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ぐるぐる回っている人(過去02)

ずっと昔の話を聞いている。
昔の話が、今のその人を作っているのだけれども、でも、けっしてその人自身ではなくて。
じゃあ過去の話なんて聞かなくもいいんじゃない? と思う。その通りでいいと思う。
でもそういう、過去の完全無視っていうのはできなくて。つまりは過去に捕われている。
それが人間だし、現在と過去の矛盾の結果とも言える。
まえがき:qbc・栗林康弘(作家・無名人インタビュー主宰)


日本大嫌いだったから

qbc:
それで、アメリカにいくんですね?

スミス:
はい、そうですね。実際にアメリカの大学を見に行きましたと。いろいろありましたが、実際に行って戻ってきてですね、留学もいいけどお金かかるなぁとか、そういうのがある種ちょっと悶々としてた時期かもしれません。そんな頃にですね、ちょうど日本の大学院っていうのはどうなのかなっていうのをふと思いましてね。

私は元々法学部だったんですけど。
ちょっと違う分野に行こうかなっていうので、そもそもアメリカとかだと結構そういうのは、学部と修士で分野を変えるとか、そういうのは結構比較的多いんですけども、日本はなかなかないんじゃねぇのかな、なんて思いながらとりあえず行ってみようというので探し、どうやって探そうかななんて思ってたわけですね。

それから大学出てからかな。なんかちょっと時期は若干かぶってますけど。そのときにただプー太郎になるのもっていうのもあったんで、一応その学生、学部学生向けっていうのかしら、大学3年生以上向けに、なんかね東大のね、マスメディア研究所みたいなのがあるんですよ。マニアックな。
あそこは大学3年生以上、他の大学でも試験さえ受かれば専門学校みたいな感じですね。ある種、大学じゃなくて専門学校の科目受講生みたいなそんな感じの、なんかそういうのが昔からあるらしくて、その情報をかぎつけてとりあえず試験に間に合うってとりあえず受けたんですよ。
そしたら受かって。倍率もそんな高くないので。

お金借りて海外の大学院を見に行ったってのとこれは、多分ほぼ前後してたような気がしますね。
実際にはそこに科目受講生みたいな形で、メディア学ってあんまりそんなに興味が、絶対これをやろうなんて全く思ってなくて。そこには他大学の3年生だ、4年生だ、あと東大の人もいて、なぜか社会人の人とかもいて。いろんな人がいました。

そこで仕入れた情報で、東大に何か新しい大学院ができるというのを聞いたんですよね。当時の流行りもので環境学とか、実際分けてみると工学系が結構多かったんですけど、経済学とかいろんなのがあるよと。

その説明会があるから、興味あるなら来れば? ってなんかよくわかんないけど、面白そうなことやりたいっていう人にはいいかもしんないよ、なんて言われたんですよ。そこの仲間というか、1個先輩なのか同じ世代の人なのか忘れちゃいましたけど。

あ、そうなんだと思って、その説明会とやらに行ったらですね、そうしたらまぁ個性的な先生たちばっかりだったわけですよ。
2000年、1999年とかそのぐらいの年で、景気はもう全然駄目駄目。ただ環境とか、今でいうSDGsですよね、いうならば。そんな分野の新しい理系だったり文系だったり、今までの学問だったら縦割りがはっきりしてるけど、区別しきれないもの。両方にまたがるようなものっていうのをちょっと研究しませんかみたいな。

当時流行ったんですね。理系メインの組織にして、新しく学科を作って予算をぶん取ろうって話だったと思うんですよ、結局のところね。
予算とポストを作って、理科系にした方が金が予算取れるから。多分予算獲得のプロジェクトだったんだなと、今から思うと思うんですけど。そこの説明会に行って、少しでも自分の興味とやってきたことがちょっと違うなと思っても、意外なところで引っかかるから、遠慮せずに受けてみたら? みたいなことをメッセージで何か言われたんですよ。

へぇとか思って。過去問なんて1期分しかないし、どうしよっかなとか思ったんですけど。科目は英語と論文ですよみたいな話とかね。それ以外にも、そこをきっかけにね、いろいろ調べる足場ができたっていうとこがあって、そこを基にいろいろ他の学校どうなんだろうとか、結構調べ始めて。まぁやっぱり結論で言うと、結論から言うと、やっぱ海外もいいんだけども英語とりあえずね、大学院レベルに上げるのにちょっと時間かかるので、1年はかかるなと。

そこから出願とかしたらちょっと、時期が1年ぐらい遅れちゃう、さらに遅れちゃう。当然お金もそれなりにしますと。当時円高だったとは思うんですけどね。だったら手近なところで時間短くっていうところでいくと、日本から日本の大学院かなみたいな、そんな感じだったんでね。

受験シーズンが夏の終わりの8月ぐらいかな。何個か受けて駄目だったところもあれば2個ぐらい受かって。そこの学校に、説明会を聞いたところに行くことになったんですよ。
大学受験では失敗だけど、大学院受験はなんか1ヶ月ちょっとの勉強で受かっちゃったんだけど、みたいな。っていうのでとりあえず9月ぐらいに、9月の終わりぐらいかな。合格発表があって、でも金を稼がにゃいかんというのがあって、バイトずっとしてましたけどね。うん。

qbc:
大学卒業して、すぐに就職しなかったんですね。

スミス:
そうです、そうです。二浪一留で、就職留年、うん。で、1年プータローの大学院ですから。

qbc:
あ、2年目も。

スミス:
2回目のときも、あんまり振るわなかったね。なんでしょうね。もうやる気も全て失せてたわけですね。うん。大学受験で私の人生が狂ったと思ってるから、当時は。
で、就職でも駄目かい、と。もうどん詰まりだな、と。どん詰まりを解消するには、思いもつかないことをしないといけないと。っていうので、ぽっと出てきたのが留学だったんですよ。ま、逃げようって話だよね。日本大嫌いだったから。うん。

qbc:
なぜ日本が嫌いになってたんですか?

スミス:
ていうかやっぱり多様性無いでしょ、同調圧力強いし。その決められた枠の中での競争だからね。
新卒採用という採用制度そのものもすごい嫌だったし、元々ね。自分がやってみて、あんまりいいタイミングではなかったっていうのもあるんだけど。ほらね、やっぱり駄目だよね、みたいな。結構有名な会社が当時バタバタ倒産してたじゃないですか。

銀行も倒産するわ、なんだかもう結構とんでもない時代だったと思うんで。頼れるものはやっぱり自分自身と金だよなっていう思いがより深くね、やっぱこれしかないって思っちゃったんですよ。拍車をかけたって感じですよね。
自分の仮説というか持論、仮説だな、仮説で自分が痛い目を遭いました。うまくいきません。なおさらそれに拍車がかかった、思い込みが強化されたっていうふうに今は思いますけどね。うん。
もうとにかく、勝たなければいけないんだというふうに思っちゃったんで。

そういう日本の競争の枠組みで言うと、自分は負け組だなってわかってたから、起死回生を狙うには外圧として行くしかないと思ったんですね。うん。それで結局日本は変わってきた。っていうのがあって、嫌だったんだけど、いろいろ悩んだけども、結局日本の学校にまた行くことになりましたと。

で、自分の就職どうなるんだろう、だいぶ年遅れちゃったんだけどみたいな。まぁいいか、みたいな。やっぱそこまで学歴にこだわりというかね、そういうのがあったんですね。不甲斐なさというか。ちょうど過渡期だったんですよね。世代の過渡期でもあるし、価値観の過渡期でもあったし。そこは古い考えを、今で言うところの古い考えが強かったっていうことなんでしょうね。

で、大学院に入りましたと、うん。そうすると今度は研究で悩むわけですよ。分野をちょっと変えて。本当はね、もう、ド理系みたいなことをやりたかったんだけど、やっぱり自分のスキルが足りなくて。
ややモヤモヤしながらも、途上国だとか、当時イギリスで流行ってた新しい開発手法っていうのがあって、国家開発、都市開発って言った方がいいのかな。インフラ整備とかインフラ施設の整備とか、整備方法、技術的なことじゃなくてね、概念とか、法的な考えとか、資金調達どうすんのみたいなとかっていうのは、なんかいいんじゃない? って、自分の中から出たんですね。

これからの日本だと。民営化がどうのとか、そういうようなことをよく言われた時代だったんですけど、うん。
っていうのでそういう方面の研究をしてたんですよ。なんだけど、国際協力学ってよくわかんない学科なんですけど。

で、また就職活動が来ますよね。また同じように身構えちゃうわけですよ。で、やっぱりね、年齢いってるからもう門前払いみたいなところもありました。財閥系のすごい厳しいところとかは。
それはしょうがないよねと思ってましたけど。だからコンサルとかシンクタンクとか、院卒が多いところというのは別に全然こだわらないんで。あの人たち何してたの?あ、そうみたいな、そんな感じだったから。そういうところかななんて思ってたんですよ。銀行行ったってね、どうせ落とされっしょ、みたいな感じだったし。うん。

なんだけど、どういうわけか、また金融機関の方に行くことになったんですね。
シンクタンクはおいでよって言われたところがあったし、コンサルも一つあったし。でも金融機関で来れば? っていうところがあったんで、いわゆる外資系、ちょっと複雑な会社だったけど、外資系ではないけど外資みたいな。で、外資系の投資銀行とかね、ああいうとこも。最後まで行って駄目だったとかね、結構ありましたが。まぁ何とかとりあえず職場は決まったぞと。

qbc:
そもそもの第一志望は、どこだったんですか?

スミス:
やっぱ当時は商社に行きたかったですね。か、コンサル。当時はコンサル、外資金融が花だったんですね、たくさん稼げるからって。だからその分、クビになるかもしんないよみたいなのはあったけど。うん。その頃ですね。

やっぱりね、日本企業どうなんだろうっていうのはあったんだけど、やっぱりいろいろできそう。いろいろできそうみたいな。あと実際に開発とかそういうビジネスやってるから。資金調達をして、物を作るのはゼネコンとか建設関係の人たちで。プロジェクトを企画してね、政府とかと。
っていうのって商社なので大体。いろんなゼネコンとか銀行から金を引っぱってきて、進めていくわけですね。エネルギーでも何でもいいですけど。

ところで一番自分の学んだことを活かせるというか、自分の興味を持ってるのはそこかなと思ってたんですけど。コンサルでギリギリやるのもいいし、シンクタンクね、大学院のある意味延長ですよね。そういったところのリサーチとかね、そういうのだったら、まいいかなみたいな感じだったんですよ。

ただ研究をする中でね、あるファイナンスに琴線が触れちゃったんですね。やっぱり金貸しっていうとこかなみたいな。コンサルそのまま行っときゃよかったなと思ってんだけど。やっぱ金融機関も金貸しっていうものって何なんだろうって。そういうプロジェクトはいきなり入ってやらしてくれるのかっていうと、なかなか無理なわけですけど。何かこれをやってみたいなと思ったんですね。
で、金融機関に入ると。

うち来ませんかって言われた

スミス:
金融機関入る前に面白いバイトがたまたまあって。
修士論文はもう、ヒイコラ言いながら書きましたけどね。全然学校行ってなかったし、行けなかったし。どやされながら何とか書いたっていう劣等生ではありましたが。一応学位を取りましたと。っていう修士論文でテンパった直後ぐらいだったかな。

だから3月に卒業して4月から入社式ですよね。
だけどね、3月のね、頭、上旬かなんかにあるバイトがあって、すごいマニアックなバイトで、2月の下旬かな。とある外資系の投資銀行、証券会社ですね。の仕事で、面接官の新卒採用での面接トレーニングをするから、その就活生役をやってくれっていうね、そういうバイトがあったんですよ、なぜか。

その練習台になってくれと。だから実際に就職活動が終わった人限定でやってきてと、その当時そういう仕事をね、バイトだとか単発の仕事とかを斡旋してくれるところに登録をしていたので、こんなのあるよって言われて面白そうだから行きますって言ったんですよ。

で、実際にね、証券会社のいわゆるM&Aとかね、そういう投資銀行の部門の人たち、あと株、株を扱う人たち株式、株式部門っていうのかな、なんかトレーダーとかね、ああいう人たち。二つの部門の練習台になったんですよね。

で、株。投資銀行のじゃなくて株の方はね、「はい、じゃスミスさん、練習台、1人目の面接官来ますんで対応お願いします」とか「2人目の面接官来ますんで対応お願いします」2人ぐらいを相手にするって聞いてたのに、なぜか4人ぐらいやってるわけですよ。

次は何々ですとか言って、またもう1人お願いしますとかって。どうなってんのって、時間こっちはもう限られてるのに、割り増しのお給料は割り増しでお支払いしますんで、ちょっと面接練習してあげてくださいとか言われて。その日一日だけの仕事だったのに一応4人こなしたのかな、確か。

比較的若手の人、あとディレクターとか、結構いろいろ出てきましたと。その最後の人かな、実際に人事部の人なのかな。外資ってね、採用の権限はヘッド、その部門のヘッドが持ってますから、人事部という多分事務作業みたいなことをやってるわけですけど、明日もう一日来ていただけますかと。まだお仕事があるんですとか言われたんですよ。
はぁ、今日だけじゃないんですかって言ったら、明日もぜひ来ていただきたいんです、もちろんお給料支払いしますからって言われて。午前中だけならいいですよみたいな話をして。次の日行ったらね、うち来ませんかって言われた。実は半分は私の面接だったっていうね。

この条件でどうですか? って言ってね。でも株式か、ちょっとな、違うんだよなと思いながら。私は株式のセールスをやるんですか? と。トレーダーなんですか? それともリサーチなんですか? 昔、違う会社の違う外資の会社のリサーチでインターンはやってましたと。それを言ってくれたよねって。わかってるわかってるとか言って。トレーダーとかいいと思うのよとか言われて、俺がですか? みたいな。

全然それやってる自分がね、イメージつかなかったですね。結局お断りしたんですけど。うん。そんな面白いことがありました。いやそんなのってあるんだみたいな。ただそれも結局そこの外資系の会社には行かずに違う日系のっていうか、半分外資系みたいな会社でしたけど、銀行。

その年に私が面接の練習台をやった会社はだいぶ人を切ったんですよ。業績が厳しかったのかな。。だからもう入ってすぐ首切られたかもしんないと思って。何があるかわかんないよねとか思ってましたけどね。なんかすいません、ダラダラって言っちゃって。

やっぱり負けたくなかったはずですよね

スミス:
都合計算すると私26歳ぐらい、もっと。28ぐらいで私、実は社会人1年生だったわけですね、27か。なんか最初から同期がどうのとか興味が無いというかですね。結局その頃は忠誠心とかもカケラもなくて、ひたすら這いあがることしか考えてなかったんで。まぁ血走ってましたね。うん。

qbc:
なんでそんなにはいあがろうという気持ちがあるんでしょう?

スミス:
いや、やっぱりね、それは前回、前々回もお話した通りなんですけど、常に他者との比較の中で、他者との比較、あとは自分自身の本当はこうありたい、こうしたいっていうのとかけ離れてると認識してたんですね、自分自身を。うん。
もっとこう、なんだ、地方を転々とするような子供時代じゃなくて、東京にいたかったなぁとか。まぁくだらん話ですけどね。そういうことをやりたかったのにとか。すんなりね、大学に行ってたら、自分の希望する大学に入ってたら、多分トーンダウンしてたと思うんですけど。さらに油を注ぎみたいな、ガソリンを注ぎみたいな感じだったんで。

qbc:
負けたくなかった?

スミス:
うん。やっぱり負けたくなかったはずですよね。あと勝たないと自分の存在意義、存在をアピールできないと思いこんでたんですね。

qbc:
その気持ちって、生まれた時からありましたか?

スミス:
最初の、ちっちゃいときはそれはないと思います。なんだけど、やっぱり何やっても出来が悪い、運動できない、頭だけがちょっとはマシだったんで、やって。やっぱり一番と呼ばれるところに行きたいとか、自分に究極的に自信がなかったんですね。今から思うと。
だから何かよそ様の他者の力を借りて自分を這いあがらせて、何か本当にやりたいことをやるとか、挑戦するとか、何かそういうふうになったのかもしんないですね、うん。

qbc:
いつからあったんでしょう?

スミス:
やっぱ小学校後半ぐらいからですかね。いじめに遭いましたとか。うん、それぐらいですかね、小学生ですね。

あと幼稚園から小学校にかけて、私の友達はテレビでしたから。いろんなマスメディアの情報が入ってくるじゃないですか。多分普通に外で遊んでる子よりも、多分そういうのが耳年増的になってたと思うんですよね。

qbc:
何か、イベントがあってそうなったとかあります?

スミス:
自分でもね、あんまり理解できてないんですけど。出来事がっていうよりも自分は元からそういう設定みたいな、そんな感じ。うん。

要は他人から本当はすごいちやほやされたいのに全然されずに来てるから。基本、根暗だし。人とのコミュニケーションが取れないというか、取るのが苦手。うん。気質的にそうなのだっていうのが、のちのちわかりましたけどね。

やっぱりなんか生きいそいでるというか、自分とお金だけっていうのは小学生のときから変わってないので、それが何か暴走しちゃった。暴走の一つの形だと思うんですよね。そのラベルがどうのとか。

まあね、大学受験失敗したときぐらいから、それまで本なんてほとんど読まなかったような人だったのに。もうアホみたいに読んでたわけですよ。
いろんな人生哲学とかね、自己啓発とかね、心理学の本とかね。それでね、あとスピリチュアル系もかじるようになっちゃったわけですね。人間とはどうあるべきかとかね。なんかそういう難しい本を読んでたら、ちょっと俺すごい、みたいなそんな優越感に浸るみたいなね。すごい屈折してるんですけど。うん、そういうのもあり、それがどんどん、より激化していったっていうのはあったんですね。大学院で一旦落ちついたものの、何ら変わらないんじゃないか。もっと頑張らないと、みたいな。

やっぱりすごいのはね、本当すごいよ、お前の脳みそどうなってんだよ? みたいなそういう人がゴロゴロいるわけですよ。そんないろんな人たちと一緒にいたっていうのはいい経験だったんですけど。その中で別の勝ちパターン、どうやって勝つゲームを仕掛けていくかっていうのができたのはね、良かったですけどね。

まるっとまとめて言うと、自分に自信がやっぱありませんと。だからすごい強烈な、ちょっとエキセントリックでもいいから、そういう刺激をもらって自分もそういうところに行きたいとか、そういうところに立ちたいっていうのはあったんだと思います。

当時はもうそれがね、なぜそうなのかとか、どうしてそうなっちゃったのとかっていうのはわかんない。自分はとっても普通だと思ってるけど、明らかに周りとは違っていて、浮いていて、変な人って言われるんだけど、それが理解できない。

だからもっと頑張らないと駄目なのかぁ? みたいな思考パターンしかなかったんですよ。うん。でもそれは大学院出て、会社入ってからも強くて、早く転職してどうのこうのとかね。うん。もう年収何億、年収1億みたいな、なんかそういうのが、それがかっこいいみたいな、そういう時代でしたし、うん。

qbc:
なるほど。

スミス:
それで、その一社目のときに転勤、転勤というか異動かな、異動で役所に行けって言われたんですよね、霞が関の役所に行きなさいって言われて。いわゆる官僚さんと同じ、官僚の人たちと同じ業務をやってたわけですね。
そこで当然ながら今は少しはマシなんだろうけど、やっぱり当然終わりが遅いわけです。9月から1月までってのはもうめちゃくちゃ忙しい時期で。うん。月間の残業代は200時間ぐらいの感じだったんですね。

閉塞感というか、もう外の世界に出られないみたいな、そんな世界だったんで。だけども土日を使っては外に出るようにはしてましたけどね。海外行ってたり。
そこで、実際に自分がやりたいと思ってた業務を結局やることになったんですよ。最初ね、金融に行きたい、こういう業務がやりたいって言ってた仕事を、そこでやれたんですね。
で、それが終わった後にちょっと転職して、今いる会社に移って、それが30ぐらいですかね、もうちょっといってたかな。

qbc:
なるほど。

スミス:
そこでは、国内とか海外の建設プロジェクトとか、発電所とか、そういうことにお金を付けるっていうファイナンスをやってたんです。
私の場合、日本のものが多かったんですけど、海外もやってて。で、学んでたことと実務は全然違うわけですよ。特に日本は契約の概念薄いから。なぁなぁでやるのも良しなりという世界もあるし。そもそも見栄があるからね。その会社のそのプロジェクトをやろうっつってる会社の人たちのメンツもあるから、変なことはせんだろうというようなのもあったり。

教科書で学んだのとは全く違う世界がそこにはあったんですね、教科書とは違っていて。
当時はね、楽しかったです。はっきり言って楽しかった。でももう満足しちゃったわけですよ。
あ~、満足した、じゃぁ次何しよっかなって思っちゃった。でも次どこに行こうか、何をやろうか、これ全然アイディアが出てこなかったのね。それが大体34、5ぐらいですね。

qbc:
プライベート寄りのことは?

スミス:
プライベート寄りは、そんなに友達多くはなかったけど、よくつるむ人がいたりとか。結婚しようとかっていうのはまだなかったね。うん。
ただね、今思うとね、あ、こうやって一般的な人になっていくんだっていうのに、どこか認めきれない、嫌だっていうのが、当時は意識しきれてなかったけど、心の中でうごめいているっていう感じだったのかもしれません。

qbc:
結局、何がしたかったんですかね?

スミス:
この頃は出世とか転職して出世キャリアを磨いていくっていうのはありましたけど、最終的にどうなりたいかっていうのはあんまり無かったですよね。うん。
もちろんどこそこに家を買うとか、こういう彼女がいるとか、子供は1人か2人ぐらいとか、そういうのはもちろんありましたけど、理想はね。絶対にこれを何だとかっていうのは、もうちょっとずれてた状況だったかもしれない。

むしろやっぱり仕事が忙しい時期だったもんですから、健康とかね。その頃はダイエットオタク、健康オタク、スピの本はあんまり読めてないけど、何かセミナーは受けに行ってたとかね。
やっぱり本当の自分って何なんだろうっていうのを、実は探してたんでしょうね。本当の自分は何をすれば満足なのか、それって何なんだっけ? と自分の使命は何だったんだっけ? っていうのを多分ね、知らずのうちに模索し始めたのかもしれない。

qbc:
はい。

スミス:
それにふさわしいエピソードとしては、私とにかくね、引っ越し魔だったんです。つい最近まで。1年に2回引っ越したときもあったし。
でね、そのときはまだその業務をやってた頃かな。たまたま、住む場所でもランク分けをしてたわけですよ。
そういうので青山に行ったときがあって、ちょうど。西麻布にマンション買いませんかっていう話があって。それはちょっと支払いがちょっと困っちゃってる、たくさん持ってる人がちょっとどれかを売りなさいって多分銀行に言われたんだろうね。
資産を整理しなさいって、多分お金一部返しなさいみたいなこと言われたんだと思うんですけどね。それで売りに出てたやつでちょっと急いでると。引き渡しまで、要はお金払うまでの期間はちょっと短いと。頑張れますか? みたいな。何とか頑張ってお金借りて買いますっていうことを言って。ちょっと不動産がらみの仕事もしてたので。その分ちょっと安くするからみたいな話でね。

そこがちょうど六本木ヒルズのはす向かいだったんです。高速道路を挟んで。まだ六本木ヒルズもできて間もない頃でしたから、本当に24時間の街ですと。24時間休まないんですっていう記憶があるんですけど。私自身ももう、24時間戦えますか? みたいなね、あんた、お前いつの時代だ? なんて話あるんだけど。
あそこにある外資系の某投資銀行なんて本当にそういうノリでやってるからさ。やっぱあそこに行きたいか? って言うと、うん? とか思っちゃったけど、でもそういうところにちょっと住んでみたわけですよ。

そんな広くない家でしたけどね。目の前、高速道路で窓閉めたら静かなんだけど、まぁ賑やかで。でもね、めちゃくちゃ胸騒ぎがしたんですよ。ものすごい胸騒ぎがしたの。なんか早くここを出ていかないとやばいっていう胸騒ぎがすごいするんですよ。
買って間もないのに。1年も経ってないんですよ。最初見ないように聞こえないようにしてたんですけど、ものすごい勢いで自分の内面から胸騒ぎがするんですよ、もう早くこの六本木から出ないと駄目だっていうのが。

本当に、もうそれが日に日に強くなるんで、買ったばっかだったのに売りに出したんですよ。うん。まぁ、さっさっさっと売れたんですけど。実際にまた引っ越さなきゃって、ちょっと世田谷の方に引っ込んだんですよ。引っ越して1ヶ月してリーマン・ショックだった。

あの頃、六本木なんて全然ガラガラだったからね。価格が下がるっていうよりも家賃とかも全然取れない。募集しても入らない、人が来ないっていう状態だから。そう言った意味では、そのまま我慢して持っとけばってのはもちろんあるんだけど、命拾いしたのかもしれません。

その物件、投資家さんが中身を見ずに、あそこのあのマンションね、はいはい、じゃ家賃このくらいだな。もう東京に何十室も持ってるような人だったんで、お金持ちだから。名古屋のお医者さんだったんだけど。契約は名古屋まで行きましたもん。いやぁ先生お忙しいので、先生の病院の院長室まで行かしていただきますみたいな。

休み取って行きましたもん。名古屋で何か飯でも美味しいもの食べに行こっと思って。そしたらね、部屋に「ごめんなさいね、わざわざね」とか言って、なんかすっごい鰻が出てきましたけど。まぁそれはいいとして。だからその先生にとってはね、何十室のうち一室が空こうがなんか関係ない人なんで。ま、耐えられる人のところに行ったんだなと思ってるんだけど。

その後、リーマンショックっていうのを踏まえて、なんかやっぱり田舎で暮らさなきゃ駄目だっていうふうに私思っちゃったんですよ。34ぐらいのとき。
私はなんか田舎に行かなくてはいけない。
旅をしながら週末の家、週末しか使えないかもしれないけどいいんだと。もうね、そういう意味ではもうその頃から、家探しを通じた自分探し。そしてもうちょっとある出来事からはまさにスピリチュアルのド真ん中に行っちゃうわけですね。やっと。

「あの家どうだった?」

住まいっていう変遷から言うと、田舎に行かなきゃいけないっていうので、もう毎週、2週間に1回はどこかに出かけてたと。取材というか調査をしながら、旅も兼ねてっていうのでね。やっぱ札幌、札幌、私住んでましたし、札幌好きなので札幌。札幌行くんだったら沖縄を見とかなきゃなみたいな感じで沖縄。あとは価格の面から言うと、住んでてあんまり得意じゃないけど関西。関西、神戸です。神戸とかも探しに行ったし。

あと関東であれば軽井沢とか湘南とかあの辺。軽井沢、ちょうど新幹線が前から出来てましたけれども、新幹線で通勤をしている人たちっていうのの走りだったんですね、当時。家を買ってそっから通勤しようみたいな。そういう時代の第一世代の人たちが、当時パラパラっといたんですよね。
毎日はさすがに無理だけど、がんばれば週に2、3回は行けんじゃないのみたいなそんな感じで考えた。っていうのでいろんなとこで見て、結局通えるかどうかっていうところでテレワークなんてテの字も無かった時代ですから。

ということで鎌倉の方に行ったわけですね。鎌倉にまたね、へんてこりんな家を見つけちゃって、思わず買ったというのがあって。

一戸建てなのにワンルームってどういうこと? みたいな。2階建てなんだけど1階は全部車庫、車庫と風呂場とトイレだけみたいな。2階に真ん中に台所があって、北半分が寝室で南半分がリビングみたいな。体育館みたいな。そんな広い家じゃなかったけど
建築家の作品だったんですよ。

面白い家だなと思って。でも、すんでところで別の人が買いますって言って。でもこれも不思議なご縁なんですよね。いつまでたっても広告に載ってんですよ、それが。私がお願いしていた不動産屋さんに、まだあの物件の載ってるんだけど、ちょっとまだ販売中なのか契約が残っているのか確認してもらえませんかって言ったらば、実は調整が上手くいっていないと。交渉がうまくいってなくて、売主さんと買い主さんの間で揉めてますと。うん。

で、内容はこういう内容ですと。あ~はいはいはい。要は壊れてる部分があるからそこを直してくれっていうオーダーだったんですよ。売主さんは遺産を相続した人なんで、もう1円も払いたくない。値段下げるのはいいけど、もう何か追加にお金を払って直して差し上げてお渡しするっていうのは厳しいですと。ということだったのかな。

じゃぁ私はもう値段下げてくれるなら壊れたままでOKっていうふうな感じだったから、じゃぁこの人に売りますみたいな話で、私が買うことになったんですよ。

まぁその家ではね、見えない存在の人たちが出てきたりとか、面白い経験しましたよ。
この話は、スピの話の回、セッションのときに申し上げますけど、その前、鎌倉で家を探している頃から、どうやら見えない世界とのコンタクトが強くなったかもしれません。うん。
その家でもそういう存在がやっぱ出てきましたし、だからといって何か悪いことが起きるとか、そういうのではなくて、あ、いるなって。

qbc:
それが、何歳の頃?

スミス:
35ですね、うん。35。36の前だ、35かな。36かな。6になったかぐらい。うん。
不動産屋さんもまた不思議な人と出会ってね。鎌倉では本当に不思議な面白いっていうか、東京だとなかなか出会えないような不思議な人たちっていうのがいっぱいいました。楽しかった。うん。一部まだ続いてますけどね、関係はね。

昼日中の平日何やってんの? っていうようなおじさんたちがいっぱいいますから、あの街は。私がお願いした不動産屋さんは昔、元々起業家、事業家の人だった。で、いろんな会社を作っては売り、作っては売りをしていて、当時のマザーズに上場させたこともあるような人だったと。

だけどその会社のクーデターに遭って追い出された人。っていうので、ちょっと身を隠してたような。ちょっともう世間に嫌気が差しちゃったっていうようで、鎌倉に移って、しばらく何もしてなかったんだけど、不動産やろうって不動産やり始めたっていうようなわけですね。

後々知ることになるんですが、当時の奥様との関係もあんまり良くなくて、多分寂しかったのかな。毎週ね、いろんなとこ連れて行かれましたもん、その不動産屋さんに。
頼んでもいないのにいきなり朝、家の下にいるんですよ。まさかいるのかなと。じゃ見に行こうかとか言って、お願いしてないんですけどみたいな。ひたすら車に乗せられて、家を見に行くっていうね。そういうことをやってくださいましたね。ある意味、私にとってはメンターみたいな人だったんでね。やっぱりすごい視線は厳しいですよね。見るポイントがすごい厳しい人だったんですけどね。

その前の藤沢の仮住まいからその不動産屋さんの斡旋で、鎌倉のそのへんてこりんな家を買いました。で、引っ越しました。引っ越したらさすがに家を見に行こうってのはだいぶ落ちつきましたけど。でもまぁ1週間に1回ぐらいは会っていましたからね、不動産屋さんに行ったりとか、飯食ったりとかしてましたね。

結局、その不動産屋さんとは友達みたいな感じ。私からしたらある意味、師匠なんで、カバン持ちみたいなもんだと思ってたので。なんか、行くよ!って言われたらもうノーっていう選択肢は無くて、イエスしかない。「熱海に何か面白い物件があるんだって」「熱海、僕考えたことないんですけど」「行かないの?」とか言われたから「あ、行きます」って言って一緒に行ったりとか。
物件見て、見た後にあーのこーのを議論をするんですよ、その人は。ひたすら議論するんですよ。「あの家どうだった?」「えっそこ見てんの?」「それ見てていいの?」みたいな感じでツッコミがバンバンあって。

qbc:
その方は、何歳?

スミス:
その方はちょうど今、年齢で言うと60ですね。当時は48とか、うん。50前ぐらい。お子さん当時2人いて。

qbc:
一緒にいて、どんな気持ちでした?

スミス:
いや、単純に楽しかったですよ。またなんか厳しいこと査定されてるなっていう感覚もありましたけど。楽しかったですよね。やっぱ刺激的だったし。人生もそうだし、経験もそうですね。

qbc:
人生の刺激ランキングでいうと、どこらへんに入ります?

スミス:
ええとですね。ぶっちゃけて言うと、そういう人と出会ったことが無かったんで、今まで周りにいた人にはいないタイプだっだんで。新鮮だったっていうのと、学校関係なくない? みたいな。
その人自身は大学行きてぇって言ったけど親から駄目だって言われて、何とかして3月に入試やってるところに何とか潜りこんで、行ってもう自分で会社作ってたから、あんま関係無いんじゃない? みたいな。
あぁそういう世界もあるんだみたいな。当時の私は、自分で会社を作るとか、自分で社長やるとかっていう発想がそもそもあんまりなかったんで、うん。親の家系も全部勤め人ですからね、お役人で。たどっていくと大地主だったとかね、そんな感じなんで。お勤め人の家系だったんですよね。役所、役所とか学校の先生とか。

医者もいなかったな。うん。医者いなかったな。そういう家系の人で事業家で。そのおじさんはお父さんは工務店やってましたと、田舎で工務店をしてましたと。お母さんもなんか仕事してましたと。

でもそのおじさんも若かりし頃は会社でやってたんだけど、一回つぶしてサラリーマンもやってた。海外にも赴任もしててシンガポールにもいたよ、とか言ってましたけど。うん。また会社作って上場させたけど追い出されてみたいな話とか。カレー屋さん始めたりとか。あ、そうなんですかみたいな。

誰もが知ってる飲食店のチェーン店に関わってる方だったんで。うん。え~そんな人だったんだみたいな。その人が何でこんな不動産屋さんやったんだっけ、みたいな。

だから、鎌倉にいたのは、私にとっては価値観を変える場所だったのかもしれません。それを通じて、自分は本当に何なのかっていうのを訪ねていく旅路が、その旅路が始まったみたいな感じなんですね。

当時は全く意識してないし、すごいな、わぁなりたいなっていう興味もある反面、まぁでも人様は人様だからねみたいな、ちょっと遠くから見るような自分もいましたので。
またもう一人個性的なおじさんがいて、先ほど言った不動産屋さんとは別の方で。その人はもうちょっと年が上ですね、私より一回りちょっと上ぐらい。15歳ぐらい上。昼日中から本当にぶらぶらしてるんですよ。

一応、お仕事何やってるのか、一応不動産の管理。ちょっと宅建持っとこうと。なんだけど、どう考えてもその方の不動産屋さんってのは儲かってないんですよ。何でこの人が食ってんだろうと思ったら、とある、昔はテレビ業界にいた人だったんですね。

テレビ業界にいていろいろヒット作とかを作ってて、実を言うとその人は日本のCGのパイオニアだったんですよ。テレビ番組にCGキャラクターが出てくるような番組っていうものをそもそも作ってた人で。そのキャラクターもその人が作った。そこの権利収入ってのはすごい人だったんですね。

あとは鎌倉で自分たちでメディアを作ってたんですね。ホームページとかポータルサイトとか。自費出版で食べ歩きの本とか。まだそこまでネットが普及してなかった時代だったらしいので、鎌倉では結構ちょっとした有名人のおじさんだったんですよね。

qbc:
鎌倉時代、とは?

スミス:
楽しかったですね、一言で言うと。もう一つは、未知との遭遇ですね。それは本当に、何だこの人? みたいな出会い。なんだこの人は? 初めて見るような、いわゆる未知の人との出会いってのもあったし。それをきっかけに自分自身という未知の存在に出会う旅が始まった、そんな感じ。

qbc:
霞が関時代と比べて、どうですか?

スミス:
霞が関はね、結局その当時の役人の人たち、官僚の人たちっていうのは優秀な人たちじゃないですか。だけど普通に話をしていて実はいい人たちなんです、あの人たち一人一人は。でも全体の組織になると、うん? というのはいっぱいあるんだけど。

一人一人の官僚は実に優秀だし、実にいい人たちなんですよ。サラリーマン、普通、民間企業のサラリーマンよりも全然いい人たち。でも普通に私も役人のキャリア官僚のやる仕事を普通にやってたんで、なんか俺できんじゃねぇかっていうのは実はありました。

官僚の仕事っていうのは実は向いてたんだなっていうのもわかったし。それがあったからコンサルには行く気がもうなくなっちゃったんですよ。うん。官僚の業務とコンサル、特に戦略コンサルの仕事って基本一緒なんで。うん。役人の人からね、役人の人がコンサルに行く人は多いですから。うん。

っていうのはあったけど、やっぱその後の転職をして自分のやりたい業務をやりました。そこをやったときに鎌倉っていうのがあったので、じゃ次何しよっかなっていうのを考えるきっかけになったとも言えるし。どっちがどっちなのかわかんないけど、そこからまたすごい、いばらの10年が次続くという感じなんですけどね。

終わりに

3回目のインタビューを終えたところで、もう一回、インタビューを追加することになった。
人の人生を追体験するというのは、思った以上の、難義だということが分かった。

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