見出し画像

ぐるぐる回っている人(過去01)

人の人生の背骨を一緒になぞっていく。
その時自分にもぞわりと異物がある感じがする。
しばらくするとそれは一致化して、異物の不快感はなくなる。
遠くから眺めていればいいのに、わざわざ近づくのは、知ろうとするのは、わざわざこんなことをするからなのは、やっぱり好きだからなのだろう。
まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)


理想の場所に理想の家があれば幸せな家庭がある

qbc:
子供のころは、どんな子でした?

スミス:
え~っとですね。そうですね。
あんまり友達とかがいなかったので、一人遊びは好きなほうでしたね。例えば、家の中にある、不思議な曼荼羅のようなラグマットみたいなのがあってね。それが楕円形みたいな感じでね、円形の模様だったのかな。なんかそれをなんかくるくる歩いて回るのが好きだったりとかね。で、円を歩くもんだから目を回してぶっ倒れてるっていうね。

とか、動物とかはあんまりいい思い出が無いですね。犬に噛まれたっていうのがあって。
あとは何でしょう。花とかね、あんまり体があんまり良くなかったから、走ったりね、かけっこしたりとか、外に出てどうのこうのっていう感じじゃなくて、家にいることが多かったので、花だとか、ちょっと田舎の方に住んでるときには花畑みたいなのがね、家のそばにあったり。 木をね、庭に木が植わってましたから、そういうのを見てたりとかしてたかな。あとテレビかな。うん。

あんまり人と会話をすることは少なかったかもしれない。言葉も遅かったから。3歳ぐらいまではうんとかすんとかしか言わなかったらしいので。言葉も遅いし、人間っていうよりも、違うものの方が仲が良かったのかもしれない。本当に小さいときは。

qbc:
それは、何歳くらいのご記憶ですか?

スミス:
2歳とか3、4歳ぐらいかな。親と離れて暮らしたときもそうだったから。4歳、5歳ぐらいじゃないですか。4歳、幼稚園に行って、集団生活っていうのは本当に馴染めなかったから。どう接していいのかがわかんないっていう感じですよね。

qbc:
親元から離れたのは?

スミス:
え~っとね、3歳ぐらいだったと思います。2年弱。
3歳、2歳半。あんまり定かじゃないんですけどね。

qbc:
一番最初の記憶はどんなものですか?

スミス:
う~ん。断片は2、3歳かな、うん。だから病院行ってたときとかね。結構その頃に、最初は東京にいましたけど、東京というか千葉か。に、いた頃っていうのは、あんまり覚えてなくて。そのときなのか、札幌に引っ越してからなのか、ばあさん家に住んでるときなのかちょっとわかんないんだけど。飛行機に乗って東京の病院に行ってましたっていうのがあるのね。
たまに父が、父親が入院してたから、北海道にばあさんと行ったのかな~っていうような、何か結構飛行機に乗ってるとか、うん。

あとは岡山の父方母方それぞれの家に預けられてましたけども、それぞれの家ですよね。父方の家だったり、母方の祖父の家だったり。そこは母方のところは本当のド田舎で、何にも無いとこなわけですよ。だから栗の木がいっぱい生えてた庭だったのでね。裏庭というか裏の山みたいな感じだったけど。あとは花がいつの季節か忘れちゃったけど、花とかね、うん。和室に置いてあったラグマットなのか何なのか、なんか楕円形のね、なんか渦巻きみたいな模様のやつで何かそこをくるくる回るのが好きでしたね。
クルクルクルッパーってね、目を回してバタッと倒れるっていうね、うん。そこには仏壇とかそういうのもあったのかな。

結構、模様っていうのかな、幾何学模様みたいなものに何か反応してたかもしれない。
丸と四角と三角を組み合わせたような図形とかね、うん。それはなんでかわかんないんだけど、幾何学的な模様とか、あとは画集を結構ちゃんと認識して読んでるんじゃなくて、ルノアールとかモネとかね、ただ単に家にあったから読んでたと思うんだけど、画集とかを結構読んでたんですよ。読むっていうか、見てって感じですね。

で、百科事典の中身をわかんないんだけどなんか見てるとか。で、結構絵がね、好きだったんです、当時。なんか絵を描いてたんでしょうね。なんか幼稚園の先生だかが近所に住んでたらしくて、この子は絵がうまいんです、みたいな感じで言われてたらしく、絵を描いてることは多かったです。なんとなく。
どんな絵を描いたかは覚えてないけど。絵描きになりたいとか、デザイナーになりたいとか、なんか思ってた時期がありましたね。さすがに自分の才能の無さに気づくわけですよ、中学生ぐらいになると。これは駄目だなって。

でもなんか絵は見たり描いたりは好きだったんでしょうね。うん。音楽とかは聞いてたんだけど多分それに合わせて体を動かさなかったから。あと結構ね、花とかを引っこ抜いたりとかしてたね。庭に生えてるやつを。1枚ずつ花びらをバラしたりとかね、してましたね。

まぁ、何にも無かったとこだから。そういうところで、何を1日して過ごしてたのかなぁ。だから死んだばあさんにいろんな文字とか、あまりしゃべれないんだけど、文字とか数字とか足し算とかそういうのは4歳ぐらい、3、4歳ぐらいかなんかに教わってたっぽいんですよ。

あまりにも暇だからね。結構、何でしょうね。あんまり記憶無いけど、やっぱ一人で過ごすことが多かった感じ。じいさんばあさんがいるとか、自分の親とも住んでるときはもちろんあるんだけども、何かで一人で寝てたり、一人で起きたりとか、っていうのかな。一人で寝るのが普通だったっていう感じだった。まぁ寂しいよね、今から考えると。

qbc:
体が弱い、というのは?

スミス:
それはね、母が私を出産する時期よりちょっと2ヶ月ぐらい早く生まれたのかな。それはなぜかというと、ちょっと卵巣に腫瘍ができましたと、確か。それはおそらくがんなんですよ。悪性だったんだけど、その手術をしないといけませんと。
もう妊娠8ヶ月ぐらい経つから、じゃ先に取りだしましょうと。取りだしてその卵巣を切除しましょうね、みたいな。うん、そういう段取りだったんでしょう。

だから私をまず取りだして手術をした。
だからちょっと体重が低体重児だったんですね。あとはその低体重だからか元からなのかちょっとわかんないんだけど、いわゆる膝がちょっと悪くて、生育が悪かったのかな。いわゆるO脚とかX脚っていうのがある。私、極度のX脚だったんです。だから写真は大体上半身しか無いわけです。曲がってたから。
それがやっぱり、へんてこりんな歩き方するし、そもそも歩けないしみたいな状態で、うん。そこでやっぱ走れないし、歩けないし、すぐ疲れちゃうし、みたいな。

そこで病院に行ってたわけですね。ちょっと程度がひどかったので、専門のっていうのかな、その小児の整形外科とか。他いろいろね、小児に特化した、ちょっと大きな病院に、前回お話した通り通院することになったんです。その病院では腕がない子とか、片足ない子、そういうのがいて、やっぱり未だに強烈に覚えてます。

で、なんでしょうね。
だから結局、あんまり動きづらいっていうのがあったのと、意思疎通というか、言葉が非常に遅くて、普通は1歳とか2歳ぐらいになると大体発話するけど全然無くて、うんとかあーとかそんなのしかなくて、3歳ぐらいから話しだしたんじゃないですか。

体の膝の方ですね、要は膝のレントゲンやらを撮って、実際に歩行を確認ですか、そういう観察をして診断を受けると。と同時に脳波を測定して知能面で大丈夫なのかとか、そういう検査を定期的に受けてたようなんですよ。

そういうのもあり、自分の感情とかをうまく伝えられないとか、感覚がそもそも感じるのが鈍いとか、自分の感覚というものを感じるのがちょっと不得手だったりとか、それを人様に伝えるのも下手くそだった。だから、ある日突然沸騰して爆発するみたいなそんな感じだったよね。感情的になるとかね。

何でわかってくんないんだろう、みたいな。
でもちゃんとわかるように説明もしてないじゃん、っていうのが今思うんですけど。子供ながらに、何でみんな私のことを理解してくれないんだろうって。っていうのはずーっと、これはもう長く、子供の頃からずーっとありましたね。

qbc:
幼稚園の頃の記憶は、ありますか?

スミス:
幼稚園はね、ありますね。幼稚園は岡山じゃなくて大阪だったかな、岡山だったかな。途中で変わったのかもしんない。
で、一応集団生活はしてるけど、やっぱりね、結構いきなりブチ切れたりとかしてたね。感情をどう説明していいのか、折り合いをつけていいのかがわからない、みたいなね、うん。すぐ切れる子っていうわけではないんだけど、どう言っていいのかがわからなかったなぁ。別にいじめとかは受けてなかったと思うんだけど。

こういう出来事があって、このときのやり取りがこうなったから、なんで伝わらないんだろうと思いましたっていうようなレベル感ではないんですけど。なんとなく頭に出てくる映像としてね、仲間外れになったりとか、嫌な子だったのかもしれないね。そんなのは覚えてる。

自分に悪いところがあったとしても、なぜそうなったんだろうっていうのがね、わからないから。なんか面倒くさ~いみたいな、人付き合いするの面倒くさ~いみたいな。そんなふうになっちゃって、っていうのはあるかもしれない。

それよりもやっぱり、テレビとかの影響を受けてたかな。友達みたいなものだったから。
なんかそれもね、昼間やってるテレビなんてね、奥様向けの番組とかそういうものじゃないですか。小さな子供が見るようなものはあんまり無くて、漫画の再放送とかはあるんだけど、3時のおばちゃん向けのワイドショーとかさ、そういうので耳年増になっちゃうのね。

なんでこんなところ、こんな田舎に僕はいなきゃいけないんだろう、もっと都会に行かなくてはとか、そんなこと思ってた子供だったかもしれない。なんか妙に頭だけ聞いてるものだけは大人と同じみたいなね。

qbc:
具体的に、番組のタイトルは?

スミス:
「3時のあなた」とかね、「3時に会いましょう」ですよ。そういうのが全盛の頃ね。80年代になる前。うん、森光子が出てたとかね。うつみ美土里とかね。うん。今日水曜日だからうつみ美土里だ、みたいな。そんなふうに思ってたけど。

qbc:
内容って、どんな感じのことでした?

スミス:
いやもう、ゴシップだらけだよね、今から考えて。今の時代だと絶対やっちゃ駄目だよねっていうぐらいの、絶対コンプラでアウトでしょって、いうようなぐらいの芸能人の浮気とか離婚とか、血みどろの嫁姑問題とか、そんなのばっかりだったですよね、当時のワイドショーが。奥様向けのワイドショーやネタっていうのは。誰かが豪勢な結婚式を挙げましたとか、芸能人がお正月はハワイに行きますとか、そんなやつでしたね。芸能人になりたいとか、何か思ったりもしてたからね。

qbc:
そのあたりで、弟さんが生まれるんですかね?

スミス:
そうですね、幼稚園だか1年生だかその頃に弟ができたんですよ。だからまぁ赤ちゃんっていうのはね、それってかわいいなと思ったけど。逆に言うと、親を奪うみたいなね。親と暮らし始めた直後だったからまた再び、この野郎、みたいな怒りがね。
あと本当は弟じゃなくて妹が欲しかったのに、みたいなのもあったから。何か妙な、かわいいだけじゃなくて憎しみとかそういうのもあったよね。

qbc:
その頃は、岡山? 大阪?

スミス:
大阪、その頃は。

qbc:
お母さま、卵巣を取ったというお話でしたよね?

スミス:
片方だけ取ったんですよ。だから1個残ってる。
時代によっては、昔は本当に予防のために二つ取るとか、なんかそういう先生もいたらしいけど。
一つ残ってたから、それで妊娠できたんですよね。
5歳差ですね。うん。学年も5歳。

qbc:
このころの一番覚えてることってなんですかね?

スミス:
一人でいたとき、家の間取り図を描いてた。いっぱい。
そう、だからね、今思うのは、空想にふけってたんですよ。空想にふけるのが唯一の楽しみ。そこでいつも不動産の間取りを描いてた。理想の家とか言って、うん。
それがあれば幸せになれるはず、っていうふうに思ってたんだろうね。

だいぶ前からもう思ってましたけど、感覚的にね。
妄想でいっぱいだから、すごい、なんか落書き帳みたいなのに描いてた記憶があるんですよ。誰にも見せないみたいなね。それさえ手元にあれば本当に何億円の家みたいなね、そういうわかりやすいやつなんだけど
何も変わらないわけですよ、それ描いてもね、今からすると。なんだけど。描いてるときがなんか忘れられるというのかな。憧れ、そういうのを手に入れるんだみたいな。うん。それが多分ね、ちょっとずれるきっかけだったかもしんないね。人生が。

qbc:
どこに描いてたんですか?

スミス:
だから結構いろいろね、いや、チラシとかで、当時は不動産のチラシとか、住宅の情報誌とか、何だったっけな。あとは結構インテリアの雑誌がなんか母親が好きだったから、家にあったのかな。
そういうのを見ながらね、昔のインテリアの雑誌って間取り図が結構載ってたんですよ、細かいやつじゃないんですけどね。そういうのを見て写す、描きうつすみたいなところから、ここにはこれがあって、これがあってみたいな。もうちょっと1階部屋増やそうとか。2階はすごい、何が何だかよくわかんないよね、そこに暮らしている何一つ不自由の無い暮らしみたいなものを思ってた、妄想してたのかもしれない。多分それが一番好きだった。

qbc:
ストーリーは作ってましたか? 他の家族が出てくるとか。

スミス:
ストーリーはね、あんまり無いね。うん。自分が何とかくつろぐための、寝るための部屋、自分が何かを観察するための部屋、自分が何かをする、ご飯を食べるための部屋みたいな、そんな感じであんまり人が出てこないんですよ、そこに。召使いとかそういうのが出てくるのかもしれないんだけど。

お母さんはこんな人で、お父さんこんな人で、兄弟はこんな人でとかっていうのって、それも考えてたのかな、それあんまり無かったような記憶があるな。意識してなかったな。

あとね、やっぱりそういう3時のワイドショーとかを聞いて見てるでしょう。だからね、東京の一流の場所じゃないと駄目、みたいなこと思ってたよね。当時からも田園調布とか、麻布とかね、なんかもう知っているんですよ、もう子供のくせに。それも地方に住んでるくせに。元々東京生まれだとか。

qbc:何年生ぐらいの頃、描いてたんですかね。

スミス:
小学校2、3年ぐらいじゃないかな。でもそっからやっぱりね、住宅情報誌を読むのが好きでした。ずっと読んでたもん、一時期。中学生、高校生になっても。リクルートが出してる住宅情報。今SUUMOになっちゃってるけど、住宅情報って名前で売ってたんですよ、毎週電話帳のような雑誌。
本屋さんとかで立ち読みしてたりとか、無料バージョンかなんかあったりとか。ひたすら物件の、最初は新築マンションの写真とか、間取り図が綺麗なのが載ってるんだけど、中古情報になると、もう行ですよ。エクセルの表みたいなやつ。マンション名、住所、価格、広さ、何LDKみたいなのが、そんなのしか 無いっていうね。

今から思うと、その理想の場所に理想の家があれば幸せな家庭があるんだ。で、それを手に入れれば自分も幸せになるはずだっていう思いが相当根深くあったんだろうね、って思いますもん。
その後の人生を考えたときに。なんてバカな! と思うけど、今は。それで私、なんだかんだ家買ったり、売ったりとかしてたもんね。

やっぱり今もそこがうまくいかなかったから駄目なんだ、みたいなのがやっぱり相当根深くありましたね。だから沈没したんだ。人生に沈没したんだ、みたいなね。
思ってたんだけど、ようやくこれが抜けそうだ。ようやくこの勘違いのずれが自分で、あぁこれは違うよねって。うん。

もうそこは妄想の世界に入ってたのね。
だからそこで多分、なんでしょうね、自分の理想が、しかない、理想が実現している世界しかない。その空想では。そういう世界に入り浸って、現実を忘れようとしてたのかな。
そういうふうに当時は思わないけど、ひたすら描いてたから。うん。描くとなんか近づくみたいな、と思ってたのかもしんない。


金、金。全て金だと思ってました

スミス:
1、2年生は、だからあんまり感情が発達してなかったね。なんか冷めてた、すっごい冷めてた。でも何か焦りみたいなものがすごいあったんですよ。こんなところにいちゃいけないみたいな。
小学校1、2年生は勉強は本当に平均ぐらいかな。で、運動はできないほうだったし。だからちやほやされるわけがないわけですよね。まず心の奥底には何かしらでちやほやされたいっていう欲があったんだろう。だからちょっとねじくれてたね。

3年生ぐらいからいじめに遭ったりとかね、いろいろあったから。そっからもう復讐だよね。この野郎殺してやるぐらいの感じだったから。
だから世の中に対する怒りとか恨みとか、そういうものがまだなかった頃、なんですね、1、2年生って。そこで今思うのは、なんか適切にサポートしてくれる大人がいてくれたらな。もしかしたら親がそうだったのかもしれないけれども、残念ながら私の望むものと、提供してくれるものがちょっとずれてた感じがあって。なんかそういう人がいたら人生変わってたのかなって思いますけどね。うん。

1、2年生の頃は弟ができました。で、ちっちゃいけど、ちっちゃい子供ってあんまり、だから私、子供も好きじゃなかったのね、自分の子供なのに。友達の家に遊びに行ってもお母さんとしゃべる方が楽しいみたいな、そんな人だったんで、うん。

子供と遊んでもね、なんかね、なんかつまんないみたいな感じだったんだよね、うん。なんかすごい理屈っぽかったね、なんか。確かに自分と同じ自分の子供が目の前にいたとしたら、これはもう、むかつくわなって感じだもんね。
遊ぶことってあんまり意味なくない? みたいなふうに思ってたりとか、時間の無駄じゃない? みたいなの思ったりとかしてたから。

qbc:
その頃、一番大事にしていたものは?

スミス:
記憶ないね。
自分が欲しいと思うものを買ってくれなかったから。おもちゃとかね、そういうのはあったんだけど、絶対にこれを失くしちゃったらもうどうしようっていうぐらいなものって、無いかな。思い出せない。

qbc:
親からは、どういうふうに育てられたと思っていますか?

スミス:
えっとね。まぁ、一般的な礼儀とかね、そういうのはうるさい人たちだったんですけど、結構子供目線にはなってくれなかったね。大人の世界で、うん。
理解して欲しかったけど、あんまりそういうのがない。だからあんまり子供を育てるのが向いてない人たちだったんだろうなっていうのは思う。

ただね、やっぱちょっと複雑なのがあって、やっぱり父の病気だとか、そういったところで、母もね、出産のとき、ちょっと病気しましたとか、そういうのでちょっと私に可哀そうなことをした感じになっている、っていうのも多分あるはずなので。何て言うんだろう、私に対して素直にはなれてなかったのかもしれない。ちょっと私に気を遣うみたいな。
私もまぁ、居候ですみたいな感じで親に気遣ってたけど。ちょっとそこら辺からもう、ギクシャクしてたんだろうね。うん。

qbc:
お父さまって、なんで倒れたんでしかね?

スミス:
父はね、くも膜下出血。
一応一命は取りとめたものの、病巣は手術不能って言われたみたいなんですよ。悪いとこにできちゃったらしくて、うん。手術して取っちゃったら死ぬとか、半身不随になるとか、目が見えなくなるとか、何かしら障害が出る。だから手術はせずに応急処置で終わった。
で、再発しないように養生してねって。

で、まだ生きてます、80ですけど。だから2回人生を生きた人だと私は思ってるんだけど。
それか、まだあっちの世界に行っちゃいけないよって言われて、まだ修行足りないから、まだ現世にいろっていうふうに言われたのかもしれないんだけど。うん。

qbc:
お父さまが倒れたのって、20代?

スミス:
いいえ、30代ですね、私、33のときの子なんで。35、34ぐらいじゃない。
だから不摂生もあるけど、どうなんでしょう、やっぱ元からそんなに体が丈夫な方ではなかったのかもしれない。生まれたのがね、戦中ですからね。
そういうのもあり、母は私を出産するときにちょっとね、病気になり、そういうところで、そういうのもあって母はちょっと宗教に入っていくわけですね。私はそれを冷静に見てて、なんだ、この人たちバカだなと思ってましたし。

qbc:
具体的な宗教の名前は? 教えてもらえます?

スミス:
まぁ、とある宗教です。とある新興宗教です。大きくはないけど。
私もそういう意味では、宗教二世なんですよ。私は別にそんな関わりたくもなかったけど。途中で辞めたけど。途中で辞めたっていうか、辞めたっていうのもなってないね、信者になってないから。アホじゃない? と思ってたから。

qbc:
あ、子供も強制入信とかではない。入信してない?

スミス:
全然しない。しない、しない。だけど会合とかには連れて行かれてたからね。小学生ぐらいとか。うん、嫌だったけど。

qbc:
お父さまは宗教に対してどういう態度だったんですか?

スミス:
父はもう大嫌い。もう反対してたから。うん。
今思うと、父は、彼はすごい本が好きな人だったんですよ。ものすごい蔵書が家にあって、そんな大きな家じゃなかったけど、本棚に二つ分ぐらい自分の蔵書を持ってたんですね、彼は。もちろんビジネス書とかいろんな会計とかいろんなそういう意味では勉強熱心な人だったんで、常にね、日経ビジネス、昔の日経ビジネス、昔のプレジデントとかあの辺を、常に読んでるような人だったんですけど。一方で本棚の一つ分は宗教の本がやったら多かったんですよ。

彼は本当は、関西の国立大学の経営学部を出たんですけど、本当はね、関西のある有名な文学部とか宗教哲学とかね、そっちの方をやりたかったらしいんですよ、どうやら。さすがに当時はそんなとこ行ったら職がないとかね、本当にばぁさんに怒られたんだと思うんだけどね、元々そういうのが大好きな人なんですよ。

宗教。人は生きるか死ぬのか、死んだらどういうことなんだとかね、っていうのがすごい好き。それは病気になったからそういうのが好きになったのか、元から好きだったのかちょっとわかんないんだけど、異常だったんですよ。もう本棚にはエキセントリックな本ばっかりでしたから。ムーも読んでたし、プレジデントの横にムーがあるんですよ。なんだこの本は? とか思ってたけど。
船井幸雄とかも初期の頃からの本があったし。そういうスピリチュアル的な、もう先導者みたいな人たちの本とか、ブレイクする前の大川隆法が書いた本とか、そういうのがころがってたわけですよ。そこだけちょっと異次元だったのかもしれないですね。
だから、そういうのがすごい好きな人だったんですよ。だからそういった意味で、母が入ってる宗教なんてのは邪教だと言ってたから。

でも子供の頃は、そういうのが嫌だったよね。なんで普通じゃないんだろうと思って。なんでこんなバカばっかりいるんだろうって。
私はもう子供の頃から金しか信用してないって、そういう子供だったんで。うん。
自分の人生を、夢を叶えるには金が大事だ。金、金。全て金だと思ってましたから。ただれてるよね、今思うと。

qbc:
なんでまた、そんな拝金主義に?

スミス:
やっぱりね、なんだろう、3年生ぐらいのときにいじめがあったんだけど、1、2年生のときもそうだったけど。
やっぱり、無力だ。力が無いっていうのはもう、従わざるを得ないと。相手に意見をするには、勉強して学歴をつけるか、結局、金なんだと。金さえあればそれなりにいい奴を雇えるし。

そのときから、友達になるとかじゃなくて、雇うって発想だったからね。
人をもう物としてしか見てないよね、ヤバ。そういう発想だから友達もそんなにいなかったし。同じ同年代の子供と合わなかったんだよね、会話とかも。この人だったらわかってくれるだろうと思って自分のこと言うと、すごいドン引きされたりとか。そういうの言っちゃいけないんだ、みたいな。

qbc:
学校はあんまり楽しくなかった?

スミス:
いや、後半はね、後半はまぁそこそこ、しいか楽しくないかでというと、まぁ楽しいときもありましたね。変ないじめとかもなかったんで。
やっぱりそれぐらいの年になってくると、より、この世の中でどうやれば勝てるのかみたいなことに興味が出てくるわけですよ。まず学歴はいるな、とかね。何とかでかい会社に入らなきゃな、とかね。うだつの上がらない親父みたいにはなりたくない、みたいな。

qbc:
どうしていじめられてたんですかね。

スミス:
多分ね、やっぱり陰気っていうのもあっただろうし、感情のコントロールができなかったので、もしかしたらそこでへんてこりんなことになっちゃったのかもしれないね。
あとやっぱり一回引っ越しをしていて、同じ大阪の中で引っ越しをしたんですが、そこが合わなかったんだろうね。端的に言うと。
ちょっと今、自分で振り返るとやっぱり、サイコパス的なとこがあったかもしれない、私自身が。

qbc:
サイコパス。どんなところがです?

スミス:
やっぱりね、はめるのが好きだったのね。自分に危害を加えてくる奴に、直接はやらないの、腕力が無いから。いろんな人を使ってはめるってのが好きだったの。
周りから攻めこむみたいなね。先生とかもろもろ、うん。

先生すら脅してたんだから。いじめを放置する先生だったから「先生、うちの親が教育委員会とかいうところに相談するとか言ってるんですけど」みたいな。みんな震えあがるよね。
震えてるのを見た瞬間に、馬鹿だなこいつと思ってたもん。

qbc:
そういうセリフはどこから仕入れてきたんですかね?

スミス:
それはテレビとか見てたし。ドラマとかも確かね、「積み木くずし」とかやってたのかな。
テレビ化する前に本があってね。多分父親が集めてたんだけど、そういうのか、多分テレビとか新聞? 新聞はそんな読んだ記憶は無いんだけど。どっから仕入れたんだろうね? なんかそういうのね、うん。いろいろ回りこんではめていく、っていうのがすごい好きだったね。
知は力なり、とかって勝手に勘違いしてたけど。

qbc:
お友達は? 人間関係はどうです?

スミス:
仲のいい子はいましたけど。気が合う子はね。気が合う子はいたけど、まぁ、普通にって感じですね。そこまでめちゃくちゃ仲良くて一緒に何か泊まりに行ったりとかそういうのは無かったですけど、普通に遊ぶぐらいはやってました。

ただ、でも本当に仲のいい子が、あの私ね、お恥ずかしながらね、自転車も乗れなかったんです、当時。3年生、4年生ぐらいで乗れたのかな。その自転車の練習を付きあってくれた子がいてね、ほんとありがたかったですね。補助輪付きでしたからずっと、1年生とかね。

そういう意味で言えば怪我させたくないとか、親はそういうのはあったのかもしれません。危ないからやめなさい! みたいな。どんくさいんだからやめなさい! みたいな感じで言ってたんだけど、まぁ彼や彼女、彼女かな、彼女なりに気を遣ってたんでしょう、きっと。

qbc:
中学校は?

スミス:
中学校はね、もう勉強に燃えてたね。
小学校ぐらいは勉強、ちょっといいかなぐらいだったんですよ。そんなに勉強しなくても。でも、それはもうこんな地方にいるからだと。東京だったら絶対私立中学校受験しなきゃいけないから、もっと勉強してなきゃいけなかったのに、みたいな。そんな感じだったんで、中学校で勉強してたね。

部活はもう本当におダベリクラブみたいな感じのやつに入っちゃったんだけど、うん。でも塾はほとんど行かなかったな。
実は中学校のとき、1回東京に戻ってきたんだけど、また戻っちゃって。大阪に行っちゃったから。そのまま大阪の高校に行ったんだよね。あ、受かっちゃったみたいな感じでしたけど。

qbc:
転勤、本と多いんですね。

スミス:
父は転勤多かったですよ。単身赴任もしたし。

qbc:
普通のサラリーマンでしたか?

スミス:
サラリーマンですね。メーカー勤務のサラリーマンですね。
多分、平均的な人よりもちょっと多かったかもしれない。本当にあちこち行ったから。だから引っ越しするのは、はい引っ越し~みたいな感じで、ばばばっと荷物を作って、はい引っ越し~みたいな感じでしたもん。何となく覚えてますけど。次どこ行くの? みたいな。

qbc:
とはいえ、関西が多かった?

スミス:
いやいやいや、それはもうまちまちでしたね。関西はちょっと長くいて、もう1回また東京に行ってまた戻ってきて、それからしばらく無かったですから。私が高校出てからは、名古屋だとか仙台、東京とか、また行ってまた戻りましたけどね。うん。

自分の住みたいなと思って住んだところにいたとしても、それだけで幸せになるわけではない

qbc:
高校生活はどうでしたか?

スミス:
高校はやっぱりね、大学受験っていうところに行っちゃったんだね、本当は部活をガツガツやってもよかったなと思ったけどね。なんかそこら辺でね、やっぱり運動できないっていうのがね、本当は私、なんかやりたかった人だから。
ちょっとね、噛み合ってなかったね、自分の中で。だけどやっぱり議論ができる友達がいっぱいいたってのは良かったよね。話が濃かった。

qbc:
どんなことを議論したんです?

スミス:
まぁ、しょうもないことですよ、今から言えば。うん。あても答えも無いような。ただ、のべつ幕なし延々ダラダラみたいな感じでした。

qbc:
けっこう、幸せな時代だったんですか?

スミス:
まぁ、そうですね。人生の中で見れば、比較的。
でも本当は、もっとこうしたらよかったっていうのはいっぱいあるけどね。あの頃に戻りたいなって思ってた時期も結構長くありましたので。こんな選択はないだろう、とかね。いっぱいあるんだけど。うん。

でも結果はどうであれ、とりあえずやりたいからやるっていうふうにやってたら、自分の人生どうなってたんだろうな、って思う瞬間は多かったです。
でもそれを除いてもね、中学はあんま個性も無かったな。だけど中学は結構勉強はね、それなりにできたんで。で、高校入りました。高校はやっぱそういう人たちが集まってるとこだったから、悪くはなかったね。うん。

qbc:
どんな議論をされてたんですか?

スミス:
えっと、たわいもない話ですよ。やっぱりね、高校って、私が出たとこ行った学校って、もう高校4年制みたいな感じだったんですよね、4年制の高校みたいな。
1年浪人が当たり前みたいなそんな感じの学校だったから。みんな好き勝手やって1年浪人して大学行こうねみたいな、そんな感じの学校だった。うん。

たまたま別に浪人しなくて入っちゃったら、そらすごいじゃんみたいな感じのノリだったんですね。あの時代、子供の数も多かったし、昔のいわゆる旧制中学の名残の強い学校だったから、バンカラ系のね、大阪の中ではかなりクセの強い学校だったんで、そういう感じでしたと。でも、もしもっていう意味では、下手くそでもいいから、運動部に入ってたんだろうなって気がします。

でも、レギュラー取れな~い、みたいなね。全然下手くそ、お前~、みたい。なんだけど、とりあえずでも、嫌だから絶対辞めないみたいな。何があっても、俺は辞めね~っていうね、そういうような厚かましさがあって、虐げられてもしがみつくみたいな感じでやってたら、どうなってたかなぁと思ったりするよね。
うん、どうなったんだろう。変な、こじらせることはなかったかもしんないね。私の人生は相当なこじらせ人生だから。幾分マシになってたかもね。

あとはね、木っ端みじんになってもいいかもしれないけど、好きな女の子に告白をして、木っ端みじんになるとかね。
告白をした経験はあるけども、あの~うん、でも一番いいなって思ってた子には言えなかったりするよね。それ言って、木っ端みじんになる。もしかしたらうまくいってたかもしれないし、木っ端みじんの立場かもしれないけどね。それもちょっと心残りかな、みたいな。

qbc:
どんな人だったんです? その好きな人って。

スミス:
まぁ明るい人でしたよ、すごい明るくてね。かわいらしい人で。音楽やってた人だったけどね。うん。
なぜか卒業生のね、その同期っていうのかな、なぜかFacebookグループなるものがあって、私は全然投稿しないんだけど、そこに彼女がたまに投稿しているのを見るわけ、もう素敵なお母さんになってらっしゃるけどね。

いやもちろん、私も人のことを言えないけど、やっぱり年齢を重ねているわけですよ、当然ね。当然年齢を重ねてるんだけど、平均的なその年代の人と比べるとやっぱり、昔の面影はしっかり残ってるし、あぁ綺麗な人だなと思いますよね。
あぁお母ちゃんやってんだね、みたいな。
そうか、お母ちゃんやってるかぁって、うん。俺は子供すら、結婚すらしてねぇよとか思いながら、まぁそれはそれで向き不向きがあるからねって今思ってますけど。なんつぅことを、Facebookでね、最初見つけた頃はね、思ってましたけど。

qbc:
大学はどうだったんです?

スミス:
大学はね、正直言うと私は浪人2回してるんですね。もっと言えば、それでも行きたいところには行けなかったです。全然行けなかった。
だからもう第一の暗黒時代ですね、うん。そこはもう学歴と、ただね、なんだろうな、やっぱその頃になるとだいぶ世間のね、いろんな情報が頭に入ってきて、情報、情報、情報、情報をくれ、情報くれ~みたいな感じだったんですよ。
要は自分の主体性が全く無かったのね。踊らされリまくりで、いかにコスパが、コスパっていうのかな、世間一般以上の評価をされるような、会社なり何でもいいんだけど、そういうのに近づけるのはどこだ? みたいな、そんな観点。

やっぱり、最初本当に行きたいと思ったのは、何だろうね、自分の人生を変えるとか、何か一番がかっこいいみたいなそんなふうに思ったんだけど。じゃなくて、次ここ行けたらいいかな、みたいな滑り止めなんだけど、この辺行けたら御の字みたいな感じの学校があって。
でもそこも駄目で、全然違うとこに行ったんですけどね。

まぁ、辛かったね。まぁ気持ちを転換させるのがもう本当下手くそね。でもそれなりに喋れる友達もいたし。うん、そこそこだけど、やっぱりその大学に合格しました~っていうことを自信にして、自分、今までの自分ではやらないことをやろうと思ったんだけど、それはちょっと、ついえちゃったね。そこまでの、やっぱりちょっと失敗しちゃったなっていうのは、やっぱ足引っ張っちゃってたよね。

qbc:
大学の時は、どちらに住んでたんですか?

スミス:
高校3年生は大阪で、浪人してたときは京都にちょっと住んでて。1回家を出たんですね。で、京都にいて。
で、大学は東京だったから、東京に出てきたって感じ。出てきたっていうよりも帰ってきた、やっと帰ってきた、それだけでしたね、嬉しさは。やっと東京帰ってきたって。うん。それだけは本当嬉しかった。うん。

qbc:
東京はどちらに?

スミス:
最初は自由が丘です。
自由が丘はすごいいいなと思って。全然学校近くないんだけど。下北沢、自由が丘、あとどこだっけ。三軒茶屋じゃなくてどこだったかな。平成初期の頃の一人暮らしといえばここみたいな。当時あったポパイとかね、ホットドッグプレスとかね。なんかその辺の雑誌には必ず毎年2月ぐらいの受験シーズンになると、特集になるんだよね。住みたい街っていうのが。
それを欠かさず読んでたから。僕は。ポパイ、一人暮らし特集とかも大好きだったから。それで見てたら、あぁ自由が丘良さそうだ、東京ちょこちょこ来てたから、高校時代から。なんか良さそうだなと。やっぱり高いなというのもあって、すごい狭くてもいいから一回住んでみたいなぁと思って、住んでますね。うん。

qbc:
東京住んでみて、どうでした?

スミス:
やっぱり自分の興味があるもの、美術館とか博物館、まぁ街ですよね。本屋さんとかカフェでも何でもいいんですけど、気軽に行けるっていうのはいいですねと。お金がね、当然かかるからちょっとバイトしなきゃなとかね、そういうの、だけど。
ただまぁ大きな挫折をね、当時は感じてたんですよ。感じなくていいような、だったんだけど。今から思えば。当時はもう相当な挫折だと思ったんですよ。

やっぱ就活どうしようかなとか、いろいろね、気に揉んでてとかね。資格取らなきゃ何とかだとかね、いろいろモヤモヤしてたけども。で、やっぱ後半ぐらいになると気づくわけですね。ゼミ活動とかいろいろやってましたけど、後半ぐらいになると、せっかく自分の住みたいなと思って住んだところにいたとしても、それだけで幸せになるわけではないとかね。うん。
ちょっとずつ気づいていくわけですね。

そこでね、大学生活をしました。あまり海外も行ってないのかな、行ってないな。じゃあ一生の付き合いみたいな友達がいたのかっていうと、そうでもなかったね。
所詮、俺はもう、挫折したんだみたいな変な思い込みがやっぱ強かった。うん。その当時は。就職難の時代だったから、就職もままならぬ感じで希望するところにちょっと行けなかったんで、一年いわゆる就職留年ってやるわけですよ。

それをやったけど、成績はすごい良かったんですよ。成績はかなり良かったんですけど、でも何しようか? って言ったときに、とりあえず知名度のあるところとかね、なんかそんなのとか、本当にこれをやりたいみたいな興味は無くはないけど、うん。あの、じゃ何をやろうかな? っていうときに、就職留年しましたと。でも行きたいとこ行けなかったです。本当に行けなかったの? って、そのもう、最初のときもそうだったし就職留年のときもそうだったし、いずれも最終面接落ち20社みたいな、そんな感じだった。

なんなんだと。
なんかもうね、もうそこでも人生が嫌になったのと、社会が嫌になったね。なんなんだ、この馬鹿ばっかりだ、みたいな。全部みんなで死んじまえ、みたいな感じだったよね。
そのときに先週ね、ぽろっとお話しましたけども、保証もないですと。どうしよう、僕の人生と思ってたんですよ。だからもうある意味、逃げ、究極の逃げなんだけれども、とりあえず大学院ってところにでもぶち込むかみたいなね、自分自身を。うん。

なんてなことを考えていたところ、とある先輩に、お前何がしたいんだ? と。一応受かっていたところもあるけど、そこでいいのか? と。嫌だと。じゃ何したいんだ? と。
というのを言われて、もう思ったこともないことが口に出ちゃったからね。
「大学の先生になりたいんです」、って。
もう勝手に言っちゃったの。もうそれだけ。
何を教えるんだ? わかりません。
何でやりたいんだ? わかりません。
わかりません、だけど、俺みたいになるな! っていうのを伝えたいんだみたいな。自分でもびっくりしました。言えたじゃん! とか言われて、え~? みたいな。

それで、とりあえず大学院っていう名の付くところ調べます、みたいな感じで、最初はもう日本にいるの嫌だったから、英語もそんなにね、めちゃくちゃできるわけじゃなかったけど。
とりあえず当時ね、永田町にアメリカの大学の情報のパンフレットとかが、揃ってる図書館みたいなのがあったんですよ。日米教育センターだったかな。
とりあえずそこに、3日間ぐらい通ったんですよ。なぜか。何か興味のある、これをやりたいとかっていうのがわかんないから、いろんな分野の大学別じゃなくて、分野ごと、建築とか何とか、数学とか法律とかね、文学とか、そういうカテゴリーで、なんかそれなりの有名なところからそうじゃないところまで、それを片っ端から読んでて。
英語も普通にね、ペラペラに読めるわけじゃないんだけど、毎日通って、うん、なんか違うって。都市計画、これ面白そうみたいな感じで、とかってね、ずっと見てました、3日間。もっとかな、1週間ぐらい行ってたのかな。

で、なんか出てきたのが、都市開発みたいな。当時自分は法学部だったんだけど、都市工学とか、いろいろぱ~っと出てきて、環境とかね、開発学とか文系理系が融合したような、当時アメリカでは当たり前だった、日本ではその頃からようやく流行り始めた学問で。
そこでは文系だった人が理系の大学院に行くとか、理系の人が文系の大学院とか普通にあるので。それでいろいろ見て、聞いたことない学校だなとか、ハーバードは無理だろうなとか、UCバークレー、聞いたことあるな、とか。何個かピックアップして。
ネットがようやく出てきたぐらいの時代だから、そこでTOEFL何点取らなきゃいけないのかとかっていうのもよくわかんないくらいで。

何月ぐらいだったのかな、あれ。もう春ぐらいだったのかな。ちょっと前ぐらいかな。
でね、なんかね、いくつか大学見に行きたいなと思った、とりあえず。何のあれも無いんだけど。お金も無いので、とりあえず行ったら何か見えるんじゃないかとかいう。
で、お金足りない。当時の就活仲間みたいな友達が、大体みんな決まってると。
それで友達に、こんなことやりたくて、まずそのためには、とりあえず行きたいのよと。残念ながらお金がちょっと今足りないから、悪いけど2万円貸してくれる? みたいな感じで。半年以内に返すからみたいな感じで。とりあえず言ってみようって、言ったんですよ。それね、5人声掛ければ10万だから、そしたら行けると思ったんですよ。

そしたら本当、貸してくれるんだよね。面白いネタ聞かしてよって。わぁ貸してくれるんだと思って。一人大丈夫だったから もう一人言ってみようとかね。そしたらね、一人10万円、貸してくれるやつがいたの。本当に仲良かったんで、そいつも3浪してたりとかしてた奴がいて、同じ関西の方の出身で。彼は3浪して東京のとある大学行ったんだけど、別に彼は就職をする気はなくって。なんかいろんな資格を頑張って取ったのかな。で、結構株の運用とかしてたんですよ、そいつは。それでそれなりに金は持ってて、スミス君、それは面白そうだね。わかった、10万円貸してあげるよとか言われて、10万貸してくれて。いいの? とか言って。もういいからいいからとりあえず行っておいでって言われて、じゃ行ってきますって行ったんですよ。UCバークレーとね、どこだったかな、ハーバードじゃなくてニューヨークのどっかの大学だったな。あ、コロンビアだ。とりあえずそこに行くかって。

qbc:
それが、おいくつのころです?

スミス:
24,、25、それぐらいですね。

終わりに

2回目のインタビューを終えて、案外、思ったより、これは難行なんだなと思った。
他人の人生に覆いかぶさっていくのかと思いきや、覆いかぶせられているのは私のほうだ。
でも、それでも、聞いてみたくなるのよね。
それは、その人の、怒りも苦しみも、喜びも悲しみも、楽しみも、過ぎ去ったものであればこそ。

裏無名人インタビューのご応募はこちらから。

#裏無名人インタビュー #無名人インタビュー #インタビュー #人生 #コミュニケーション #失敗 #引っ越し


いただいたサポートは無名人インタビューの活動に使用します!!