見出し画像

自分の描く1ページ1ページで人生を作っていきたい人

いったい世界中のどれくらいの人が、幸福を? どれくらいの人が自分の人生の幸福を知っている? 幸福だと思ってる?
自分の幸福とは? 自分の幸福って? 自分の幸福がなんであるかを、わかっている人は、どれくらいいるんでしょうか。人それぞれ違うわけで、だから、自分にとっての幸福ってなんなんでしょうか。幸福って何色? 幸福の形って、どれ? 知らんがな。
って。
何度も何度も何度も言っていますが、幸福とは、幸福のことを考えないことなので、幸福って言葉を聞くとギクっとしたり、オレはいまコレコレだから幸福だし! あたしはコレコレで幸福だし! みたいな状態は幸せではないと思うんですよね。
幸福と聞いて、へえそうかそういえば幸福っていうのもあったんだっけな。
って。感じのが幸福だと思います。
喫茶店に入るじゃないですか。アイスコーヒー頼むじゃないですか。水出しですかドリップですかって、言われて店員に。知らんがな! と思いつつ、日本は水の国だから水水水って思って水出し頼んで、しばし、待つ、じゃないですか。
で、ふと目線の先には、目の前の席に座っている女性の背中が見える。小花柄のポートネック、紺地で白い花がたくさん配置された。落ち着いているのにはなやかなニュアンスでいいなって思うけどでも、今冬だし、季節冬の今には合わなくないのかなって思う。思ってるときに、ふいに、店員に声を掛けられる。
すみません、おしぼりをお渡ししていませんでした。
ああ、はい。(と、手で受け取るオレ)
嫌だわおしぼりもらってないってことにも気づきゃしない愚鈍客って思われたらどうしよう。バックヤードでメチャに話されグチャに陰でオレの自尊心砕け散り散り塵になったらあにはからんや、目の前の席の先ほどの紺地小花柄ポートネックの女性が見ていたiPadの画面が指ピンチで一気にズームされて、女性の読んでた雑誌の文字が拡大される。
「幸福」の2文字見える。読んだ。幸福の栞と読める。
栞=パンフレット。
パンフレット=小冊子。小冊子=読み物、小さな。
つまり幸福について書かれた簡単な読み物というか。そうだ、そういえば、世の中には幸福という概念があったな、そしてそれは栞というかパンフレットというか小冊子というか、小さな読み物というか、リーフレットというか、フライヤーというか、チラシというか、コンパクトにまとまった情報というか、つまりは幸福の手引。
小花の彼女、どうも幸福について興味があるな。あるのだな、そうだな、幸福という言葉に惑わされる人、そういえば多かったな。
そう思った、その矢先、目の前の例の幸福の彼女、後ろを(つまりオレのほうを)ゆっくり振り返る。もしかしたらiPadの画面にオレの顔が反射していたのかもしれな。
ということで、今日も、無名人インタビューをお読みください。人生のお勉強の時間よ!!!(主催:qbc)

今回ご参加いただいたのは 篠原寛 さんです!

現在:人の思いの裏を聞くっていうか、やっぱり聞いていくと初めて発見すること、気づきが生まれるというか。そういう新たな発見、気づきが、自分の中にも生まれるとすごく嬉しいなと。

qbc:今、何をしている人でしょうか?

篠原:仕事としては、特別養護老人ホーム、高齢者施設で週に2から3回働きながら、それも夜間専門という形で。あとは副業として、動画クリエイターと名乗っております。

qbc:介護のお仕事はどれぐらいやられてるんですか?

篠原:福祉系は過去に15年くらいの経験がありまして、2年くらい前からなんですが再び働き方を変えようと思った時、夜間専従の介護を選びました。ちょうど副業というキーワードがね、世に出て推奨されている様子だったので乗っかったというか。出張の多い土木関係の仕事を、その前に携わってたんですけど。
妻1人で自宅に残して、というのもちょっとなとか思いながら。いろいろと、体力面でも危険な仕事ではあったので。もっと大切にしなければならないことがあるんじゃないかなということで。優先順位を、ちょっと別に設けて、そういう形にしたという感じですね。
地元に戻ってできることと、そして改めて、自分の経験値とできることで、そこそこ賃金的にもそこまで落とさないでと考えると、介護という仕事だったんですね。日中じゃなく夜間ということで、ちょっとそこは、保てたということで。そうですね。

qbc:介護のお仕事自体は、どうですか?

篠原:土木の仕事よりも前に福祉関係の経験が15年くらいあるので。今の会社に入っては、2年ぐらいですね。
今の仕事は、高齢者、どちらかといえば、家族と離れて、生活を余儀なくさせられるというか、どうしても今のご時世、自分のね、身内だけで精一杯というか、親や親族と、面倒見きれないなという方が多いと思うので、そういう方々が入っているんだろうなということで。
やっぱり認知症だとか、手の施しようのないというか、生活状況を脅かされるというか。手一杯なので、そういう方々が、そういう方向にね、向けられるというか。社会の縮図なのかなというふうに思ってて。
自分の母親のことを考えたとき、いろいろと高齢者を日々見る中で、感慨深いものがあったりしますね。
その仕事としては体力的にも、夜間帯なんで、16時間ぶっ通しという、ちょっと体力的にきつい部分もあるんですが。現役で歳を重ねてもちょっと続けていくものではないなと。
そのうちに、動画クリエイターを基盤に生きていければというふうに思ってるという感じですね。

qbc:なるほど。介護の仕事が自分的にしっくりきているわけじゃないんですね。

篠原:できる経験値でやらざるを得ないというか、今そこしかないなみたいな、そんな感じです。

qbc:動画クリエイターの方はいかがです?

篠原:これも泣かず飛ばずというか、動画という世界を知って飛び込んだんですが、やっぱりまずは作ること、作成するソフトを使うのにすごく苦労しましたよね。今も使いこなせてるかといったら。
今はまだやっぱり、案件取っていくというような動きも、しっかり地に足つけていかなければなというふうに思ってるんですけど。学ぶ環境にずっと身を置いてるので。

qbc:動画クリエイターのお仕事は、どんな内容ですか?

篠原:実際ほとんど動けてないですね。プロフィールとしては、クラウドワークスにこんなことができますというふうに載せてる程度で、今は待ちの姿勢でありつつ、友人関係にプレゼント動画を作ったりとか。あとはそうですね、僕を知ってくれる人から、こんなの作ってもらえますか? ということで依頼を受けて、少なからず形にした人はいます。

qbc:動画を作るっていうのもすごい幅が広くて、例えば動画素材の音楽だけ作る人もいるじゃないですか。何をされる方です?

篠原:今、編集者ですね。プレミアプロだとかを使って。

qbc:きっかけは何だったんですかね?

篠原:まずは副業として、パソコンを使ってオンライン化というのがやっぱり自分にも迫ってきたので、そこには便乗していかなあかんということと、広告を見て、これからは動画の時代だなと言うことにピンと来たこと、あとは表現するということをいろいろイメージしたときに、自分自身があまり言葉を巧みに伝えることが、へたくそで、苦手意識もあるので。
言葉ではない表現するということにとても魅力を感じたというところですね。それが仕事になっていけばなと。
または人の話を聞いて、その人の潜在的な思いの裏側というか。隠れたところ、表に現れない、表現しない部分を形にできればなみたいな。

qbc:人の気持ち知りたいっていうのは、どうして知りたいと思ったんですか?

篠原:まずやはり僕自身も、やっぱりもがく時期があったというか。
会社員で、一応働かせてもらって。立場的にも、管理する部分も関わらせてもらったりもしたんですけど。自分を振り返ると、自分の糧になってるものってないなとか。結局は、指示待ちの人間で会社生活を過ごしてたんだなというのがあり、自分をあらためて振り返った時に幼少時からの環境は大きい、そこから作り出された性格などが要因として今があると思え、その時々の気持ちは大切な1ページで変えられないのですが、今からなら変えらるのですね。おそらく。それは気持ち一つで。            

あとはきょうだい、兄が発達障害という、社会的レッテルを貼られたような状態で。やっぱり今、障害者施設という施設内でのフィールドで一応作業、仕事はしてるんですけど。やっぱり本人の裏腹な生活現状があるようなのです。そして兄の思いを聞くことがあるんですが、やっぱり全然、なかなかそこを脱却して、自分の望みを叶えるということは難しいんだろうなっていう環境であってその兄の気持ちを思ったこと。

あとは関わる人に重度障害者の方がおられて。もう20年以上付き合いある方なんですが、もう60代後半になる方が、人生の物語を通して、本に残したいという方がおられるまして。
その場でインタビューし、その想いを聞き取って、本にしていきたいというのです。やはりそこにも、気持ちがあります。
そんな経緯があるんですが。人の思いの裏を聞くっていうか、やっぱり聞いていくと初めて発見すること、気づきが生まれるというか。そういう新たな発見、気づきが、人に対して追求していこうとすること、それを通して自分の中にも新たな気づきが生まれるとすごく嬉しいなと。相手も喜んでくれる部分もあるので自分にとってのやりがいを感じるということからです。

qbc:動画クリエイター自体はいつ頃からやろうという状態になったんですかね?

篠原:2年ぐらい前ですよね。

qbc:夜間専門の介護に転職するのと同じ時期?

篠原:動画クリエイターするためにその働き方を選びました。

qbc:なるほど。今、転職して2年して、動画クリエイターの方がまだ軌道に乗ってない状態。ご自身の中で、今の状態をどう思っていますか?

篠原:今は、焦るなっていうかなんか、そんな感じですね。動画クリエイターの学びの場も様々で色々と顔をだしてきました。けど、収入にはなっていない。そこを、形にはなっていってはないけど、諦めないことが一番大事だと思っています。積み上げてきていることあるぞと。自分に言い聞かせています。

qbc:今、焦ってる?

篠原:焦りもなくはないですね。

qbc:性格は、周りからは何と言われることが多いですか?

篠原:落ち着いてたりとか、冷静にいろいろ見れたりもしてるかなとか。温厚であって、そして平和主義だよねという印象ですね。
あとは言われたことがあるのは、ガムみたいなやつだなというか。嚙んでいってようやく、味が出てくるみたいな。

qbc:自分では性格について、どう思います?

篠原:平和主義っていうのはありますよね。八方美人というか。争いごとが嫌というか。何か悪い現象があっても、相手を責めないというかね。何かしら理由があるんだろうという、背景を考えようとしたり。

qbc:近しい人からはなんて言われます? ご家族ですとか、友人、距離の近い友人。

篠原:妻からは、突拍子もないっていうか、思い立ったらもう即行動というか、止められない。なんかそんな感じですね。

qbc:最近楽しかったことって何ですかね?

篠原:最近楽しかったこと。そうですね。楽しかったこと。嬉しかったこと。ひとつ、ひとつですよね?

qbc:ひとつでも、何個でもいいですよ。

篠原:動画クリエイターする上でのカメラを2年前に買ったんですけど、全く一眼レフを使いきれてなくって。自分で素材を作るということもしたいなとずっと思ってたんですけど。カメラ講座を受けることがあって。
その先生がやっぱり素敵な人だなと。いくつか受講したことあるんですけど。単なる撮影や、技術や、そういうものだけじゃなく、本当に、カメラを通して人生の広がりが生まれるような、そんな話をいろいろと広げてくれるというか。今朝もあったんですけど。その先生と出会えたことが嬉しかったですかね。

qbc:どんな先生でした?

篠原:もう何十年とやられてる先生なんですけど。本当に遠方からも、その先生を頼りに。一過性のものじゃなくて、結構長いことを受ける講座も準備されてて。受講生も長いし。

qbc:動画ではなく、普通の写真ですか?

篠原:そうですね。スチールの方ですね。

qbc:先生自身は、どんなふうに素敵だったんでしょう?

篠原:例えば今日の講義のお話では、カメラの技術や構図だとか、いろんな撮影の方法や撮り方だとか、その場面場面であるけど、それは経験値でしかないよと。
それは当然のことではあるけど、色々覚えなきゃという人も多いのですが、その先生は、覚えるんじゃなくて、慣れていくんだと。だから忘れてもいいんだと。これはなんでも当てはまるなと思っています。カメラなので、芸術の世界の例えとなるのですが、日本文化でも能やお茶の世界、俳句、民謡などなんとなくとっつきにくいですよね。自分を振り返ったときに、苦手として、距離を置くようなことがあるじゃないですか、そんなことでも苦手でも慣れていけばいいとなれば、とても優しく自分の中に入ってきますよね。なのでその言葉は嬉しかった。大切なヒントになりました。
2年後にまた同じ初歩的な質問される方もいるし。なんで2年後にそれ聞くんですか? って聞いたときに、覚えなくていいからって言われたということで。そんなスタイルっていうかね。カメラを好きになってもらいたいし、カメラを通していろんな広がりや、視点を見つけていってほしいという思いがね、そこには反映されているというか。

qbc:ご趣味はなんでしょう?

篠原:趣味、なんでしょうね。芸術鑑賞とかやっぱ自然に触れるだとか。神社まわるだとか。子供がなく妻と二人暮らしなんですが、時々、散歩に出かけます。ウォーキングでも、街歩きでも、そんな色んな場でカメラを準備していきたいっていう感じですね。
以前は野球とか、運動系とか。やっぱり体を動かすことはやってきたんですけど、最近はパソコンでの在宅作業が多くなったり、夜間の仕事だったりとか、日中活動が抑えられた分、運動する機会も少なくなったかなっていう感じです。
仕事から帰ってきて、2時間ほど寝たらすぐどっか出かけたりとかいうこともあるんですけどね。いく先は、心を癒す場所かもしれません。

過去:父親がバーっとタバコをふかしたときに、もう僕は、いてもたってもおられず、さっとこう、逃げてしまったんですね。

qbc:子供の頃はどんなお子さんでしたでしょうかね?

篠原:母親からの言葉を素直に聞いていこうとしてたって感じですかね。引っ込み思案で、けど小学生ぐらいはすごく人懐っこいのか、愛嬌がいいのか、楽しく過ごしてる、そんな場面場面が残ってますよね。
引っ込み思案だけど、学校生活は楽しくやっている。ただ、学校から帰宅したら、場面転換が起こるというか。そっから外へ出る場面とかあるじゃないですか、親と買い物に行くとか。いうときに、友達とは目を合わせたくないっていう。そんな感じ。

qbc:目を合わせたくないのは、なんでだったんですかね?

篠原:それはね、もう極端に嫌がっていましたね。近くのスーパーとか。
僕自身がね、原因はこれかなと思うのが、小学校5年生ぐらいまでおねしょずっとしてたのです。そんな経験があって、母親から叩かれたりとか、毎朝のたびに叱られたり。
おじいちゃんおばあちゃんの田舎へ泊まりにいく場面もあるんですけど、やっぱそこでも確実的にやらかしてしまって。それがずっと続いてまして。やっぱ怯えてたっていうことですかね。なぜ友達に拒否反応がでるのかはちょっとわからないですけど。

その模様として強烈に、印象的に残ってるのが、ふたつ上の兄貴がいて、剣道をやってたんですね、小学校ずっと。僕は習い事はしていなくて。それに、親が習わせようということでね。
僕は嫌がるって、そういう意識もできなかったんじゃないかなと思うんですけど。なんとなく、嫌だなということを醸し出すのが精いっぱいというか。けど連れて行かれたっていうね、父親に。
なぜ、どういう話し合いのもとそうなっていったのかっていうか、ほぼ強引だったような気がしてる。で、体育館の中で、靴脱いで上がります。そして父親は、そのね、講師の先生に挨拶して。お願いしますとしますよね。僕も皆の友達ももちろんおるんですけど、そのなかでの10数人ぐらいのなかでの挨拶した記憶あるんですけど。その後、父親がバーっとタバコをふかしにいった時に、もう僕は、いてもたってもおられず、さっとこう、逃げてしまったんですね。その場を離れて。家に帰るしかなかったという感じなんですけど。それが記憶にありますね。

qbc:いつ、何歳のときです?

篠原:小学校3年ぐらいだったですかね。
今振り返ると、もうちょっと、他に選択肢をもらえてたら、選べる状態だったら良かったのになという感じですかね。友達が遊びに行く、一緒にそこで、川の中で遊びに行ったとかもあるんですけど。誘われていく分は多分よかったんだと思うんでね、友達から。
いついつ行こう、何時から集合な、とか言って、行く分は良かったんだと思うんですけど。何の約束もなく、出ていく。出ていってという場面っていうのはすごく拒否があったので、あんまり良くなかったかな。

qbc:なるほど。中高はいかがでした?

篠原:中高はですね。意外に、小学校がそんな状況の中でも地域のソフトボール大会っていうのがあって、そこでちょこっと活躍したとか、楽しんでた自分があって。この流れで中学は野球部に入ったんですね。
中学校は野球部での活躍は、出来たというか、弱小中学だったんでちょこっと活躍できたから、皆にもてはやされて。最後の3年生のときに、2年生の夏の大会で僕欠席することになったんですけど、中核的メンバーではあったんで、休んだのに俺ら勝てなかったなって言って、家に見舞いに来てくれたり。チームにとってすごく僕の存在が大きかったんだなと改めて実感したっていうか認めてもらったという感覚があった、そんな中学であったんですけど。

そういう流れで、そういう経験があるからもう野球でしかない、みたいな自分の中ではあって。野球部へ高校でも入ったと。でも高校1年生で、野球部がやっぱりついて行けないっていうかね。耐えて2年まで行ったんですけど。やっぱりなかなか、自分も見いだせないというかね。嫌々ながらの野球部を過ごしてたと思うんですね。嫌々ながらというか、あんまり、居場所も失いつつあるというか。そのようななかでもう、これ以上あかんなというところで、ついていけないし、もうしんどいしと。2年で辞める決断をしたんですね。もう誰に相談することもなく。
辞めることを監督に伝えた。その日からもう、帰って、家に閉じこもるような感じだったんですけど。そのあとの高校生活がもう苦痛でしかない。より居場所がなくなってしまった。いじめにあうような場。けども休むという選択肢は自分の中でなかったんですね。お利口さんであり続けなければならないっていうのがなんか自分の中にあったんで。学校は、休むっていうのはもってのほかっていうか。本当に自分の影もないなか、毎日を学校に足運んでたみたいな感じですね。もうだから早く、高校3年生、卒業こないかって。卒業きたら絶対にこの街から、そして親から離れるんだ。そんな思いでした。

qbc:高校のあとは、進路進学はどうなっていくんですかね?

篠原:皆が、周りが決まっていく中で、自分はなかなか見いだせない中、振り返った時に、唯一、小学校3年生の絵の展覧会で、なんか良い賞をとって。学校で表彰されたことがあったんですけど。
その時また、それは小学校のときのちょっとした栄光だったんですけど、それに、周りから、お前絵のセンスあるなみたいな。それを思い出して、デザイン学校行く。専門学校に行くってなってたんですけど。それに決めて、関西に、神戸に出て行ったという感じですね。

qbc:何のデザインの専門学校だったんでしょう?

篠原:最初はね、インテリアデザイン。

qbc:どうでした? 専門学校での生活。

篠原:友人関係は、やっぱり仲の良いっていうか、いるんですが、いたんですけど。ん-と、そうですね。学校内だけでの会話しか成り立たなかったような感じですね。プライベートで遊びに行くかっていっても遊びに行ったことなかった。僕は、親には迷惑かけないぞと決めて、新聞配達しながら専門学校通ったということで。その仕事もやってるよっていう、周りにも言っていた部分もあったかもしれないですけど。
結局はね、見いだせずに半年で辞めてしまったんですね。
新聞配達1本での、神戸での生活が始まっていったって感じ。
もう親の世話にはなるもんか、みたいな。そんな精神だったんですね。この両親のもとでは、何の有益性もないみたいな。なんかそんな感じです。

qbc:ご家族との関係ってどんな感じだったんですか?

篠原:表面的な感じだと思うんですよね。素直に合わせているというか。母と父が、どちらかというと互い違いというか。父親が、借金してるのか、何かしら、理由がわからないけど、常に喧嘩っていうのはあったんですね。何か空間が良くなかったんですね。家庭で。
何かしら、居心地が悪いなと感じていました。

qbc:なるほどね。お兄さんは、何の発達障害だったんですか?

篠原:アスペルガーと診断されてました。5、6年前になるんですかね。
兄貴が、本当に、中高なんかは、中学校は特になんですけど、僕とはまったく真逆の性格で。生徒会長とかする、リーダーシップはる、そしてまわりには友達がいる、先生からも愛されてる、なんかそんな雰囲気の兄だったんですね。僕との接点っていうのは、家で兄の趣味、ゲームなり音楽なりそして漫画みたり、なんかそれを一緒になって、僕がいるっていうその空間、いるっていうだけっていうか。だから子供時代、兄の趣味を僕も真似してた。ただそれだけで。
勉強に関してはできるらしいんだなっていうふうには思ってて、勉強について聞いていたときはあるんですけど。そんな自分で調べな、力にならへん、みたいな感じで。聞いてもらったことがなかったって感じですね。
そして、兄が、そんな学生生活を送り、高校も進学校で、そして大学に行って、大学院出てっていうその兄のストーリーは、小学校で見た担任の先生の影響で、教師になりたいということだったんですね。でも、社会人で教壇に立ったときに、受け入れられなかったっていう感じで。鬱状態になったというか。
東京で何があったのかわからなかったですけど、周りの友人らから親元に電話があって。連絡を受けて、ちょっとのぞいてきてくれへんか、ということで。行ったときにはもう、全く別人の兄がそこにはいたって感じです。

qbc:今、ちなみに篠原さんはおいくつでいらっしゃいます?

篠原:僕48歳で。兄がふたつ上ですね。

qbc:20代はどんな感じでした?

篠原:20代。そうですね。ひたすら社会の現状を経験させてもらってるって感じですかね。
新聞配達から、神戸の大震災をうけて、での流れで土木関係の仕事に行って、そして福祉関係の仕事行ってっていう。

qbc:阪神淡路の震災のときに、20歳ですか?

篠原:そうですね。

qbc:30代はどうでした?

篠原:そのまま神戸で福祉の仕事ですね。
個人経営の有限会社で勤めてたんですけど。そこでもう、一生そこかな、みたいな雰囲気ではあったんですけど。自分の役割をもらったり、抱える仕事量が多かったりとか。仕事も嫌ではなかったですけど、時間の拘束というのは半端なかったですね。そこから抜け出すのはもう自分には無理だろうなと思ったって感じですね。

qbc:ご結婚はいつごろ?

篠原:34ぐらいですかね。

qbc:40代はいかがですか?

篠原:40代はそうですね。もうこの会社から抜けられないんだろうなと思ってたときに、ラジオ深夜便を聞いて、いろんな人生物語、いろんな人たちがいるんだっていうのに気付いて、いろんな人生を見聞きしてたっていうかね。人の人生に触れることを楽しみにしていた自分があって。
SNSで昔の土木工事会社の部長さんと、再度急接近するきっかけができてお会いして。僕、その土木工事に再び関わるなんて全く自分は考えられなかったんですけど、お会いしたとき、昔は大きな背中であった部長さんが、すごく肩身の狭い、すごく小さく感じたんですね。背中が。何かほっとけない、何かそんなふうな感情になってですね。
土木の世界ってどういうものなのかって、改めて自分で調べたというか。そして、富山県の大きなダム、ありますよね。その石原裕次郎の映画観たときに、こんな立派な建造物ができるもとは、当然ながら理由があって結果がある。そして、とてつもない難関の工事を貫いて、犠牲者も出してきた。そんな先人の人たちがあって自分たちがいるんだと、自分達の今の生活が便利に成り立っているのは身を投じてきたからこそ。
そんな流れに自分もまた可能性があるなら乗っかりたいって思いました。
40歳を分岐点として、まだ体が動ける、今しかない、っていうんで動いたという感じで、転職しました。長年やってきた福祉の道その自分のことを理解してくれている仲間がいる。自分を買ってくれているオーナーがいる。などと、自分の思い込みもあるのでしょうが、抜けられないと思ってた会社を抜けられたことは大きかった。
周りがびっくりしてましたけど、土木施工の会社に転職したのち、出張生活も始まって。

qbc:気持ち、どうでした?

篠原:すごく楽しかったですね。仕事は別にしてね。もう1ヶ月2ヶ月、やっぱり全く行ったことない異国の地というか、石川県とか、東北の方とかも。震災のあととかに行かしてもらったり。いろんな現状、そしてそこで生活される方々の、根底だとか暮らしだとか、そして人に触れることの面白さというか、観光地巡りよりも、そういう人との触れ合いが本当に楽しいなと思うようになって。また地元神戸とは違う、また味のある人情に触れるというか。それが嬉しかったですね。こんな面白い世界が、自分には知らない世界がなんぼもあるなと思うんです。

qbc:そのお仕事を続けなかった理由は、なんだったんですかね?

篠原:僕も、なんですかね。魂に触れるそういう想いというか、血が湧き上がる想いだったんですけど、先人に乗っかりたいみたいな。
けど現状は、本当に現場での仕事、本当に若手と同様の、ベテランの人たちとの、泥まみれの仕事なんです。全然それは覚悟の上ではあったんですけど、やっぱり危険。また自分の性格上、あんまり敏感な動きはできないというか、やっぱりそれは特性的なもんっていうかね、能力的なものなのか。やっぱりそれは、得意な人との差を感じる部分もあったりとか。経験値もあるとは思うんですが。あとは自分が管理職をすれば、そういう現場からは離れられるのかもしれないけど、やっぱりなかなか、そういうのをまとめてあげるっていうのはちょっと自分の性格には厳しいなと。

出張も、出張先が福井だったときに、親元に帰るきっかけがあったりとかして。本当にゆっくりと母親と関われる時間が持てた。すごく尊いなというふうに感じたけど、でも、もっと家族を大事にしたいと思って。
時々ケガしてね。言うつもりもないけど、やっぱりそれが妻に気づかれたときとか、心配ですよね。やっぱり妻はひとり地元に残してるんで、妻との時間をもっと多くしたいなと考えました。妻だけではなくて、母親もそうだし、兄においてももっと考える時間を持ちたいなというのがありました。

未来:いつから。いや、いつか。そうですね。SNSでもまあね、発信したいし。いろいろとやりたいことが多くて、何かしら、何か計画練って終わりみたいな、そんな感じなので。

qbc:5年後10年後だったり、あと20年30年先、最後自分が死ぬまでというようなところまで考えて、未来ってどういうイメージをお持ちでしょうかね?

篠原:せっかくなら僕も、何かしら、自分の役割というのを見出して、貢献できるものができたらなとは思ってて。僕自身も、今こうしてお話してるのが、わかりづらくしてしまってることがあると思うんですけど、世の中の生きやすさというのは、シンプルというか、わかりやすい人がやっぱり求められるんだろうなとか、それを生かして繋がっていきたい。
わかりにくいですね。

qbc:自分がやりたいことをやれていた時期はありますか?

篠原:よくわかりませんね。おぼろげながらにこうだろう思って、突き進んでたかもしれません。

qbc:いつごろですか?

篠原:最近でもわかってるつもりで動いてるっていうのは、そうですよね。自信がないだけです。
動画だとか、人に伝えることは、やりたいですね。

qbc:今、人生何点ですか?

篠原:60点ぐらいですかね。

qbc:過去最高得点は何点でした?

篠原:最高得点。難しいですね。ちょっとずつ、ちょっとずつちょっとずつ、いい方向に点数重ねるって感じですかね。

qbc:今、最高到達点で60?

篠原:はい。

qbc:もしもの未来の質問っていうのをしておりまして。自分の人生で、このときだけ、ものすごい才能が発揮できる、奇跡を起こせるとしたら、どのタイミングで起こすのがいいと思いますか?

篠原:奇跡。神戸大震災の最中ですかね。

qbc:そのとき、何をしたいですか?

篠原:何をしたいか。そのときに、ものすごく自分の可能性を知ったというか。こんな自分があるんだというのを感じたときだったので。
人にも必ず可能性はあると信じた瞬間だったなって、振り返って思うんですね。
冷静沈着に物事を見定めて、的確に動けてるんですね。そんな自分。
神戸東灘区の住吉で被災して、倒壊があったり、火事があったりていう。若干山手の方だったので。もう見てられない光景があったところで。

qbc:今でも思い出します?

篠原:思い出します。

qbc:その理想的な自分がイメージできていて、そこまで行くのに何が足りないと思います?

篠原:何が足りないですかね。行動力?
何が足りない。そうね、やっぱり、臆病な感じもあるので。もっと恐れず、人の中に入っていけば、なんとかなるよと。その部分かなと思うんですけど。必ず伝わるものが伝わるんだと思うし。そんな嫌がられる存在ではないと思ってるので、自分。その場数ですね。

qbc:挑戦すればいいと思うんです。何で挑戦できないんですかね?

篠原:うん。挑戦しようとしてるところです。

qbc:いつから?

篠原:いつから。
そうですね、いろいろ練ってからですかね。いつから。いや、いつか。そうですね。SNSでもまあね、発信したいし。いろいろとやりたいことが多くて、何かしら、何か計画練って終わりみたいな、そんな感じなので。ちょっと方向変えないといけないなと思っています。思ったらすぐ実践みたいなね。そういう方向に、はい、チェンジしていきたいなと思っています。

qbc:お母さんのことを素直に聞いていた子供っておっしゃってたんですけど、なんで素直に聞いていたんですかね?

篠原:やっぱ怖かった。すぐ手が出たっていうか。素直に聞いてることで、相手の機嫌を損ねないことを最優先したみたいな感じですね。

qbc:お兄ちゃんとお母さんの関係はどうだったんですか?

篠原:そんな手がかかってないんじゃないかなと思うんですけどね。

qbc:これから、人生をどうしたいですか?

篠原:クリエイティブにいきたいです。

qbc:クリエイティブとはどういうことですか?

篠原:人生を作っていきたい。自分の、こう、描く、1ページ1ページを。そうですね、パズルのように置いていきたいって感じですかね。

qbc:最後に言い残したことはありますか?

篠原:無名人インタビューの記事を、今日も2、3ちょっと読ませていただいてたんですけど。僕もどちらかといえばインタビューして、人の話を、ストーリーを聞きたいと思っていたんですけど。なんですかね、すごく尊い時間共有だなって感じました。素晴らしい。
なかなか体力のいることなんだろうと感じたり。また皆さんに、無名人インタビューさんの記事を見ていただきたいなと思うし、僕もいろんな人のストーリーを見させていただきたいと思います。

あとがき

ということで、何人の人が幸せというものをつかめるのか問題は、不毛だからせんくていいよ。
私、明日、死ぬかもしれない。
じっさい、死ぬ人もいるだろう。死を選ぶ人も。
狂っていく人を引き留める権利には誰にもないと思う。でも、死ぬって言われただけで引き留めようとする人もいる。なぜか?
簡単です。
死を見過ごす人ばかりでは、死人が増えてしかたがないからです。
死んじゃうから、死を引き留める力がなかったら。
だから、私のように死を見過ごすような人ばかりであったら、死はいたるところあふれかえってしまう。死、エブリウエア。
存在の証明を歌ってよ!
ということで、感想を思いついちゃった人はコメント欄に書き残していってくださいませね。
そして、私は、また、地下に眠りに帰る。次回の無名人インタビューも楽しみにしていてほしいし、来世でも読んでほしいわ、この無名人インタビューに関しては。愛してる、今日も明日も明後日も。

インタビュー担当:qbc

編集協力:あおい

#無名人インタビュー #インタビュー #自己紹介 #神戸 #阪神淡路大震災

マガジンで過去インタビューも読めますよ!

インタビュー参加募集!


この記事が参加している募集

#自己紹介

230,124件

いただいたサポートは無名人インタビューの活動に使用します!!