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漫画『チェンソーマン』愛って何か知ってる?

 『ジャンプ』ではなく『少年ジャンプ』だ。ポリティカル・コレクトネスやジェンダーロールへの意識が、作品のナラティブを劇的に進化させている現代において、未だに「少年」の旗を掲げる漫画雑誌が何度目かの全盛期をむかえている。『鬼滅の刃』の大ヒットを筆頭に、それにつづく『呪術廻戦』の人気、『スラムダンク』や『シャーマンキング』、『るろうに剣心』、なんと『ダイの大冒険』にいたるまで、過去作リバイバルの話も後をたたない。はたして、2021年に「少年」を掲げることは有効なのだろうか?すべての少女少年のために、その問いかけに真摯に向き合った作品が『チェンソーマン』だ。

 『週刊少年ジャンプ』で2018年12月3日に連載を開始し、2020年12月14日に連載を終了した『チェンソーマン』は、わずか2年の連載期間にもかかわらず、ソーシャルメディアを中心に盛り上がりを見せ、アニメ化も決定した。さらなるブームが予想される『チェンソーマン』のアニメ化(おそらく映画化も?)にむけ、本作がいかに『週刊少年ジャンプ』の「少年」性に挑んだ作品なのか、まとめていきたいと思う。

 『チェンソーマン』の舞台は1990年代後半の日本、主人公は義務教育も受けておらず、死んだ親の借金返済のために自分の臓器を売買している16歳の少年“デンジ”。この世界には様々な「悪魔」が存在しているらしく、デンジはチェンソーの悪魔である“ポチタ”を相棒に、デビルハンターとして悪魔を倒す仕事を不正規にしている。1話のラストでデンジは死んでしまうのだが、ポチタはデンジの心臓になることで彼を生き返らせる。その結果、デンジは人と悪魔の中間のーーこの世界において“彼ら”を呼称する名前はなぜか消滅しているーー特別な存在になる。

 『ワンピース』の主人公であるルフィは“悪魔”の実を食べて、全身を変幻自在に伸ばすことが出来る「ゴムゴムの能力」を手に入れる。なぜ数ある能力の中でゴムなのか?それを批評的に(退屈に)読み解くならば、遠くのモノに手を伸ばすことを象徴しているキャラクターだからだ。彼はその能力で「海賊王になる」という夢に手を伸ばし、遠くにいる仲間たちを“ひとつなぎ”にしていく。

 『チェンソーマン』の主人公は「チェンソーの悪魔」の能力者である。なぜ数ある能力の中でチェンソーなのか?そこでチェンソー“Chain Saw”のチェイン“Chain”がすでに「ひとつに繋がっている」点に注目したい。その繋がりは絆ではなく、鎖であり、爆音とともに高速で回転しながら、対象物を切断する加害性に満ちている。『ワンピース』の連載開始はもう大昔の1997年ーーちょうど『チェンソーマン』の舞台の時代と重なるがーーあれから20年経ち、「繋がり」はゴールではなく前提となり、むしろその先の加害性に焦点をあてているのが「チェンソーの悪魔」の能力だ。そして、この鎖(チェイン)のイメージは本作の重要なモチーフである“犬”に関係している。

映画『少年と犬』(1975年)より引用。

 『チェンソーマン』第1話のタイトルは「犬とチェンソー」、これがハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』(1968年)の中の短編のひとつ「少年と犬」の引用であることは、ラスト付近の“ある展開”からもほぼ間違いないと思う(ネタバレ回避)。1975年に映画化もされた『少年と犬』は第四次世界大戦後の荒れ果てた世界を舞台に、テレパシーで喋る犬と少年が女を求めて彷徨う物語だ。女を性行為の道具として求め続ける少年が、物語中盤で精子を搾取されるだけの道具にされてしまう展開は「男性中心社会における旧態依然としたジェンダーロールの前では全ての性が道具になる」ことを皮肉っている。

 『チェンソーマン』の主人公デンジも前半の行動動機のほとんどが「女の胸を触りたい」、「女とキスをしたい」などの欲望に突き動かされていて、自分の欲望を叶えるために「チェンソーの悪魔」の能力を発動し、頭部がチェンソーになる姿は『悪魔のいけにえ/The Texas Chain Saw Massacre』(1974年)の文脈をふまえても、男根的にみえる。中盤において、そんな彼の「チェンソーの能力」を奪おうと、アメリカ、ロシア、中国、ドイツから刺客がやってくるのだが、世界中が求めているのはあくまで「チェンソーの能力」であり、デンジという器にはまったく興味がない。『少年と犬』同様に、カッコつきの「少年」性を人々が求めるとき、デンジという個人は掻き消されてしまうのだ。デンジも劇中でこう叫ぶ「みんなチェンソーの心臓ばっか欲しがっちゃって!デンジーの心臓は欲しかねえのか!?」。そして、犬のモチーフは飼い主、つまり“支配”を巡る物語へ移行していく。

『チェンソーマン』第64話の「闇の悪魔」登場シーン。

 『チェンソーマン』で興味深い設定のひとつが「名前が恐れられている悪魔ほど強い」というもの。たとえば「コーヒーの悪魔」と「車の悪魔」がいたとしたら、交通事故の恐怖を連想させる「車の悪魔」の方が強いというワケだ。『ドラゴンボール』のスカウターしかり、強さを数字やランキング形式で可視化する『ジャンプ』マナーに“言葉”という抽象性を持ち込んだこの設定は、ソーシャルメディアにおける(インフルエンサーなどの)知名度と拡散力のアナロジーにもみえるが、そんな『チェンソーマン』の世界で、最大の敵として現れるのが「銃の悪魔」と「支配の悪魔」だ。

 『チェンソーマン』の世界では(我々の世界と同じく)銃の恐怖が広く浸透している結果、「銃の悪魔」があまりに強くなりすぎてしまい、その力を少しでも弱めるために全ての国が銃所持を厳罰化している。主人公デンジの相棒のひとりである“早川アキ”は「銃の悪魔」に家族を殺されてしまい、その復讐を果たすために公安のデビルハンターになる人物だ。早川アキと「銃の悪魔」を巡る物語は、最近の“Black Lives Matter”しかり、銃社会アメリカの病理、つまり銃犯罪を阻止するために銃で武装する矛盾、その救いようのなさが描かれている。

 「支配の悪魔」との戦いはさらに厄介だ。人々は気付かないうちに「支配の悪魔」に飼いならされてしまう。古代ローマの独裁者が民衆を支配するために使った「パンとサーカス」にならって、「支配の悪魔」も娯楽を提供して人々に考えることをやめさせる。『市民ケーン』(1941年)の新聞王ケーンのように「支配の悪魔」は愛に飢え、独善的な愛を人々に押し付ける。一番厄介なのは『チェンソーマン』の世界において、なぜか人々の頭から消えてしまっている歴史の数々を、唯一記憶しているのが「支配の悪魔」なのだ。教育の制限による支配、「支配の悪魔」は自分の理想の世界のために歴史を改竄しようとする。普遍的でありながら、ポスト・トゥルース時代の悪としての現代性も兼ね備えている敵にどうやって勝てばいいのか?

 『チェンソーマン』のバトルシーンは必殺技の名乗りもなければ、特殊能力の発動と応用に関するルール説明もなく、たとえば『HUNTER×HUNTER』の流れを汲む『呪術廻戦』と比べても、バトル演出が大きく異なる。まるで90年代の北野武映画を彷彿とさせる乾いたバイオレンス描写が連続するバトルシーンからは、バトルの興奮ではなく、虚しさだけが伝わってくる。それもそのはず、本作における悪魔との戦いは、すなわちシステムとの戦いとイコールだからだ。銃社会や支配のシステムをどうやって倒せばいいのか?そもそも倒すという発想は正解なのだろうか?

 私たちは支配されるのが大好き。スーパーで肉を買って、調理し、食事をするとき、その巨大な流通システムの一部になっていることに多くの人は無自覚だ。資本主義のシステムは、私たちが常に被害者であり、加害者であることを忘れさせてくれる。私たちの生活は戦いで、そこには伏線回収も何もない。今までの私たちの良い思いも、悪い思いも、全部、他の誰かによって作られたものだ。デンジは「チェンソーの能力」を手にしたことで、そんな世界のシステムに無自覚でいられなくなる。労働すること、食事を作ること、恋をすること、メンタルヘルスに問題を抱えてしまった友人の介護、生活が戦いであること、その生活のすべてが支配されていること、大人たちが何世代にもわたり引き継いできた問題の数々と、デンジは向き合う。

【頭のなかでなりひびく声がやむまでには、ながい時間がかかった。彼女の声は、何回も何回もおなじ質問をくりかえしていた。愛って何か知ってる?】ハーラン・エリスン著『世界の中心で愛を叫んだけもの』の「少年と犬」から引用。

 チェンソーは木を切るモノだ。何十年もかけて育ってきた大木を一瞬にして切り倒す力は、気候変動に繋がる危うさもあるが、デンジはその力で強固なシステムを倒そうとする。カッコつきの「少年」マンガらしい快活さを見せたあとで、デンジは静かに生活に帰っていく。『少年ジャンプ』の中で『チェンソーマン』は少年が大人になる責任を描いている。子供たちに負の遺産を引き継がせないために、デンジは成長することを選ぶーー「愛って何か知ってる?」ーーデンジは知っている。彼が一歩ずつ成長する姿をどうか見守ってほしい。がんばれチェンソーマン!

『チェンソーマン』第1話の冒頭、窓から差し込む光によって、部屋に舞っている埃が照らされている。序盤からカメラの存在を意識させるショットの連続に、これはレンズを通して観ている風景だと視聴者は思う。原作の漫画にあったコマとコマの間の余白、そして、意識のその先に駆け抜けていく線の躍動は、カメラの存在によってゆっくり引き伸ばされていく。ここにあるのは「生活」だ。それは第12話でサムライソードに戦う理由を問われた主人公のデンジが「この生活を守るため」と、わざわざ原作にないセリフで答えることからも明らかである。『チェンソーマン』を映像化するにあたり、制作陣は本作の主題が「生活」にあるとして、それを効果的に描くために2次元空間である漫画の世界にカメラを持ち込むことを決めたのだろう。その判断は大いに正しい。では、このカメラを通して描かれる「生活」とはなにか? それは「食事」である。『チェンソーマン』はデンジと「食事」を巡る物語だ。

『チェンソーマン』に感じたアニメ作品の未来
“生活”を丁寧に描くことで示した可能性。
リアルサウンド映画部の記事より引用。

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