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かゆみ、痛み、ころび、ほころび

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蚊に刺された患部をどうしているか。わたしは極力なにもしない。かゆみがおさまるまで待つ。最初はムズムズするが、そのうち忘れてなんともなくなる。気にとめない。出来事の多くについて、こんな態度でいるのかもしれないと、ふと思う。たとえば「好き」という感情。これって、かゆみにとてもちかいのではないか。

触れたくて仕方がないところ。適度に触れると、気持ちがいい。しかし強くやりすぎると痛みに変わる。弱く触れてもさらにかゆくなっていけない。この感じ。「あなたが好き」を価値中立的に言い換えると「あなたがかゆい」みたいな、そういう、なんかそういう、そういうなんかである気がする。どちらも「触れたい」という疼きが共通。

好き=かゆみ説。「好きな人」とは、つまり「かゆい人」だ。わたしの場合、「かゆい人」があらわれても極力なにもしない。かゆみがおさまるまで待つ。最初はムズムズするが、そのうち忘れてなんともなくなる。気にとめない。味もそっけもない人生ですね。忘れたころにそれとなく撫でて、寂しさ混じりの安堵感に浸ることもある。気がつけばもう、かゆくなくなっていた。

かゆみがおさまりつつあるとき、うっかり触れてしまって、またぶりかえす。そんなパターンもある。ぬおー、やっぱかゆい。掻けば掻くほどかゆみは持続する。ああ、まったくのかゆみだ。自分のなかで、これは定説化しそう。「嫌い」もまた、かゆみにちがいない。好きだの嫌いだのって、きっと、やわらかい肌のひりひりとした息づかい。

要するにスキンケアはだいじねって話です。世界はこの狭い狭い表皮のうえで生起している。傷にしてしまったかゆみもたくさんある。「なんかかいーな」って、はじめはそれだけだったのに。掻きむしってしまう。それが味とそっけになる、の?


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蚊に刺されただけ。こんな原因の、なんてことなさを維持したい。「掻く」という行為は、なんてことのないものを一大事にしてしまう。抑えよう抑えようとして、拡大していく。かゆみと自分の二者関係に固執する行為だと思う。熱烈な二者関係は往々にして盲目的になる。わたしは蚊を忘れたくない。つまり、他なるものを。かゆみはそこそこにして。あなたとわたしを出会わせた自然的な力学に興味がある。蚊と人間の出会い。あるいは、あなたとわたしが存在することの習慣にとてもとても興味がある。ほとんど意識の埒外にある、ただの習慣に。

一九五九年、ある文芸誌から「書くことに興味をもっている学生にどういうアドヴァイスをしますか」とアンケートをもとめられたさい、オコナーはこう答えた。
「自分のことではなく、自分の外側のことに関心を払いなさい。自分のことが書きたいときは、距離をいっぱいとって、他人の目で、他人の厳しさで、自分を評価しなさい」
 要するに、センチメンタルになるな、ということだ。

「かゆみ」とはなんだろう。「蚊がいる」とはどういうことだろう。たとえば、そんな卑近で些末な関心を自分なりに追ってみる。書くことのはじまりに向かって。わたしの感覚では「自分のこと」と「自分の外側のこと」はそれほど明確に分かれていない。両者ともあくまで「自分の」から逃れられない。実りある利他主義はたいてい利己的なやり方から育まれる。利己と利他の共鳴から自己が立ち上がる。それがたぶん、「存在することの習慣」にも通じている。いや、わからない。わからないけれど、そうであればいい。

患部を掻きむしるのは、センチメンタリズムの発露だ。こどものころは、皮がむけるまで掻いてしまうときもあった。かゆいものはかゆい。距離をとるなんてむずかしい。それもわかる。たまにはいいと思う。やりすぎると痛むから。たまになら。


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しかし、からだは痛む。遅かれ早かれ、人はからだに痛みを宿す。ひとつ前の記事に「トシを重ねると誰もが否応なくフリーク性を高めていく」と書いた。ここでのフリークとは、「痛みを宿す者」と自分なりに意味づけておきたい。老いれば老いるほど「痛み」による逸脱の度合いが高まる。オリジナリティを高めていく、といってもいい。

痛みの通じなさを思う。たとえば「腹が痛い!」と懸命に悲痛な声で訴えても訴えられても痛みそれ自体は通じない。痛くも痒くもない側としては、痛い人の感覚を想像するしかない。どれだけのたうちまわっても痛みそのものは通じない。見えるのは表現のかたちだけ。医者は病を理解するが、痛みは理解できない。

むかしアレルギー性の腹痛で眠れなかった夜に、「この痛みは誰にも通じていないのだな」とひと晩かけてまさしく痛感した。真夜中、悶えているのは自分だけ。ほかは平然としている。静かな夜闇に、からだはどうしようもなく一個だった。人は、わたしは、固有の痛みを宿したからだを連れている。死ぬまで。


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6月18日(木)


有楽町で、矢口さんとお会いした。ひさしぶりのお出かけらしいお出かけ。駅前で落ち合って、まず傘を買いに行く。つねに持ち歩ける折りたたみ傘がほしかった。わたしはオレンジ色の軽量傘。矢口さんは花火柄の夏らしい傘。ともに日傘としても使える。それから、ドトールで一服。本を持ち寄る約束をしており、それを見せあう。そういえば初対面だった。

曇り空の下、長時間ふらふら歩いた。わたしは留まって話すより、歩きながらあーだこーだ言うスタイルを好む。歩調のチューニングから関係を立ち上げたい。自然と「歩きながらスタイル」に協調してもらう格好になったかな。小雨がちらつけば、買った傘をさしさし。

白井聡の『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社)をさいきん読まれたそうなので、それについてなんとなく質問をした。初対面の相手に政治の話をぶっこむ格好になってしまう。不躾なぶっこみにも真摯にお答えいただき恐縮。こちらもわりとあけすけに話した。

八重洲ブックセンターに立ち寄り、詩歌の一角で池田澄子の俳句を紹介した。これは忘れないうちに書き留めておきたいことのひとつ。「生きるの大好き冬のはじめが春に似て」。この句がとても良くてと、そうお伝えできただけでこの日は大満足だった。わたしという人間はつまりこれなんです。みたいな。そんな一句なのかもしれない。わかんないけど。それから俳句と短歌のちがいはなんでしょね、という話をした。いま浮かんだ結論は、文字数。以上。

岩波文庫の棚前でおすすめを聞いて、それを買う。
赤帯の『バッカイ』。

八重洲ブックセンターを出てから、神保町まで適当に歩いた。ほんとうに適当に。矢口さんが遠回りを許してくれる方でよかった。ある程度、ひとりにしてくれる。ちかくにいても、そこまでちかくないというか。いい塩梅の散歩だった。

帰り際、駅へと向かいながら「人はなぜころぶのでしょうね?」と妙な問いかけをした。思いがけないエラーが、どうってことない道でとつぜん起こるのはおもしろい。そんな話をしたと思う。でもころび方にも似たようなパターンがありますね、とお答えいただきそれもなるほどと思う。からだはなんでもパターン化したがる。隙あらばパターン化してくる。そうそう。

そのパターン化をふだんからうまく飼いならして、意識的にずらしたり外したりできる人がダンサーなのかな。無意識のエラーではなく、意識によって思いがけないからだを生み出す人。似たようなことを以前にも書いた気がする。

歩く道も、すぐにパターン化する。意識的に知らない道へと入らないかぎり、おなじ道ばかりを歩いてしまう。近所にだって入ったことのない道はたくさんある。あるいは、おなじ道にもまだ知らない趣が残っている。パターンに従うだけではなく、パターンを拓く意識も持ちたい。いつものパターンの内に、あたらしいパターンへの入り口が隠されている。その結び目のほころびを目ざとく見つけること。いくらでもぐるぐるしながら。あるときふいにほどける。「知らない」はこわくて、たのしい。


これが噂の矢口さんです。


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ちかごろ、やることなすことすべてがことばのないほうへ収斂していくような感覚がある。結局、無言になってしまう。














にゃん