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映画『10クローバーフィールド・レーン』旅立ちをテーマにした現代の寓話。

 青春時代特有の居場所を求める不安定な“移動”を的確に解釈して、カメラに捉えることが優れた“青春映画”の条件である。『10クローバーフィールド・レーン』が画期的なのは、冒頭のガソリンスタンドのシーンが『激突』(1971年)のオマージュであるように、青春映画の“移動”を“活劇(ひいては他の映画ジャンル)”として見せた点だろう。『クローバーフィールド/HAKISHA』(2008年)の直接的な続編ではない本作の特異性は、この点において際立っている。

 監督のダントラクテン・バークは本作が長編デビュー1作目となる(ちなみに脚本にはデイミアン・チャゼルも参加している)。彼が本作に抜擢された理由は、おそらく彼の監督した短編『Portal : No Escape』が関係しているだろう。主人公が閉ざされた部屋から逃げ出そうとする展開は『10クローバーフィールド・レーン』の冒頭そのままだが、ここで重要なのはその類似点ではなく、セリフが一切ない点だ。

 『10クローバーフィールド・レーン』の冒頭15分を観ると、いかに本作が映像(アクション)で物語を語ろうとしているかがわかる。服飾系の仕事をしている主人公が恋人と別れるために、慌てて部屋から出ていくまでの心理状態と、カメラの揺れが重なる。その後、車での移動を上空から捉えたショットは『シャイニング』(1980年)を彷彿とさせ、人気の無い場所 = 神の目が及ばない場所への移動を、往年のホラーやサスペンスの導入のリズムで描いている。もちろん、本作の音楽を担当しているベアー・マクレアリーのスコアが、ヒッチコック映画におけるバーナード・ハーマンのスコアの影響下にあるのも、そのリズムを補強する重要な要素である。

 タイトルクレジット後、交通事故から目覚めた主人公が動揺しながら状況把握する目線に合わせたショットと、閉ざされた部屋の空間の見せ方、その部屋の主が登場するシーンで顔よりも先に“銃と食事を渡す”動作を見せ、生死を支配していることを示す演出、ピンク色の壁紙と廊下の青の対比、照明の使い方も効果的だ。そこから限定空間での小道具を用いたアクションシーンに突入するのだが、本作は小道具(やアクション)が必ずと言っていいほど、最初の登場時とは違う意味を持って再登場する。その演出がシェルターという閉ざされた空間を“活劇”の場所にしていく(※1)ーーここまでが本編開始15分、その後も全編を通して、台詞による説明は極力排除され、物語はアクションを中心に進行していく。それにもかかわらず、本作は「青春時代の旅立ち」をテーマにした現代の寓話なのだから驚きである。

(※1)『ダイハード』(1988年)などのアクション映画ではお馴染みの“エアダクト”も、本作では中盤と後半に登場し、主人公に2回通過させることで、効果的かつフレッシュな見せ方をしている。

 本作のシェルターの内部はアメリカの家を切って張り付けたような美術装飾が施され、そこに閉じ込められた3人は、その美術に導かれるように疑似家族になっていく。シェルターの主であるハワードが父でミシェルとエメットは子ども。ミシェルが恋人と喧嘩中だったり、家族との不仲を示唆する台詞があるのは、外部が危機的状況になることで発生する「恋人や家族が心配!」要素を排除することで、疑似家族設定を強調するためだろう。ハワードがエメットとミシェルに触れ合うことを禁じるのも、2人を恋仲ではなく“兄妹”として見せるための演出だと思われる。

 物語進行も周到に「子供の成長のメタファー」になっていて、身動きがうまく取れないミシェルにハワードが最初に指示するのは松葉杖での歩行練習で、これは親が赤ん坊に歩き方を教えるのと重なる。次に指示するのはトイレ、食事中に暴れてハワードにつけた傷を治療させるのは後片付け、そこから自分の部屋に彩りが出る思春期を迎え、親の秘密を知り、親に隠れながらコソコソ物作りをする反抗期を経て、車という成人のアイテムの象徴に乗って旅立つという、赤ん坊から大人に成長するまでの過程がサスペンスや活劇の脚本にメタファーとして上手く組み込まれている。エメットの“使わなかったバスチケット”も「旅立ち」に関しての象徴的なアイテムである。

 エメットは3年連続でトラック競技の州大会に出場して、ルイジアナ工科大の奨学生になるくらい足が速いにも関わらず、その足で遠くまで行こうとせずに「自分の人生は半径65キロの円の中」と言って、“安全圏”に留まることを選択するキャラクターである。新生活への恐怖から大学行きのバスに乗らず、シェルターの中にも自分の意志で入り、その目で見たということを差し引いても、父役であるハワードが言う外の世界のことを妄信的に信じている。どんどん怪我が治り、成長していくミシェルに対して、エメットの腕が治らないのは、ハワードの育児放棄にも見えるが、留まる選択による「成長の否定」にも見える。その結果、エメットは親 = ハワードに殺されてしまうのである。

 ミシェルはエメットの“使わなかったバスチケット”を引き継ぎ、外の世界に出ていく決意をする。厳格な父であるハワードを倒して、シェルター = 家から外の世界に出ていく。まるで産道のような狭いエアダクトと細い梯子を通過することで、外の世界がよりいっそう広く見える演出が「新たに生まれ変わる」ことを印象付ける。まるで初めて外の世界を見るようなミシェルの気持ちを反映するように、外の風景は不気味な美しさに包まれているが、夕方から夜にかけての時間の変化とともに、静寂は破られ怒涛のアクションが繰り広げられていく。エメットと一緒に見ていた映画『人喰いヒコーキ(Cannibal Airlines)』が皮肉な伏線になっている謎の敵たちの死闘を切り抜け、ミシェルは避難場所のバトンルージュへ行くか、救助が必要な人たちがいるヒューストンへ行くか、選択を迫られる。

 ミシェルは自分の実の父親に暴力をふるわれていた経験があり、いつも兄が自分の身代わりになっていたと語っている。その経験から「いつかは自分も誰かを守る立場になろう」と思ってはいたものの、ハワードに詰め寄られた時に何も出来ず、兄役のエメットに守られてしまう。今度こそ、私も誰かのために闘う、その強い意志で救いを求めている人たちの元へとハンドルを切る。倒れた看板の「クローバーフィールド10番地」の表記から、これは田舎から都会へ、内から外へ羽ばたいていく古典的な青春譚であり、現代の寓話だったことがわかる。さんざん語られてきた、それこそ『プリティ・イン・ピンク』(1986年)のような青春譚を、密室サスペンスやSF活劇を経由させることで、その本質がより伝わるようになっている。

 ハワードの「外の世界が滅びた」という話が真実でも嘘でもなかったのは重要だ。ハワードが話していたのはかつての外の世界の話だ。時間が経てば外の世界は変わっていく。たしかに、ハワードの話はある意味正しい。外の世界は危険もたくさんあり、決して楽園ではない。だが、いつだって自分の目で確かめるまでは世界の全容は見えてこない。命を与えたからと言って、その命をずっと同じ場所に留めて置ける権利なんて誰にもない。私たちには危険な外の世界に飛び出して、闘う自由がある。ラストでより困難な道にハンドルを切ったミシェルの姿をハワードに見せたいものだ。あんたが思うほど子供は弱くない。あんたが思うほど命は弱くない。

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