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映画『インヒアレント・ヴァイス』助手席にはいつだって、忘れられない女が座ってる。


 インヒアレント・ヴァイス(内在する欠陥)とは海上保険用語で、避けられない危険のこと。卵は割れる、チョコは溶ける、ガラスは割れる、生まれながらの性質として変えられない欠陥により、どうしても避けられない損害、それらを原因とした事故への補償は免除される……ってことは、恋はいずれ終わるものだから、保険の対象外?

 60年代、ベトナム戦争に本格的に介入したアメリカ、それに伴う反戦運動、公民権運動、カウンターカルチャー全盛の音楽と革命の時代から、それらの魂が今の時代にも蔓延するシステムに狡猾に搾取され「利益」や「効率」の名の下に支配されてしまった70年代。その転換点、大きな変化の狭間に立たされていた1970年のロサンゼルスを舞台に、その時代の変化に、ある事件をきっかけに図らずも“立ち会う”ことになってしまうのが、この映画の主人公ヒッピー私立探偵のドックである。

 私立探偵が事件をきっかけに時代の変化に立ち会うことになるフィルム・ノワール作品と言えば、ロバート・アルトマン監督『ロング・グッドバイ』(1973年)と本作は重なる点が多い。しかし、『ロング・グッドバイ』が良き時代の象徴である飼い猫がいなくなり、古くからの友人に“長いお別れ”を告げ、「俺はドナルドダックだ」とジョークをかましていた主人公が「ドナルドダックにだってなれるかもよ?」と歌う“Hooray For Hollywood”の皮肉めいた選曲をバックに軽快なステップで去っていく“諦めと決別”を描いた作品だったのに対して、『インヒアレト・ヴァイス』は未練がましい。それもそのはず、なぜなら『ロング・グッドバイ』の猫にあたる存在が、本作では元恋人になっているんだから。

 ドックは恋人がいるにも関わらず、元恋人シャスタのことが忘れられない。映画の冒頭、そんなドックのもとに久しぶりにシャスタが訪ねて来るが、見た目はすっかりヒッピー姿じゃないし、あろうことか「私の恋人が困ってるから助けてくんない?」ときたもんだ。2人が恋していた素晴らしい60年代には戻れっこないのに……ああ、悲しいかな、ここで断れないのが情けない……。『ロング・グッドバイ』の猫より、シャスタの方が「巨大な権力に変えられてしまった60年代の魂」としての側面が強いため「金持ちの新しい彼氏と付き合って変わってしまった元恋人」そのものズバリの設定だけでなく、画面の佇まいや演出も、その象徴性を高めるように機能している。例えば、シャスタは突然部屋に現れ、2人のコミュニケーションは第三者のいない部屋の中で完結してしまう。最初こそ、外に出るというシーンがあるが、再び現れる終盤とラストに関しては、生命力さえ感じず、その存在はまるで亡霊か幻、ドックの妄想のようにも見える(※1)。

(※1)ドックが“シャスタと名前が書かれたブロック百貨店のカードを切り刻んだ破片”で手錠を外して脱出出来たのは、死んだシャスタが助けたという見方も出来る。

 劇中でシャスタが生き生きとしているのはドックが付き合っていた頃を思い出す回想シーンだけで、とくにニール・ヤングの“Journey Through the Past”が流れる「過去への旅路」シーンは、ハッパのありかをウィジャ盤で占い、靴も履かずに家を飛び出して、雨の中を裸足で走り回る2人の姿をポール・トーマス・アンダーソン(以下、PTA)監督お馴染みの長回しで捉えていて「素晴らしい思い出というのは得てしてくだらなく、それが若さだったりする」というのを見事に切り取っている。さらに、このシーンには劇中でアメリカの非人間的に金を生み出すシステム(資本主義)の象徴として登場する組合「黄金の牙」の施設の建設予定地が映り込んでいて、素晴らしい日々とその終わりが不可分に繋がってることも暗示されている。終盤で再び現れたシャスタが、当時のヒッピースタイルの服や髪型で現れるものの「こんな60年代ごっこでは決してあの頃に戻れない」とドックが痛感するのは、あの瞬間から決められていたことなのかもしれない。

 回想シーンやフラッシュバックで描かれている「海と女」のイメージは、エンドロールで掲げられている「舗道の敷石の下はビーチ!」という言葉と重なる。これは1968年5月にパリで行われた大規模な反体制運動「五月革命」の際に壁に書かれていた落書きで、パリの学生たちが歩道の敷石を機動隊に投げつけていたところから「上から押さえつけているものを取り去れば自由になれる」という意味が含まれていたらしい(※2)。敷石の下に広がる、まるで女のような海と、そこに浮かんでいる「黄金の牙」の船。それを眺める、もしくは思い出すしかないドックの前に現れたシャスタは幻か?回想シーンは思い出補正か?その答えは映画の登場人物たちがドックの頭から飛び出しているポスターアートがヒントになっているような気もするが、いずれにせよ、デジタル撮影が主流になっている中で、フィルム撮影された本作の画面全体に漂うノスタルジーは、誰かの思い出の中の1970年のようなのである。誰の?そう、PTA監督は1970年生まれなのである。

(※2)五月革命は時のド・ゴール政権を揺るがし、60年代に世界各地で行われた反体制運動の中でも一際大きなものだった。

 PTA監督と言えば「親と子」「疑似家族」「家族からの圧力や暴力、そこからの逃避」というモチーフが、全ての作品に散りばめられていて、本作も例外ではない。物語の終盤、ラスボス的に登場する「闇の王子」こと超大金持ち弁護士のクロッカー・フェンウェイは、娘のジャポニカを何度も精神病院に送り、成人しているにも関わらず、ありとあらゆる、それこそ誰とどんなセックスをしているかまで調べて管理(ウォーターゲート事件への示唆?)しようとする親である。彼は「黄金の牙」の一員で、つまり、 自分の加担しているシステムのせいで、娘のジャポニカはジャンキーになってしまい、それを治療させるために何度も精神病院に送るという、劇中の台詞を借りるなら“ベトナムに若者を送って殺すという自殺行為を止められないアメリカ”の病理を体現している人物である。そんな支配する父親 = アメリカとの対比として登場するのが、その餌食にされてしまう父親のコーイである。

 クロッカーに言わせれば「家賃を払う側の人間」で尊敬の対象外であるヒッピーサックス奏者のコーイは、あの時代に多くいた若者の1人だろう。60年代から70年代にかけて、マリファナから依存性の高いハードドラックのヘロインやコカインに(CIAの関与もあり)流行りが移行し、知らないうちにその流れに乗っていたコーイとホープは子供を産むのだが、その赤ん坊はヘロインの影響で具合が悪く、コーイは状況を変えるためにホープと赤ん坊を置いて「アメリカを良くする」活動に傾倒するが……残念、騙されて情報屋として、ロサンゼルス市警やカリフォルニア自警団、黄金の牙などの組織に利用される羽目になる。コーイはホープと娘の元に帰りたいと後悔しているが、この世界に足を踏み入れた以上は戻れない……自業自得?それはそうかもしれないが、納得出来ないドックは時代の闇に落ちそうな彼を、クロッカー = アメリカからなんとか救い上げ、愛する人の元に返すのである。

 「人の命を救ったら責任を持たなければならない」とインディアンの言い伝えを引き合いに出すコーイに「それはヒッピーのでっちあげだ、自分の人生を生きろ」と言い、ドックは彼をヒッピーの時代から未来の世界に送り出す。ジョニー・グリーンウッドが作曲したコーイの娘の名前がタイトルの“Amethyst”が流れる中、家族の元に帰るコーイをじっと眺めるドックの眼差しは、まるでPTA監督が、かつての自分と親を眺めるような郷愁に包まれている。

 本作の原作者、トマス・ピンチョンは『インヒアレント・ヴァイス』を発表した2009年に、ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』の新訳版の巻末に解説を寄せている。『1984年』はビッグ・ブラザーと呼ばれる指導者が支配する、あらゆる自由が制限された全体主義国家を舞台に、その国家の党員で歴史の改竄を担当している主人公が思考犯罪(日記を書くなど)に手を染めていく……というデストピアSFなのだが、ピンチョンは解説にこう書いている。

【『一九八四年』において、オーウェルが自分の息子の世代の将来を想像した、警告こそすれ、現実となることなど望まない世界を想像したのだと推測するのは難しくない。彼は予測される不可避の情況に苛立ちを感じる一方で、その気になれば変革をもたらす能力を普通の人々が持っていることを、一貫して信じていた。いずれにせよ、我々が立ち返るべきは少年の笑顔だ。まっすぐで、輝いている。その笑顔は、一日の終わりに世界は善としてあり、人間としての品格は、親の愛情と同じで、当然のごとく消えることなく存在しうる、という揺るぎない信頼から生まれている。その信頼の麗しさゆえに、我々はオーウェルが、あるいは我々自身までもが少しの間だけでも、こう誓う姿を想像することができる――その信頼が決して裏切られることのないように、やらなくてはならないことは何でもやるのだ、と。】

 PTA監督が『インヒアレント・ヴァイス』に見出だしたのは、ピンチョンのこの姿勢だったのではないだろうか?車のステレオからサム・クックの“Wonderful World”が流れる中、大量のヘロインと引き換えにコーイを解放する取引の現場にやってきた「黄金の牙」の工作員たちは“53年型のビュイックエステートワゴンに乗り、カリフォルニアの健全なるブロンドの家族を装っている”(原作より)。ドックは「黄金の牙」に押し付けられた、このノスルタルジックな50年代の価値観に中指を立てながら、コーイの子供に希望を託す。

 ドックがコーイを娘の元に返し、オーウェルが息子の生きる未来世界を夢想したように、PTA監督もまた、エンドロールで“For Ida”と自分の娘に本作を捧げている。そのあとに「舗道の敷石の下はビーチ!」とくるわけだ。ここからはPTA監督の、強欲と恐怖の力で敷き詰められた敷石を吹き飛ばす決意と、その革命を成し得ることが出来る市井の人々への祈りを強く感じる。つまり、「やらなくてはならないことは何でもやる」ということだ。

【50年代は、先住民や黒人や女性を踏みにじる現実から目をそむけ、セックスを抑圧する、欺瞞に満ちた時代だった。60年代、パンドラの箱を開けたように、それらの矛盾が噴き出した。たしかにアメリカはイノセントを失った。しかし人は醜い真実を知って大人になるのだ。つまり、カウンター・カルチャーとは、ママと神様とアップルパイを素直に愛する幼子のような国だったアメリカにとっての思春期の反抗、避けることのできない通過儀礼だった。だから時代を戻してはならない。カウンター・カルチャーがなければ現在のマイノリティの平等はなかった。アメリカは確かにイノセントは失ったが、パンドラの箱の底には、希望があったのだ。】(町山智浩 著『最も危険なアメリカ映画』より抜粋)

 音楽は社会から生まれる以上、例えそれがラブソングだろうと政治的である。映画も例外ではなく、本作のドックとシャスタのラブストーリーは、アメリカに内在する欠陥を告発するものとなっている。恋する2人と、アメリカ社会の抱えている欠陥が重なる構図は、作劇上のテクニックでもなんでもなく、私たちの生きる世界そのものである。つまり、大きな社会と個人は互いに影響し合っていて、決して切り離せないため、恋愛という、どこまでも身勝手で、反社会的な行為にも、社会を変革する力が秘められている。故に、恋愛という行為もまた、政治的なのである。この映画がラブストーリーとして優れているのは、そのことを描いてるからだろう。恋をすれば、世界はまるっきり変わってしまうということを。

 ラストで寄り添うドックとシャスタを捉えたカメラは顔にやけに近く、2人がどこにいるのかわからない。善も悪も溶けた灰色の水の中にいるような、この世かあの世かもわからない場所に2人きり。表情は晴れやかではないし、ヨリを戻したわけでもない。ドックはおそらくハンドルを握っている、だとしたら、この車の行き先はどこだろうか?1970年といえばアメリカン・ニューシネマの時代だ。カウンターカルチャーの中で生まれたこの映画群は、若者たちが社会に反抗し敗れるのがオチだった。このまま2人の乗った車は映画『バニシング・ポイント』(1971年)のように消失点の向こう側まで行ってしまうのだろうか?劇中にこんな台詞がある「失恋ってハイウェイの出口みたいなもの、しばらく悲しみの道を走ればまたハイウェイに戻れる」。

 ドックはこの世界がそうであるように、悲しみの道を走っている。助手席には失われた素晴らしい時代と、忘れられない女がつまんなそうな顔で座っている。ドックはこの世界がそうであるように、ヨリを戻したわけではないと言い聞かせながら、ハイウェイの入り口を探している。ドックの目元を照らした光の先に、ハイウェイの入り口があればいいのだが。さよならシャスタ、そして、Good luck, Doc.

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