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その不幸の原因は罪悪感かもしれないよ。

楽しくて簡単に通ることのできる道と
苦労をしなければ通れない道があるとする。

罪悪感がある時って必ず後者の道を
選んでしまう。

前者の道は始めから選択肢に入りすらしない
から目の前に道があるにも関わらず気づいて
いなかったりもするものだ。

罪悪感がある時って新たに何かを
始めようとする時に

わざわざ始めにまず苦しみを味わうという
段階を踏もうとする。

それは本来なら必要の無い段階であって
罪があると思っていない人達はすっ飛ばして
いくような段階だ。

自分に罪があると思い込んでいるとどうしても
わざわざ苦労を集めて回るようなことをして
苦労を免罪符のようにするようになり

より沢山の苦労を集めておけばより安心する
ことができるような気がして苦労することに
喜びを見出すようにさえなってしまう。


高校卒業後私は願っている場所を目指して
やりたいことをやって生きているのだと
思い込んでいた。

でも本当は私が目指していた場所は
罪悪感を感じないための場所。

とりあえずそこを目指していれば家族や周り
の人達から責められることなく罪を許して
もらえるような気がしていたから。

私が願っていると思い込んでいた場所を
目指す理由として語っていた言葉。

"人のために生きたいから"
"人助けをしたいから"
"自分の得意を生かせるから"
"曾祖父さんの思いを継ぎたいから''

それらは全部罪悪感を感じないための言葉。

とりあえずそう言っていれば家族や周りの
人達から責められることなく罪を許して
もらえるような気がしていたから。

そうして罪悪感を感じないで済むような
仕事に就いて罪悪感を感じないで済むような
働き方をして罪悪感を感じないで済むような
お金の使い方をして、、、

もはや苦労という免罪符を集めて回ることが
人生の目的のようになっていた。

苦痛を感じながら生きていてうまくいって
幸せになりたいと口では言いながらも

沢山の免罪符を持っている自分自身にどこか
酔いしれていて本音ではこのまま苦痛を感じ
続けていた方が免罪符が増えるから
都合が良いと思っていた。

何かを選択する理由はいつだって

"それを選べばより苦労することができて
自分が苦労人に見えるから"

だった。

自分のやりたいことなのか
自分が好きなことなのか

なんてことは考える価値もない
どうでもいいようなことだと思っていた。

罪があると思い込んでいる限りは
入り口からズレていってしまう。

罪悪感を克服しない限りは自分の道なんて
選べないか、たとえ選べたとしてもまともに
真っ直ぐに歩むことなんてできない。

もうそろそろ罪悪感なんていう
幻想から解放されよう。

罪なんて本当は存在しないもののために
苦労を集めて回るなんてことはもうやめよう。

罪なんて無いのだから許してもらおうとする
必要なんてないのだ。

危害を加えたわけでもない仕えたいとも
思わないような人にまるで家来のように
仕える必要なんてないのだ。

いかにも不幸そうな顔をして免罪符を
見せて回る必要なんてないのだ。

誰も自分に苦痛を味わうことなんて
要求していないのだし

苦しみを通過しなければ成功してはいけない
とか愛されてはいけないなんてことはないのだ。

"苦労は美徳"

なんて言うのはもうやめて堂々と楽しくて
簡単に歩ける道を選んでいこう。

そんな道をまともに真っ直ぐに
歩いていくためにも

私は暗い表情で苦労話をする人の話を聞くよりも自分の立っている道を楽しくて幸せそうに
歩いている人の話を聞いていこうと思うのだ。

もう自分の苦労話に酔いしれている
場合じゃない。

償う必要のない罪を償うなんていう一人芝居は
やめて毎日を楽しく生きて当たり前のように
幸せになっていこう。

楽しく歩いて当たり前のように幸せになっていくことのできる道はいつだって目の前にあるのだ。

楽しくて簡単に通ることのできる道と
苦労をしなければ通れない道。

いつだって両方の道は目の前にあって
どちらの道も無条件で選べるわけで

いつだって今この瞬間からでも道を
選び直すことはできるのだ。

罪悪感を感じなくても済む選択肢なんて
少なすぎるしつまらないものだらけ。

罪悪感から自分自身を解放したら
ずっと見つからないと思っていた好きなことや
やってみたいと思うことが案外あっさりと
見つかったりもするものだ。



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