あなたにとってドールとは?
1、はじめに
岩手旅行二日目は花巻市を観光しつつ、その時の思索を記述したのは前回の記事のとおりである。そして、三日目は民俗学者、柳田国男の著書「遠野物語」で有名な遠野市を訪ねた。
「遠野物語」を繙けば分かるように、遠野には座敷童やカッパ伝説、種々の土着神等の伝承がある。この古くから伝わる不思議な言い伝えを肌で感じようと遠野に来たわけだが、今般、一ドールオーナーとして、そして、深淵なる人形の世界について僅かでも理解を深めたいと考えている身として遠野の「藁人形」について言及したい。
限られた時間で行けるだけの施設を訪ねたが、藁人形に関しては「遠野ふるさと村」が特筆に値する。この施設は遠野の昔ながらの山里を再現した施設であり、村の行事に使われる巨大な藁人形が展示されている。
人形は現在のドールオーナーが所有しているDDやSDのような愛玩用以外にも呪術、祈祷、儀式等のために制作されるものもあり、時として何かの象徴であったり、人間の代わりであったり、媒介するものであったり、同じ人形でもその製作される趣旨、目的、用途によって全く違うものになる。
↑「遠野ふるさと村」は遠野の昔ながらの山里を再現した施設である。遠野の伝統を知るおじいちゃん、おばあちゃんが「語り部」として昔話を聞かせてくれる催しが定期的にあるようだが、現在はコロナの影響により中止されていた。残念極まりない。
↑「遠野ふるさと村」にある藁人形。3メートル以上はあると感じた。
2、「象徴」として
藁で出来た人形の存在自体驚異なのだが、のみならず「遠野ふるさと村」の藁人形はその身体に比してかなり大きな男性器が備わっている(画像参照)。これは一体何を意味しているのだろうか。管見の限りだが、男性器は新たな生命を誕生させるための手段として「生命の力」が象徴されていると考える。さらにその男性器には貨幣が埋め込まれており、財力に比例して権力も増減するように「お金」もあらゆる社会において「力」の象徴であることは疑いない。貨幣を埋め込むことにより大きな「生命の力」が齎されると解釈できよう。
そして、この藁人形は「雨風祭」という儀式に用いられるようで、「雨風祭」とは、「立春から数えて210日頃は、台風が来る時期なので、男女1対の人形をつくり太鼓をたたきながら雨風を北の方へ送り、被害が少ないように祈る行事」(1)である。
すなわち、男性器の巨大化及び貨幣により強化された「生命の力」をもって雨風による被害を可及的に抑止しようとしたのである。身体を誇張することでより大きな儀式の効果が得られるよう企図されている(2)
↑「遠野ふるさと村」」以外にもいくつか訪ねた。宿泊したユースホステルからチャリで来た「デンデラノ」。
↑姥捨て山のようなものであったのか、重い気持ちになる。
↑こちらは「ダンノハナ」。やはりチャリで来た。
↑こちらは、処刑場だった模様。
3、「代わり」として
儀式に用いられた藁人形は村内で持ち歩いた後、稲荷山へ運ばれる。無論、戻ってくることはかなわない。風雨のような自然災害はかつて神の怒りの所為とされ、これを鎮めるためには生贄を提供しなければならない。しかし、人間そのものを生贄にするにはその社会及び個人にとってあまりに酷であり、負担が大きい。そこで人間に代わって人形が登場する。人間は知恵を働かせ人形をその代わりとした。藁人形は人間に代わって神の怒りを鎮める生贄なのである。
4、「媒介」として
人形はしばしば「生」と「死」、「内」と「外」、「聖」と「俗」等を象徴する超越的・神秘的な「あちらの世界」と日常的・世俗的な「こちらの世界」を媒介する、いわば「境界」の場に置かれる(3)
そして、その場合「あちらの世界」と「こちらの世界」を行き来するような中間的な姿の人形が製作されるようである。例えば、人でありながら魔性を備えている、あるいは半人・半獣人をもつものなど。
「雨風祭」に用いられる遠野の藁人形も一定の人の姿を保っている一方で、大きさ、顔の表情、誇張された身体の部位など人間の本来の姿を超越しており、人間が住む世俗的な領域と神の領域である「稲荷山」を行き来する両義的な存在として機能している。
↑遠野市博物館にて。東北地方には土着の神が多い。ここもチャリで来た。
↑博物館にあった「オシラサマ」。
↑こちらは「伝承園」にあった夥しい数の「オシラサマ」。子供たちが作ったもの。願い事が記入されている。オシラサマ信仰は現在でも大切に受け継がれている。なお、チャリで来た。
5、ドールオーナーとして
さて、遠野市を観光したわけだが、花巻市を観光したときと同様、ここでもドールオーナーとドールとの関係性を思案せずにはいられない。
これまで、遠野の藁人形と「雨風祭」について触れてきた。この藁人形には①象徴性が備わっていること、②人間の代わりとしての機能を果たしている事、③「あちらの世界と」「こちらの世界」の領域を媒介する両義的な存在であることが分かった。
しかし、これらは藁人形に限ったことではなく、人形一般に妥当することであり、また、③の点についても「あちらの世界」と「こちらの世界」のみならずあらゆる関係性を媒介するものである。遠野の藁人形はこのことを確認する題材であって、一例に過ぎない。例えば、人形文化研究者の菊地は、人形がこれまで不十分だった家族や友人などの人間と人間の円滑なコミュニケーションを媒介する可能性を指摘する(4)。
個人的な話で恐縮だが、無趣味だった私がDDやSDなどの愛玩用のドールをお迎えしたことにより、カメラを始めるようになり、お出かけするようになり、さらに同じ趣味の仲間までできた。自分の世界に閉じこもりがちな私が、ドールをお迎えしたことで随分と積極的になったように思う。
また、今回の岩手旅行にしてもそうだが、ドールと一緒に過ごしているとそれを見た方から好意的に話しかけられることがある。たとえ一期一会の僅かな時間の交流であっとしても嬉しいものである。やや大げさだが私のしがない人生がわずかにではあるが彩られた瞬間でもある。まさにドールが繋いでくれたご縁ということができよう。
これらは全てドールが媒介として機能した結果である。
6、おわりに
ドールオーナーの皆さん、貴方のドールは何を象徴し、何と何を媒介するものであろうか。貴方の大切なドールは貴方にとって如何なる存在であろうか。
↑遠野物語にカッパが出る話がある。「カッパ淵」。カッパ伝説が現在でも伝わっている。くどいけど、チャリで来た。
脚注
(1)遠野ふるさと村公式サイト:伝承行事「雨風祭り&かかし祭り」
(2)このような祭りは遠野だけではない。東北地方全域及び新潟でも同じような風習があり、五穀豊穣、子孫繁栄、無病息災などが祈願される。
(3)山口昌男「文化と両義性」岩波書店1984 p88~90
(4)菊池浩平「人形メディア学講義」河出書房新社2018 p188~191 菊地は、ラブドールを彼女(人間)と思い込んでいる「ラースと、その彼女」という米映画を題材に人形が人間同士のコミュニケーションや自己愛、他者愛のメディアとなることを論じている。
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