震えも無く、皮と骨だけに見える手はしっかりと枝を保持していた。
老爺は垂れた瞼の隙間から池を見て、その畔に浮かぶ木の葉に目を留める。
「よいか、モーグ」
顔も目も向けずに、老爺は傍らに立つ青年を呼んだ。
青年、モーグは真剣な眼差しで老爺の動きを見守る。その気配を察して、老爺は摘んだ枝で水面に浮かぶ葉を、その周囲を掻き乱す。
「マギニウムとは、摂理に在って、摂理を歪める存在。初めの座学で教えられる事だが、忘れてはいけないよ」
荒れる水面に合わせ、葉は右へ左へと揺れて、くるりと回転を始める。
「マギニウムだけじゃない。我々人間も、動物たちも、植物も、水も……この空までも、摂理に在って、それを揺るがし続ける存在なのだと」
モーグは老爺の話を聞いて、顔に疑問の色を浮かべた。
それをちらりとも見ずに、老爺はぴしゃりと水面を――そこに浮かんでいた木の葉を枝で叩いて真っ二つに裂く。
「人が持つ本来の力とは、この肉体を動かす事、唯それだけに過ぎない。しかし、それを斯様に用いれば、水に浮かぶ葉を裂く事ができる――それは、人から人へも然り」
言って、老爺はモーグに枝の先を向ける。
「この枝一つとて、救命魔法では間に合わぬ傷を与える事は可能。……摂理とは、何事も無い、漣一つ無い一瞬を指しているに過ぎぬ」
言葉を重ねる毎に研ぎ澄まされていく老爺の殺気に、モーグは釘付けになりつつも有事に備えた思考を巡らせた。
目の前の老爺は突然動きかねない。
そういう覇気が、目に映る程に感じられていた。
「お前が行う行為とは、全てが摂理に非ず。また全てが摂理に在る。そう心した上で、ロバトを振れ」
張り詰めた気配は、老爺がふいと枝先を逸らした事で霧散した。
そして、瞬きの直後、モーグの額に目にも止まらぬ速さで枝が撃ち込まれた。
短い悲鳴を上げて蹲り、痛みのわりに血のひとつも出ていない事を確かめていると、今度は後頭部を小突かれる。
「その様子では西座の名が泣くぞ。モーグ」
痛みに呻き乍ら顔を上げると、老爺は笑っていた。
「ロバトの無い俺なんて、百姓以下です……」
涙声で言うモーグに、老爺はもう一度笑う。
「ではロバトを持て。今度は避けられるか?」
「無理ですよ! 師匠の動きが見えた事、ありません!」
「それじゃあ剣闘舞曲祭も期待できそうにないのぉ。精々五体満足で帰って来いよ」
かっかっ、と喉を鳴らして笑う老爺を見送り、モーグはしゃがみ込んだまま水面に目をやった。
裂かれた葉は沈み、池の水は均されて、モーグの半泣きになった顔が映っている。
「西座なんか……まぐれだ…………」
水面の顔がくしゃりと歪み、モーグの視界は涙で覆われた。
***
その場に居る誰もが、そう、誰もが息を呑んだ。
一万に届く人々の呼吸音は大きな音として、一瞬の沈黙が訪れた闘技場内に響く。
きっと、響いたのだろう。
モーグは顔面を水に覆われ乍らも、その音を骨身で感じていた。
空中を舞う、人の頭よりも大きな水泡に自ら突っ込み、モーグはそれに驚いた相手の女剣士――プレスティアの隙を突いて彼女の左肩に愛剣『ロバト』を突き立てたのだ。
乾坤一擲の刺突はプレスティアの鎧を破り、左の鎖骨を割って肩甲骨に当たった所で止まった。
兜の上からでも分かるほど苦悶に歪められたプレスティアの顔がぐらりと傾き、しかし膝を着く事は無く一足飛びに距離を取る。
広い闘技場のど真ん中で僅か三歩の距離を空けた二人は、ほんの一瞬間空白を生み、同時に動いた。
モーグは顔に張り付いた魔法製の水が剥がれないと判断するや否や前進し、対するプレスティアはだらりと垂れた左腕に装備した、鞘付きの盾に剣を納める。プレスティアは降参したのでは無い。彼女の戦法は、剣と盾を用いた居合切りを中心としているのだ。
「っ来い」
痛みに震えても迫力の劣らない声を張り、プレスティアはモーグを睨む。
モーグの視界は滲んでいるが、詰まる彼我の距離は分かる。まだ、意識はある。
モーグは護拳と言うには余りにも大きな盾付きの剣を大上段に構えて跳び上がる。この一撃が最後だと、そう心に決めて、剣の重さを活かせる大上段を選んだのだった。
決着の一合は、呆気ない程に速かった。
モーグが土を踏む音がして、プレスティアの盾に仕込まれた弦が美しい音色を奏でて、血と水泡が闘技場内を駆ける。
最も多く血を流しているのは、プレスティアだった。
居合いで振り切った右手からは愛剣が手放され、胴の右側を縦一文字に切り裂かれている。
プレスティアの目の前で膝を着いたモーグはと言えば、顔に張り付いた水泡に苦しんで空を掻いていた。
「決着! 勝者はモーグ!」
その様子を見た審判員が慌てて声を上げ、次いで医療班を呼び込む。
駆け付けた二つの医療班はそれぞれの剣士に近付いて、抱えていた箱から取り出した道具で手早く治療を進めていく。
その最中、会場はしんと静まり返る。一万人分の目が注がれる闘技場の中で、モーグに駆け寄った医療班が先に手を挙げた。
「回復確認! 生きてます!」
しかし、まだ歓声は湧かない。
誰もがプレスティアの安否を気にして黙りこくり、じっとその時を待つ。
闘技場の土に寝かされたプレスティアは、鎧を外されて応急処置を施され、その包帯の上に傷口をなぞる様に点々と真っ赤な肉や骨の欠片が置かれている。医療班の一人はそれらに指輪を填めた手を翳して呪文を唱え始めた。
呪文それ自体に重要な意味は無いのだが、工程を口にする事で医療班の人間は治療に集中していく。
指輪を翳された肉と骨が順々に溶けていき、傷口を覆う包帯に染み込んでいくのを見て、手を翳していた女が他の班員に目を向けた。
「浸透確認。癒合開始……骨も用意しておけ、左の鎖骨と肩甲骨のぶん。血液準備、清浄の確認を忘れるな。あと二十秒で終わらせる」
独り言の様に早口で並べられる指示に、医療班が一つの生命体宜しく動き出す。
そして、二十秒が経った。
「プレスティア選手、プレスティア、聞こえるか」
医療班の長を務める女に頬を叩かれて、プレスティアは眩しそうに顔を顰める。
「私は……」
「貴女は負けました。しかし、生きています」
「そう、か…………故郷に、何と言おうかな…………」
「今から来る歓声を、伝えてください」
言って、医療班長は手を挙げた。
「回復確認! 生きてます!」
直後、闘技場内が震え出した。
歓声が、勝者と敗者の双方に投げ掛けられ、死闘からの生還を讃える。
「よくやった!」
「最高の試合だった!」
「おかえりー!」
言い方は人それぞれに、しかし等しい賛美が鮨詰め状態になった観客席から闘技場へ投げ込まれる。
「プレスティア選手、立てますか?」
こくりと頷いて、プレスティアの目許からは涙が溢れた。
一足先に剣を納めていたモーグは、少し離れた位置から涙を流すプレスティアを見つめて唇を噛む。
一手、いや、一瞬でも何かが違えば、立場は逆転していた。
そう悟って、モーグは両の拳を強く握り込む。
(あと二回、並み居る強敵の中勝ち抜いてきた剣士とぶつかり合って、俺は勝てるのだろうか)
胸中に零して、開会式で見た面々が脳裏を過ぎっていく。
美しくも力強い、魔法の込められた武器をぶつけ合う戦士たち。彼らが衝突したその果てに、自分が立つ姿が想像出来ない。
自信の無さから視線は落ち、地面を見詰めていると、モーグは頭を小突かれた。
「なんという顔をしてる。モーグ」
驚いて顔を上げた先に、泣き乍ら笑うプレスティアの顔があった。
「ほら、私達を支えてくれた観客に手を振るぞ。篭手を外せ」
優しく笑むプレスティアに言われ、モーグは固まった手を開き、板金の入ったグローブを外す。
それに手間取っている内に、ぐいと首根っこを引かれた。いや、プレスティアの胸元に引き寄せられた。
「安心しろ、私は生きている」
厚い服越しに、確かな拍動を頬で感じて、モーグはつんと鼻の奥が痛むのを感じた。
「分かったか? ……案外恥ずかしいな、これ」
「あっ! す、すいません」
モーグは慌ててプレスティアから顔を離したものの、視線は外せない。
柔らかい表情で泣き笑う彼女を、モーグは心から「強い人だ」と感じて複雑に微笑んだ。
「挨拶、します。お客さんに……ありがとうって」
「待ち侘びてるぞ」
そう言って笑うプレスティアは、もう涙を流していない。
モーグもまた、しっかりと会場を見渡して、それから力強く拳を掲げた。
二度目の歓声は、勝者の為に爆発する。
剣闘舞曲とはこの音なのだと、モーグは噛み締めた。
つづく
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よろしくお願いします。
本作は全十話を予定しています。
不定期にはなると思いますが、二〇二三年の一月には完結させたいですね。
何卒、お付き合いを。
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