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もしあなたが今夜目をつむって、そのまま死ぬとしたら、今日一日あなたはどうやって過ごしますか? 人

死ぬゲームっていうか、死ぬワークショップ、したことありますか?
お坊さんが考え出したセミナーというかセッションなんですけど、あなたはあと七日で死にます、一日に一人としか人と会うことはできません、誰と会いますか? とか、
何を残しますか、とか、
誰に手紙を書きますか、とか、
そのお坊さんをルーツにして、自由にアレンジしていいってことになってるので、いろんなバリエーションのそのワークショップがあるというわけなんです。
なかなかね、死ぬっていうことは考えなかったりするというか、死について考えることはさけがちですが、死を考えるからこそ、生きていることを考えるなんてこともあるくらいですから、この、死を考えるってことは、いいですね。
ということで無名人インタビュー始まります!!!!!
【まえがき:qbc・栗林康弘(無名人インタビュー主催)】

今回ご参加いただいたのは タランゴ  瑶子 さんです!


現在:私はバース/グリーフドゥーラと名乗っています。流産、死産、中絶、新生児死、お腹の中で赤ちゃんに障害があるってわかったり、障害のある子を育てる過程も私はグリーフだと思っているので、そういった精神的なケアをメインにサービスを提供しています。グリーフケアを提供しているところって日本もアメリカもすごく少ないんです。

Mai:今何をしている人ですか?

瑶子:肩書きはバース/グリーフドゥーラです。
何をしてるかっていうと、妊娠出産産後のお母さん、赤ちゃんとそのご家族の、主に精神的なケアですね。プラス体のケアもします。あと産後に赤ちゃんのお世話をしたりとか、お母さんが赤ちゃんを見てる間にお家のことしたりとか。お母さんによって何を望むかはいろいろなんですけど、妊娠期から出産産後のご家族のケアをするのがドゥーラのそもそものお仕事なんです。

バースドゥーラはお産に付き添う非医療者です。非医療的な立場で、医療者の助産師さんや産婦人科医などと一緒に、その場にいる存在です。私は家庭の事情でお産に立ち会うことができないんですが、「どういうふうに妊娠期を過ごすか」「どういう気持ちで出産を迎えるか」「どういう準備を産後に向けてしておくか」、っていうのをクライアントさんに伝え、一緒に考える支援も大事なバースドゥーラの役割だと私は思ってます。

グリーフは日本語で言うと喪失っていう意味ですね。グリーフケアのメインは、誰かを亡くすという喪失体験に対するケアです。私の場合は、その中でも妊娠出産に関わるところをメインにケアをしています。流産、死産、中絶、新生児死、お腹にいるときに障害があって人工的に死産しないといけなかったりとか、お腹の中で赤ちゃんに障害があるって分かったり、障害のある子を育てる過程も私はグリーフだと思ってます。その過程でいろんなものをなくすっていう意味で。その部分のメンタルのケアですね。渦中にいる方へのケアはもちろん、そのことが起きた後に精神的なケアをしてくれるところってとても大事で必要としている人がたくさんいるのに、日本もアメリカもすごく少なくって。なので、まだほとんど誰も踏み込んでいない領域のケアに力を入れています。

私自身、子供が2人いるんですけど、上の子に重い障害があるんです。今11歳半なんですけど、約11年間、障害児のママとして何度もどん底に落ちながら必死で育ててきて、ここ最近になって気づいたんです。障害のある子を持つっていうのは、妊娠、出産をして、子供が当たり前に育っていくって言うのと比べると、数えきれないものを失っていくことが本当に毎日あって。1番大きな喪失は「描いていた未来がない」ということ。これってすごく大きなグリーフだなっていうことに、グリーフの学びを深める中で気づいたので、当事者としても、そこの部分でお母さんたちとご家族のケアをこれからやっていきたいなと思ってます。

ドゥーラがメインの仕事なんですが、もう一つDV被害者支援のお仕事をしています。
アメリカのキサス州オクラホマ州メインで、DV被害を受けている日本人の方たちの相談に乗って、それぞれに必要な支援を提供しているNPO団体に所属しています。こっちはパートタイムでやってます。

Mai:その2つのお仕事をされていて、どうですか?

瑶子:最初にドゥーラとして活動し始めて、少し経験を積んでからDV被害者支援の仕事をして、今ちょうど1年ぐらい経つんですけど、一言で言うと大変。特に、公私の区別の部分ですね。ドゥーラもDV支援の仕事も、ハイブリット(対面/オンライン)で働き方を自分で調整できるのはとってもいいことなんですけど、定時で上がりとか、会社に行ってこの時間で終わりとかそういう仕事じゃないので、何が大変って、そのバランスの取り方。私だけじゃないと思うんですけど、仕事だけじゃなくて、お母さんであり妻であり娘であり。いろんなラベルが私達には他にもあるわけで。そことのいい塩梅を見つけるのにちょっと時間がかかりましたね。今でも気を抜くと公私の境目が曖昧になりがちなので、そこはこれからも課題かなっていうところですね。

Mai:1日の過ごし方、スケジュールはどんな感じですか?

瑶子:これはあくまで一例ですけど、先週は本当にびっちりでした。しかも旦那さんが出張で1週間位なかったので。

ざっくり言うと、朝6時に起きて子供たちの学校の準備して、上の子は障害の影響で、日常の全部にヘルプがいる感じなので、ご飯食べるのも自分では食べるけど、ちょっと見てないとどっか行っちゃったり食べなくなったりするんです。それを監視&食べるよう誘導しつつ、その間にちょこちょこ外しながら2人のお昼の準備。娘が今小学校2年生なんですけどスクールバスで学校に行くのでそれを送り出した後、息子を急いでトイレに連れて行き着替えさせて、てんかんの薬飲ませて、お気に入りの手作りドリンクを作って、車で学校に送る。そのあと家に帰って来て犬の散歩に連れて行って、戻ってきたら家のことか仕事して、緊急の案件が入ってきたらそれに対応して。お昼を短時間で食べ終わってちょっと休憩したら、また仕事。娘が3時頃に帰ってくるのでそれまでにキリのいいとこまで仕事終わらせて、娘を連れて息子を迎えにまた行って、帰ってきて子供たちの学校から持ってきたものを見たりとか、洗い物しつつご飯の準備しつつ、またちょっと仕事して。夕飯も事情があって息子と娘を別々の時間で食べさせるんですけど、娘は食べるのマイペースだし、息子は相変わらず目が離せないので様子見ながらご飯を終わらせる。お風呂の前に息子が大好きな家を走り回るルーティンを疲れてようがなんだろうが求められるので20分くらい走って、お風呂に入れて身体洗って、着替え手伝って薬飲ませて、歯磨きして、トイレ連れてって。寝るときも息子は1人で寝れないので寝かしつけて、娘も寝かしつけて…やっと一息つけるのが22時、みたいな感じです。
これが日によってはオフィスに行く日もあれば、クライアントさんの家に行かなきゃいけない日もあったりですが、結構しんどい。
火曜日と木曜日は娘が習い事で空手をしていて、旦那が時間までに帰って来られない時はご飯を食べる時間にそこに連れて行って、息子と一緒に待ち時間に車でご飯を食べてっていう分刻みのスケジュールで1週間過ごしてます。

Mai:ご自身のための時間は、何をされてますか?

瑶子:それも課題なんですよね。
本を読むのが好きなので、まず本を読む時間が5分でもあれば。漫画でも、そこに気持ちを持っていけるのでそうしてます。あとは自分でも昔から無理をしがちなのはわかってるので、「無理だな」「厳しいな」と思ったら、旦那さんに「週末に1人の時間をください」とお願いして、2時間ぐらいですけど、買い物に1人で行ったりとか。
あとは、旦那さんが最近本当にすごくよく理解を示してくれるようになったので、マッサージしてくれたりします。
まとまって大きな時間というよりは、ちょこちょこっという感じではあるんですけど、あるのとないのとでは大きく違います。永遠の課題ではあります。

Mai:最近読んだ本は何ですか?

瑶子:英語の本なんですけど、セッティング・バウンダリーっていう本です。要は境界線の話。自分と人との境界線。
仕事でもそうなんですけど、私そもそもが入り込んじゃって言うか。
あと、人を優先しがち。自分がどうしたいとかよりも、人が困ってたりしたら自分の気持ちは置いといてそっちの人を優先するとか。私じゃなくても結構ある話だと思うんですけどね。それをし続けてきた人生で。小さいものを積み重ねたら大きなものになっていくように、境界線を自分がずっと引いてこなかったから、それが問題で公私のバランスも取れないって言うのはこの1年で顕著に出て、特に人間関係でたくさん出てきました。

たまたま知人の紹介で、アメリカでグリーフの第一人者である、ディビット・ケスラーというすごい有名な方の3ヶ月の講座を受けてですね、グリーフエデュケーターっていう認定資格をとったんですけど、その講座の中でこの著者の方がゲストスピーカーで来られて、境界線の話をされてたんです。真理をついたことを言ってたんですよね。要は境界線て、自分と相手のパーソナルスペースがあって、みんなその人が自分のパーソナルスペースに入ってくるって思いがちなんですけど、それが起きてるっていうのは本来はあなたの方が、その境界線を自分で超えてるからよっていうことを言ってて。
要は相手じゃないよ、自分だよっていう、結構耳の痛いことを言う。
「なんで?だってあの人がすごい嫌なことしてくるのに、なんで私なの?」って思うんですけど、すごいそれが刺さって。彼女がそれについて書いてるこの本を今読んでるんです。
すごく耳の痛い話ばっかりで。だけど耳が痛いっていうのは、そういうことなのかって。
人間関係はもちろん、仕事とのバランスとかっていうことでもすごく役に立ってるので。
日本語版は残念ながら出てないんですけどね。

Mai:境界線を引くとは、どういうことですか?

瑶子:一言で言うと「自分を大事にする」っていうことですね。わがままになるっていうこと。「私はこれがしたい」と思ったら、私を優先する。

Mai:周りからはご自身の性格についてどう言われますか?

瑶子:しっかりしてるって言われます。

Mai:自分ではどう思いますか?

瑶子:しっかりしてないと思います。
私自身は基本怠けたいですし、だから家もぐちゃぐちゃなんですよね。掃除も何かスイッチが入らないとできない人で。
自分の欲求のままに生きていきたい人なんです。
例えばの話ですけど、みんなでパーティーして集まるよって言われても、気分が乗らなければ行きたくない。で、行かないって言いたい本当は。最近はそういうのもあんまり無理しないことにはしてるんですけど。
優しいとかも言われるんですけど、「そんな優しいか?私?」って疑問で。
自分が言いたいこととかやりたいと思ってることをやったり言ったりしてるだけなんですけど。それが何か人には優しいって受け取られる。
優しくしようと思ってしてるわけじゃないって言うんですかね。

Mai:人からそういうふうに言われることについて、ご自身ではどう思いますか?

瑶子:嫌だったんですよね、ずっと。昔から、実際1歳ぐらいからしっかりしてるって言われてて。1歳のしっかりした子ってちょっとよくわからないんですけど(笑)
しっかりしてるイコール私みたいな。誰に聞いても多分そういうと思うんですけど。
昔はみんなにしっかりしてるって言われてるから、しっかりしてるし、しっかりしなきゃいけないんだと思って生きてきたんです。けど、4年前ぐらいに、息子の子育てがとにかく大変だったりとか、いろんなことが起きて、「人生やめようかな」みたいなところまでいった時があって。そのどん底を抜け出したときに、自分自身の中にある考え方とか物事の捉え方とかっていうのが自分の人生難しくしてないか?っていうことに薄々気づいてたので、そこに取り組んで内観をしていったときに、しっかりしてるって言われてきた自分も振り返ったら、別に私しっかり自然にしてたわけじゃなくて、「しっかりしてないと自分の価値がない」みたい思ってたから、しっかりを演じてきたんだなって。外から期待される自分はしっかりした私だからっていうので、その期待に応えるためにしっかりしてきたんじゃないかということに気がついて。
そこから、嫌だなっていう気持ちがものすごい出てきました。「しっかりしてるって言われたくない」って最初はすごい反発が起きて。でも今は自分が自然でやっててもしっかりしてるって言われるんですよ。
人の「しっかり」の基準なんてそれぞれじゃないですか。だから私には何を基準に言ってるかわからないけど、こういうふうに自分の気持ちに素直に生きたとしてもしっかりしてるって見られるんだったら、それも私の一部なのかなって今は思えるようになりました。

Mai:最近喜怒哀楽で印象に残ってることは何かありますか?

瑶子:今言われてぱっと浮かんだのは、旦那さんに、「よう子が奥さんで本当に良かった」って言われたことですかね。
男性って感情とかを口に出すのって上手じゃない人も多いと思うんです。アメリカ人だから上手かっていうと、そういう人もいるとは思いますけど、うちの旦那さんは、本当の気持ちを言葉で言う人じゃなくって。どっちかというと喜怒哀楽の波はゆるいんですよね。
私の方がわかりやすく出る人なんです。
結婚して今年で丸12年経ったんですけど、もう半分以上、8年9年ぐらいは離婚したかったので、全然夫婦として成り立ってなくて。子供のこととかで事務連絡みたいなのはあるけど、本当の意味で深い話をできる関係じゃなかったんです。だから「いつ日本に帰ろうか?」ぐらいの感じ。「でも子供いるから日本には帰れんかー。じゃ離婚してどうやっていこう?」みたいな。離婚はずっと日常的にある感じだったんですよね。
なので、そこも自分と向き合って、少しずつ旦那さんとの向き合い方も変わってきたっていうのもあるんです。日々の積み重ねが、年単位かけて本当に少しずつ変わってきた。
たわいない話をしてる中で、その言葉が出てきたときに、心がうわーってなりました。「これすごい、なんかこれすごい。」みたいな。何とも言えない。諦めなくてよかったなっていうか。関係もだし自分もだし。いろんなことを諦めなくてよかったなって。やってきたことっていうのはこういうふうに結果が出ることがあるんだなっていうのですごく印象的でしたね。

Mai:今、ご自身のことも含めてご家族についてどう思いますか?

瑶子:ありがとうしかないですね。「私と家族になってくれてありがとう」っていう感じ。
胎内記憶っていう考え方があるんですけど、子供が親を選んで生まれてくるっていう考え方があって、私はそれを採用してるんです。そう思ったときに、障害のある子っていうのは障害を選んだ上で親を選んで生まれてくるって言われていて、それを一番最初に聞いたときは、すごい喜んだんです。7年とかそんな前ですけど。でも、現実はめっちゃ大変だったし、そんなものくそくらえだと思うようになりました。「知ったことか」とか「こんなのは頼んでもないし嬉しくもないわ」、みたいな感じでした。
ここ最近になって、またその考え方が私の中に戻ってきて。私たちは障害がなくても生きていくのに大変なのに、いろんな障害を負った上で私と私の旦那両方を息子が選んだ、っていうのを他の人に聞いたんです。息子が本当に選んであえて私たちのところに来てくれたのだとしたら、娘もそうだし、流産した3人目の子もそう。流産した子もそういう意思を持って来てくれたのだとしたら、、ただ感謝しかなくて。
日常的に腹立つことも辛いこともいっぱいあるし、それをぶつけたり出したりはするんですけど、根幹の部分では、本当にありがとうしかない。ですね。

過去:私、毎日何を目標に生きてたかっていうと、息子の1日後に死ぬことを目標に生きてたんですよね。それが流産したことで、この子からメッセージを受け取った様な気がして。「お母さん、目覚ましな」「お兄ちゃんのこととか言い訳にしないで」って。お母さんとかそういう私にひっついてるラベルを全部取って、「タランゴ瑶子」って1人の人間としての人生を生きていきたいなって、その時すっごく思いました。

Mai:子供の頃はどんなお子さんでしたか?

瑶子:しっかりした優等生ですね。
「優等生誰ですか?」って先生が聞いたら、私の名前が出るだろうっていうぐらい。
それぐらい、学校でも先生の目を気にしてたし、先生に褒められたら嬉しかったし、私がしなきゃいけないっていう義務感みたいなのがありました。「しっかりしてるよね」って言われたらそうしなきゃいけないみたいな感じだったので。私を小さい時から知ってる人はみんな「よう子ちゃんはしっかりした子よね」みたいな。もうそれが多分一番出てくるんじゃないかなっていう感じなんですけど、当の本人は結構苦しかったですね。小さかったので言語化はできないんですけど。
極端に失敗することが怖い子でした。そこにあったのは「しっかりした自分が認められる」っていうのが無意識でわかってるから、わからないって言うことが怖かったし、失敗したり間違えたりして、周りに失望されるということが何よりも怖かった。
そういうものはとにかく可能な限り隠して生きてきてた感じですね。本当につい最近まで。

Mai:それが変わったきっかけは何かありましたか?

瑶子:4年前ですね。そこが全部ちゃぶ台ひっくり返したぐらいに私自身を全部ひっくり返した時でした。
人の求める自分でいる。そうやってきたから今まで本当に人生大変で。大変としか思えなかったですね。楽しいときとか良かったときもいっぱいあったのに、フォーカスが大変な方にしか自分の中で向けられなくなってて。でも本来人生ってそういうもんじゃないよなっていうのもあったので。
本当に本当に一番でかいきっかけって言われたら3人目の流産ですね。自分の中に宿した命がなくなって、それを産み出して。そのプロセスをたどったっていうところがもう一番、ピンポイントできっかけですね。

Mai:今されているお仕事を始めたきっかけも教えてください。

瑶子:ドゥーラ自体の仕事を「これってすごい仕事だな」「私もやりたいな」と思ったのは2人目の出産の後ですね。なんでかっていうと、1人目の息子をアメリカの病院で出産したんですけど、トラウマ的なお産だったんです。今でもそのときを思い出すとまだ涙が出るぐらい。産科暴力っていう言い方もするんですけど、産む人と赤ちゃんが尊重されない出産だったんですね。
そこで息子の障害がすぐわかったわけではないんですけど、生後9ヶ月ぐらいで障害かも…となったので、もしかしたらあのときの産み方とか処置の仕方で息子が障害になったんじゃないかっていう思いも捨てられなくて。
会う人会う人にそういう話をしてったときに、同じ日本人の方でマッサージセラピストされてた方なんですけど、その方が「ドゥーラっていうお仕事があって」とか、「産み方とか産む場所っていうのは選べるんだよ」っていうことを初めて教えてくれたんですね。今まで誰もそんなの教えてくれなくて、病院で産むのが普通だと思ってたけど、お産のことを調べるようになって、自分で。ドゥーラっていう仕事も、お産に関わる仕事でドゥーラっていう仕事があるんだっていうのを知って。

息子に障害があるから次の子っていうのはかなりチャレンジだったんですけど、2人目をもし授かって産むことができるんだったら、自分の力でその助産師さんとドゥーラさんと産みたいと思って。実際、自宅で助産師さんとドゥーラさんについてもらって、産んだんですね。その経験が、とにかく至福な体験だったんです。1人目と比べて。こんなにいいお産なら何回でもやりたいっていうぐらい。産んだ直後にそう思うぐらい本当にいいお産だった。助産師さんとドゥーラさんについてもらったその空間がすごく心地よくて。なんて素晴らしい仕事なんだと思って。別に何をしてくれたっていうわけではないんですけど、そこにただいてくれる安心感っていうのが、私の中では「これってすごい素晴らしい尊い仕事だ。できることならやりたいな」って。そこが一番最初のきっかけですね。

Mai:ドゥーラを始めてどれぐらいですか?

瑶子:名乗りだして、本格的に活動し始めたのはここ1年ぐらい。
娘を産んだのが2016年の2月。資格を取ったのが2021年の1月から6月とかの半年ぐらいかけて取ったので。
「なりたい。いいな。」って思ったけど、現実の生活は本当に大変だったので、それどころじゃなかった。「このまま私、自分の人生を終わるんだろうか?」っていうか、「もう生きてなくていいかな」って思って。
私、毎日何を目標に生きてたかっていうと、息子の1日後に死ぬことを目標に生きてたんですよね。障害のある子を持つお母さんは似たようなことを思ってる人は結構多いんじゃないかな。それをわざわざ口に出す人はいないと思うんですけど、やっぱり残して死ねない。だから、息子が死んだのを見届けてから死ねたらいいと思ってたんですけど、それって全然私の人生ではない。だけどそこを中心に添えた人生だった。それが流産したことで、この子からメッセージを受け取った様な気がして。命を失うという経験をして、「お母さん、目覚ましな」みたいな感じで。「お兄ちゃんのこととか言い訳にしないで」って。自分の人生を終わらせたいと思ってたら、自分の子供の人生が終わりになってしまって。その死っていうものを考えたときに、「いやこのまま私自身で行ったらなんかよろしくない。でもどうやって生きていくか。」ってなった。「こういう経験をしても、また前の様に息子の1日後に死ぬこと目標に生きていくのか?」って思ったら、「いや、それ違うよね。嫌だよね」ってなって。そこからどうやって生きていくってなったら、
お母さんとかそういうラベルを全部取って、「タランゴ瑶子」という1人の人間としての人生を生きていきたいなと思って。そこで最初に浮かんだのがドゥーラだったんですけど、その前に私が自分の問題に向き合わなきゃいけないってのもあったので先に心理学の学びをして、自分の中で少し抜け出てきたときに、ちょうど日本人の方がバースデードゥーラ養成講座っていうのをやるってなって、そこに飛び込んだんですよね。

Mai:息子さんが産後9ヶ月で障害があるとわかった時は、どんな気持ちでしたか?

瑶子:9ヶ月のときに障害がわかったというか、「検診でちょっとこの子、足の筋肉が弱いね」って先生に言われて。公的なところで、発達段階のテストみたいなのができるからって紹介してもらいました。そのときは数ヶ月程度の遅れみたいな感じでした。

1歳とか過ぎてきても、立ったり歩いたり、見てニコニコしたり、喃語をゆったりとかがなくって、さすがにこれはちょっと遅いねぐらいじゃないんじゃないかって。でも、やっぱり否定したい自分もいるから、男の子って遅い子もいるっていうし。みたいな感じで信じたくなくて目を背けてたんですけど。

1歳半ぐらいになって、これはもう何かあるなって。1歳半の健診の時にその病院の先生に、「この子自閉っぽいね」っていうのを言われて、すごく軽く。それが一番衝撃でしたね。この子には医療者の人の目から見ても何かあるっていうのが確実なんだなっていう。あれは今でも忘れないですね。家に帰って1週間泣きました。正式な診断がついたわけでもないのに。
これはもう認めざるを得ないんだなっていう、自分の中で逃げ場がなくなった時ですね。

Mai:そのときどんな気持ちでしたか?

瑶子:それがわからなかったんですよね、なんで泣いてるのか。ずっとわからなくて、でも涙だけは止まらなくて。1週間泣き続けて、やっと気づいたのが、自分がかわいそうで泣いてたっていうこと。なんでかっていうと、息子に障害があってこんな子に産んでごめんねとかっていうよりも、自分が障害のある子の親になるっていうことのショックさに泣いてたっていう。
それに気づいてまた泣いたんですけど。私ってなんて非情な人間なんだと思って。嘘偽りなく言うと、それが一番最初に感じたこと。
じゃあ何でそれがショックだったかって、私は障害のある人とかを自分は差別してないと思ってたんですよ。昔、うちの母親が障害者施設みたいなところでボランティアをしていて、よくそこについて行ってて。でもそのとき、そこがそういう施設だったっていうことをよく分かってなくて、大人になって気づいたんですけど。障害のある方を見てたんですね。大人の。だから、車椅子の人とかも、同級生に向いたりとかしたし、別に差別的な目で見たことも考えたこともないしって頭で思ってたので。でも自分の息子に障害がある「かもしれません」って言われただけなのに、こんなにショックを受けるってことは、私は障害のある人に対して差別してたんだっていうことに気がついて。それがすごいショックだったんですよね。

本当に差別してないんだったら自分の子供に障害があったって別に関係ないはずなのに、私の子供に限って、私に限って、そんなことになるはずがないってやっぱどっかで思ってたから、その衝撃で本当に頭をかち割られた感じで。そのショックもあってさらに泣いてって感じですね。

Mai:4年前に3人目を流産してしまったときはどんな気持ちでしたか?

瑶子:そのときは、流産する子もその理由を決めてきてるっていうのを頭で知識的に聞いてたりとかしてそう信じたい気持ちもあったけど。実は、3人目は素直に喜べなかったんです。なぜかというと、上の息子に重い障害があって、2人目が欲しくて授かれて何とか産んだけどやっぱり現実的にすごい大変で、人間2人育てるって。旦那も出張でほとんどいなくて。

息子に遺伝子性の疾患があるっていうのは、娘が生まれた直後にわかったんですけど、その遺伝子の専門の先生と改めて会う機会がその妊娠がわかる直前にあって。
息子の遺伝性の疾患ってのはどういうものなのかっていうのを詳しく説明してもらった中で、それが家族から遺伝で来てるのか突然変異で出てきたのかわからないんだけど、その疾患の場合は私が保因者であることは間違いなくって。男の子にだけ発症する遺伝子性の疾患で、もし次に妊娠するとしたら、男の子だったら50%の確率でまた同じ遺伝子性の疾患を持つ子が生まれます、と。となると、妊娠したら単純計算で25%の確率でまた障害のある子を産む確率があるっていう、その数字の大きさを目の当たりにしたときに、3人目が欲しかったんですけど、急にその25っていう数字がめちゃくちゃでかい数字に見えて。75の何もないに比べたら25って少ないんですけど、でも私には、障害のある子が25%で生まれる確率がありますっていうのは、もうこれ80、90パーぐらいに大きかったんですよね。

そのとき精神的にもかなり落ちてたときだったから無理だなと思って。もうこれは家族4人で生きてけっていうことなんだねって思いました。
もうその時既に実は妊娠してたっていう感じなんですよ。わかってなかっただけで。
だから妊娠がわかったときに、とにかく、素直に喜べなかった。
嬉しかったけど、もう4人で生きていこうって決めてたときだったから、とにかく「何で?」みたいな感じで。その葛藤が流産してるかもって思うまでずっとあって。
遺伝カウンセラーっていう方がいるんですけど、要はうちの息子みたいに特定の疾患が分かってて、その疾患を持って生まれる可能性があるかっていうのをテストできるんですよね。お腹の中に赤ちゃんがいるときに。ある程度大きくないとできないんですけど。

その遺伝カウンセラーの方にも相談をして、どうするのか。産むのか産まないのか、そのためのどういう検査をして選択して決めるのかっていうところまで話をしていて。
私一番嫌だったんですよ、命の選択って。そんなのはするべきじゃないって思ってた人間だったから。それを自分に突きつけられて、そんな単純な話じゃなかったんだって。
ものすごい本当に苦しみと、いろんな、本当に言葉にできない感情とかがいっぱい出てくる毎日の中での流産でした。自責の念がたまらなくあって。ごめんね、ですよね、こんなお母さんでごめんね、みたいな。でも嬉しかったことは間違いない。でもやっぱり...みたいな感じの繰り返しでした。とにかくネガティブな感情の方が大きかったです。こんなにつらいものなんだって、それもびっくりしましたね。

流産って、外から見るとお腹も大きくなってないし、実際のその子供を抱っこして、その子が亡くなったわけではないし、人によっては生まれてないから細胞の塊とか言う人もいるんですよね。でも、お母さんは命が宿ったってわかった瞬間からもう全てを感じとるわけですよ。いろんなものを。お腹が出てなかろうがなんだろうが。
実際、流産のプロセスってお産と同じなんですよ、自然に起きると。全部すごい短い時間なんですけど、ちゃんと陣痛みたいな鈍痛があって、赤ちゃんが出てきて、その後胎盤が出て。子宮が収縮する痛みが起きるって。私、本当にびっくりして。お産と全く同じ。だから流産も死産も全部そうですけど、出産なんですよね。
その事実もショックだったんですよね。流産ってお産と全く同じなら、そりゃこれはつらいよなっていう。だから、見えないとか、抱っこしてないからとか、そんなに辛くないっていうのは200%間違いで。見えないからこそ、抱けないからこそ、特別な別の痛みとか苦しみがあるっていうところが印象的でしたね。

Mai:過去の経験を一言で表すとどうですか?。

瑶子:経験値かな、と。
別にポジティブもネガティブもなく、経験値。生きていく過程っていう感じですね。

Mai:過去の話で、何か言い残したなってことはありますか?

瑶子:私だけの話ではないんですけど、幼少期からのいろんなすり込み、親からとか社会からとか学校からとか、いろんなところから与えられる影響って計り知れないなって。自分の人生で身をもって体感して思ってます。
だから今DV被害者の方の支援とか、お産のケアもそうですけど、結局みんなそこでトラブルが起きる人たちって、みんな幼少期とかに何かあるんですよね。自分が気づいてないだけで。
そうなったときに、自分が子供を育ててる立場で、私の子も他の子も含めて、この子たちには、私みたいに苦労する人たちのような人生を歩んで欲しくないなとは、過去のことや幼少期のこと、社会環境とかいろんなものを考えると思うかな。
そういうところにもっとフォーカスが当たるようになってほしいな。私自身が言っていくことも、もちろん含めてですけど。

未来:今の世の中にある死の概念をぶっ壊したいなと思っていて。私って人に何か伝えてるときが一番自分らしくいられるんです。死について話すっていうことをもっと自然にできるように、私が死ぬまでに少しでもしていけたらいいなって。

Mai:5年後10年後、あるいはご自身が死ぬときまでを想像して、未来についてどういったイメージをお持ちですか?

瑶子:死ぬまでこういうことやってるでしょうね。っていうのは、死ぬ本当に直前まで、それで死ねたら一番本望だなと思います。もちろん規模はどんどん大きくなっていってるでしょうけど。

私がやりたいことはいくつもあるんですけど、抽象的に言うと一つは、今の世の中にある死の概念をぶっ壊したいなと思っていて。それが何か少しでもできたらいいなと。
具体的には何かっていうと、死ぬことだけは人類全員平等なこと、それだけが唯一生きている私達全員に平等にあるものだと思っていて、それなのに、どうして私達は日常で死の話をしないんだろうっていう。絶対に死ぬことは避けられないのに、学校でも家でも友達の会話でも、死ぬことを前提とした話がない。老いることは話しても失うことは話さない。不自然だなって思って。

そう最初に思ったのは、私が25歳の時に不仲だった父親を急性心筋梗塞で突然亡くした
時かな。そこから時間が経って、3人目を流産をしたときに、命って全然ランダムになくなるじゃんっていう。絶対明日を約束された命なんてどこにもないし、うちの息子の障害もそうだけど、私がその当事者になるなんて思ってなかったのと一緒で、みんなそうだと思うんですよ。自分に限って親を亡くすことはない。自分に限って子供を亡くすことはないとか思ってて。けど、そんなの思ってるだけで、誰に起きたっておかしくないこと。

私も、父親を亡くしたときも、流産したときも、周りの人に伝えたけど、みんなどうしていいかわからないんですよね、そういうことを言われたとき。誰もどう対応したらいいか教えてくれたことないから。

みんなが何か言わなきゃいけないとか思うけど、結局言ってくること全部バツみたいな。そういうことばっかりだったので、その体験も含めて、死の概念を変えたいな。死について話すっていうことをもっと自然にできるように、私が死ぬまでに少しでもしていけたらいいなっていう。

死のことを話すときに誕生というところは、私の中では絶対にそこは切り離せないので。
死ぬことを考えるってことは生きることを考えることだと思うんですよね。どう死にたいかはどう生きていきたいかと直結するので。
そういうことも含めて、今は一対一でやってますけど、それやってると私の残りの寿命に間に合わないので、なるべく早いうちにスピーカー的な立場で、1回喋ったらもっと多くの人に声が届くような立場になって話していきたいなっていうのは一つあります。

Mai:死について話すとは、具体的にどういうことですか?

瑶子:子供だったら「パパとママ死んじゃうの?」って言われたら、まともに答えられるご両親はあんまりいないと思うんですけど、「そうだね。人っていつかは必ず死んじゃうけど、ママとパパは一生懸命長生きするように健康にも気を付けるし、少しでも一緒に長くいられるように頑張るからね。」とかっていう。死っていう言葉が出てきた時に、そこに拒否反応を示さずに話せるっていうか。「死んだらどうなるんだろうね。」とか。
別に正解不正解を話すものではないので、どう思うかとか、どう感じるかとかそのレベルで全然いいと思っていて。

うちは流産した子の話を全然するんですよ、娘と、あと旦那と。
なんで亡くなっちゃったの?とか、悲しい?とか、普通にその子供が疑問に思うレベルのことに対して、その私が思うことを返すだけ。特別な会話ではないんですよね。
ただ私達がその話題を出すことによる拒否反応が強いから、何か特別なことを話す感覚になるんですけど。
どういう死に方したい?とかでもいいと思うんですよ、全然。
私も娘に「今日がもう最後の日で、明日朝起きて目醒めなくって、死んじゃうんだったら今日どんなふうに過ごしたい?」って聞いたことがあって。
そしたら「そうだな。いっぱいパーティーして食べたいもの食べるかな。」みたいなことを言ってました。そんな感じでいいと思うんですよ。

大事な人と喧嘩とかもするじゃないですか。言わなくていいことを言ったりもするじゃないですか。でも、いつか私達の人生には終わりが来るっていうことをわかって過ごすのと、それを隠して過ごすのとでは、その意識がちょっとでもあったら、「明日この人ともう会えなくなるんだったら、私このまま喧嘩別れしてたら絶対後悔するよね」って思ったら、受ける言葉も変わってくるし、「ごめんね」って言いたくなるし、くだらないことで怒ったなと思えるし。

別に毎回は無理ですよ。私も怒鳴って、絶対謝りたくないってときもありますし、人間だから。でも折に触れてそう思えるかどうかだけでも、家族の絆も全然変わってくる。
私が娘に話すのは、「マミーはあなたたちと一緒に家族になれて、本当にもう今幸せだから。もしマミーがいなくなっても笑顔で見送ってくれたら嬉しいな。でも悲しいだろうから泣いても全然いいけどね」みたいな。
理想ですけど、そういう話が誰とでもできる。といいなって。私は思ってます。

Mai:もし自分の幼少期にそういうことができていたとしたら、今どういう人生になっていたと思いますか?

瑶子:変わらないのかもと思った。私が私であることは変わらないから。
逆に言うともっと早くいろんなことをやれてたのかなとは思います。
今、私、37歳なんですけど、大学生で何かやってたりとか。今のこの時期が早かっただけなんじゃないかなと思ったりして。
これまで経験してきたことはもう二度とやりたくないですけど(笑)、私には今の私にはこのプロセスが全部必要だったからやってきてきたことなのかな、っていうふうには思ってますね。

Mai:ご家族で未来を見据えたときの理想のイメージはありますか?

瑶子:この現実に起きるワチャワチャしたことに一喜一憂しながら、家族で一緒にそのときを過ごしていける。それは今とそんなに変わらないんじゃないかなと思います。
もっと深い話ができればいいなとは思いますけど、今のままいけば、おそらく自然にできるだろうと思ってますし。
あとは、娘が楽しみだなっていうところ。
そういうふうに育っていった子がどんな大人になっていくんだろうっていう。
こうなってほしいとかは全くなくて。逆にどうなるか全然予想がつかないから楽しみっていう。それを私と旦那は面白がって見てる感じですかね。息子も一緒に。

Mai:(過去の質問に戻りますが、)お父さんやご家族とのご関係はどうでしたか?

瑶子:母と父が不仲だったんですね、結構長いこと。ケンカするとかじゃなくって、ただ険悪な雰囲気が、オーラみたいな。とにかくその場にいるのが苦しくなる。でも家族だからいなきゃいけないみたいな。
母は父のことがすごく嫌で、父は逆に考えてるかわかんない。誰ともコミュニケーションをとらないから、何考えてるかわかんない。むしろ何も考えてないんじゃないかくらいの態度で腹立つぐらいな感じ。

よくある構図で、母子が一塊で、父親が離れてるみたいな感じだったんですけども。
それが思春期に入るちょっと前ぐらいですね。10歳、11歳とかそれぐらいから、私でも顕著にわかるようになってきて。そっからずっとそれが続く感じで。
私は、父親との方が、コミュニケーションを全然とってくれないし、関係ができてなくって親らしいことをされたことも覚えがないし、なのにたまに親らしいこと言ってきたりするからそれに反発するような感じでした。だからここに問題があるとばっかり思ってたんすよね、ずっと。父と私には問題があるけど、あとは特に問題はないと思ってた。
でも、一番根っこは母と私だったんですよ。

私が母を幸せにしたいがために取り続けてきた行動っていうのは、自分をないがしろにする行動だった。自分の気持ちとかも全部横に置いて。それが結局自分をずっと長年苦しめた。もちろん要因は一つじゃない。父との関係ももちろんあったんですけど。どちらも。
それが苦しくって、そこを認めてやっぱり行動に移すまでが、それが一番しんどかったですね。

Mai:具体的にどんな行動を取りましたか?

瑶子:母と連絡を絶ちました。突然。

Mai:今のご関係はどういう感じですか?

瑶子:つい最近まで、もういいやと思ってたんです。
彼女を喜ばすために私は存在するわけじゃないっていうこと。依存してたのでお互いに。
母であるから子であるからみたいな。
私が1人の人間として、自分の人生を生きていくってなったときに母が重かったです。
私の人生に今そういう人はいらないって思って切ったんですけど。
その間もずっと自分の中でいろいろ向き合いを続けていって、物理的に私は距離もあったのも助かったんですけど、でも母に対する、こういうお母さんであってほしいとか、私のことを理解してほしい、っていう捨てきれない気持ちがあった。それをやっと捨てることができて。0.2パーぐらい期待は残ってたんですけど、それ以外はもうほぼないかなっていう時に、今年の夏に4年ぶりにこっちに来たんですね。

チャレンジだなと思いました。
頭でわかってても、自分のお母さんを目の前にしたら、子供の自分に何となく戻る感じ。引っ張られる感じ。私っていい大人なんだけどな?って思いながら、引っ張られる。それがすごい怖かったんですけど。実際来て、すごく穏やかに時間が過ぎて。3週間だったんですけど。
なんでだろう?と思ったら、やっぱ私が変わったからだったんですよね。
今までは期待があったから、それを直接ぶつけないでも、言葉の端々に皮肉だったりとか、そういうのが入ってたから向こうの反応もそれに対するものだったんだけど、今回はおそらく私の話し方の中にそういう物がなかったんじゃないかなと思うんです。

母はいつも帰り際に手紙を置いていくんですけど、いつも息子のことばっかり書いてあるんですよね。息子は「障害があるのに一生懸命生きてて偉いね」とか「頑張ってね」とか「成長したね」とか。肝心のあなたの娘である私っていうところが全然触れられないんですよ。
それが毎回やっぱりって思うんだけど同時にすごい腹立たしかったのが、今回は別にそんなの全然気にしなかった。「どうせ手紙を置いて帰ってるんだろうな。また息子のこと書いてあるんだろうな。」と思って開けたら、私のことが一番最初に書いてあったんです。

今まで書いてなかったのに、「あなたは本当にすごいよく頑張ってる」みたいな。
関係を変えるつもりでは何もしてないんですけど、結局自分がそこを認めて向き合って、自分のペースで消化していった先にあったのが、母との関係性の変化だったんですよね。
びっくりしました。人生トップ3に入るぐらいびっくりした出来事ですね。

Mai:これから先を考えたとき、お母さんもそのピクチャーの中にいますか?

瑶子:正直言うと難しいですね。私は自分の今のこの、流産した子も含めての、ここしか今は見えないかなっていう。でも、母とのことも数ヶ月前に起きたばっかりなので、まだ生きててくれるのであれば、少しずつまた変化していくってなると、ぴょこっと顔を出すかもしれないですね。

Mai:これをするまで死ねないみたいなものはありますか?

瑶子:ないですね。
これまでの人生いろんなことがあった中で、やれることはやったかなっていう。
子供たちのことが気がかりではあるけど、それ以外はないかなっていう感じです。

Mai:ドゥーラとして5年後10年後、どういった自分であると思いますか?

瑶子:多分ドゥーラじゃなくなってるだろうなと思います。
これはいろんな人にいろんなところで言ってるんですけど、私は一つのところにいられない人なんですよね。肩書きっていうものがそもそも窮屈になっちゃうんですよ。
肩書きをつけると、その枠でしか動けない。っていうか、それを期待されるし、自分もそこにはめようとしてしまう。
その枠から出た私、もうドゥーラじゃないじゃんみたいな。
私がやってることはドゥーラっていう領域じゃないなって思ったときには、この肩書きは取ると思ってます。だから、現段階でバース/グリーフドゥーラってふうに私は思ってます。

Mai:5年後10年後、それをとっぱらったとき何を見ますか?

瑶子:私って人に何か伝えてるときが一番自分らしくいられるんです。
自分の言葉で、自分の体験とかもそうですけど、こういうインタビューとかもすごい好きで。いろんな人に何回かお話会とか、スピーカーとしてお金いただいてっていうのをしたこともあって。
話すっていうことはすごく私の力が発揮できるし、自分も好きだし、エネルギーも注げるところだから、今はグリーフケアで誕生死ってところに限ってるけど、そこにとどまらずに。
私は今は死の方にフォーカスを当てたい気持ちが強いので、それを人に伝えていくことをしてるんじゃないかなと思います。

Mai:自分らしさって何ですか?

瑶子:深く考えないこと。考え出すとドツボにハマる。
普通に生きてて「気持ち悪っ」とかって思うのも自分だし、「気持ちいい」というのも、「美味しい」とか「眠たい」とか、五感的に感覚で感じるものに素直であること。
欲求に素直であること。
考え出すと思考の方に行っちゃうから。理由づけみたいなのが始まるので。癖なんですけど。そうすると、それこそもっと路頭に迷って、あれ自分らしさって何だっけみたいな。言葉にしようとしちゃうから。だから深く考えないことかなと思います。

Mai:最後に言い残したことはありますか?

瑶子:まんべんなく話せたなと思うんですけど。
一言言うなら、「みんな死ぬからね。」「みんな明日死んじゃうかもよ」っていうのはいつも思いますね。それでも今日も同じように生きるのかな?って。
ありきたりかもしれないけど、「もしあなたが今日夜、目をつむって、そのまま死ぬとしたら、今日一日あなたはどうやって過ごしますか?」

あとがき

人生100年時代なんて言われてるけど、「どう生きるか」そして「どう死ぬか」を迷いなく答えられる人は、一体どれくらいいるのだろう?

人生の歩み方は自分で決められる(少なくともそう思っている)のに、それを終わりにする日は自分では決められない。
そしてその不確かな日が、人間に唯一与えられた平等なものって。不思議すぎやしないか?

予期せぬ死って言葉はあるけど、それは正しい表現なのか?

「死」を考えるとたくさんの疑問が残る。

日常って、もしかしたら「予期せぬ」ことの繰り返しで出来ているのかもしれない。
毎日が同じように見えても、全く同じ日は1日だってないのだから。
そうすると「死」も日常の、どこか一部にあったっておかしくない。特別なものではない。

私たちという「生」の存在そのものが、実はとても不確かな、「死」と同じようなものなのかもしれない。

「生」と「死」は表裏一体。
「生」なくして「死」はない。「死」なくして「生」はない。

確実に言えることは、今この瞬間に生きているということ。
そして「予期せぬ死」と背中合わせということ。
生きているんだもん、あたりまえのこと。
今この瞬間を生きよう。五感に素直に。自分に素直に。

【インタビュー・編集・あとがき:Mai】

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