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もうひとつの部屋

ずっと前に入会したまま長らく忘れていた月額の有料サービスをようやく解約した。わたしが複数枚持っているカードのうちの1枚の明細が、住所変更を怠っているせいでもう10年以上実家に届き続けている。そこまで大きな額の引き落としでもないので日ごろは気にもとめておらず、おおみそかに実家に帰ったときに、ああ、まだ解約してなかったな……と思いつつもIDもパスワードもぱっと思い出せないし、年末年始でいろいろあって結局忘却。これをもうだいぶ長い年月繰り返していたのだ。考えてみれば、もう10年近く無駄に払っているのではないか。今すぐ動かなかったらまた忘れてしまって、むこう10年は払い続けることになると思った。
既に無効になっているメールアドレスをIDにしてしまっていたから、解約はわりと手間だった。これを書いただけで、わたしがどれだけ長らく放置していたか察してもらえると思う。なんならアドレスそのものも正確に思い出せないのに当然パスワードなんて覚えているわけもないし、だからパスワード変更ボタンを押したとて、その通知メールを受け取ることすらできない。
さいわい、問い合わせフォームから連絡を入れて対応してもらうことができた。カードのほうの情報から辿ってもらうやり方があるらしいのだ。とはいえサービス側がカード情報自体を持っているわけではないから、いろいろ取り次いでくれたのだろうなあと思う。このどうしようもないものぐさで、人様によけいな手間ばかりかける。

そのサービスでいくら無駄に支払ったのかを計算はしていない。どうあがいてもわたしというずぼらな人間の人生の中での話でしかない。この解約が10年前に済ませられていたとしても、きっと別の内容で同額くらいお金を無駄に払っていたに違いないのだ。出ていくべくして出ていったお金なのだから、悔やんでも仕方ない。金銭的な話より、そうやって色々なものを放置して忘れてしまっていることへの不安のほうが重かった。登録や契約をしたまま忘れているものが、なんだかまだまだいろいろある気がするのだ。今住んでいるマンションにいて、ふと、使っていないもう一部屋があるような気がすることがある。ものの置き場がなくて困っているときなんかに、ふいに、あの部屋に置けばいいじゃん、と名案のように頭に浮かぶのだ。もちろんそんな部屋はない。だからそのとき思い出しそうになっているのは、このマンションとは別の、もうひとつの家なのだ。

わたしはその家の間取りをわりと正確に描くことができる。なにか理由があって、10年かそこらか前に契約したような気がする。知り合いの誰にも知られていない、誰もわたしを訪ねてこない、わたしだけの部屋が欲しかった。ただ結局有効に使うことができずに、ほとんど何も持ち込まず放置してしまっている。アパートの1階で、小雨が降る中、その部屋の近くのバス停で降りて、その部屋に行った記憶がおぼろげにある。駅まではかなり距離があって、通勤には不便な土地だったはずだ。バスを降りるとコンクリートに白い線がかなりぎりぎりに引かれていて、やたらと狭い歩道を交通量に気をつけながら歩いたような気がする。アパートはその道沿いにあって、リビングの窓が道に面していた。ただバス停とは道を挟んで反対側にあって、ちょうどいいところに横断歩道がないせいで、あちら側に渡るためには雨の中いくらか歩かなければならなかった。アパートにはいって、ほとんどなにもない部屋の白茶色っぽいフローリングに寝転がると、エアコンもつけていないのに涼しくて気持ちがよかった。契約当初からついていたうすい白のカーテンと床とのすきまから、さっき歩いていた道の路肩に生えるぺんぺん草に雨粒が跳ねているのが見えていた。この雨が止んだら部屋を出よう、そう思った。あの部屋への行き方をもう長らく思い出せない。

土曜、いつもより遅く目覚めた瞬間に、あの部屋のことをほったらかしにしてしまっている、と思うことがある。あの部屋へ行くか、そうでなければなるたけ早く解約しなければ。でもそのどちらもできないのだ。どこにある部屋なのかも、いつどうやって契約したのかも忘れてしまったから。ただの夢だと言うだろうか。だが、それならなぜこんなに同じ部屋のことを何度も思い出すのだろう。現実には存在すらしない部屋のことを? ずぼらなわたしは自分がまるで信用できない。忘れたものの残り香だけが意識のなかに立ち上ってきては、うすぼんやりと不安にかられる。大事なことを、うっかり忘れて放ったままここにいるのではないかと。わたしはあの部屋に帰らなければならないのに。なぜか見当たらなくなってしまった本や服は、もしかしたらあの部屋に置きっぱなしになっているのかもしれない。

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