父と私のスパイスカレー(2022年執筆)

キャラウェイは太古の時代から、人と人、人とモノを結びつけるおまじないに使われていたという。
父とは長らく会えなかった。さかのぼること22年前、生まれた時から離れ離れの生活は始まっていた。仕事の都合で長期出張が多く、また普段の仕事でも朝早くに家を出て夜遅くまで帰ってこなかった。中学校に上がるころには、一年の大半を台湾と中国で過ごすようになっていた。大学受験の時には、家族LINEに送られた入学式の時の記念写真を見て、「明治に行くんだ。おめでとう。」なんて言われた。それでもビザの更新のために年に5回くらいは帰ってきていたのだが、全く会えなくなった。流行病のせいである。帰ってこようと思えば帰ってこれたのかもしれない。ただ、2週間の隔離を考えると、自ずと帰ってこない選択をした。
 だから私は、ほとんど父との記憶がない。思春期の女子ってのは父親に対する反抗心が生まれて然るべきものだと思うが、そもそも全く会うことのない父に対しては、何も思うことがなかった。必要最低限の事務連絡をする以外に話すことなんかなかった。
 そんな父が今年の春、日本に帰国した。しばらくは週に一度の東京での会議をこなしつつ、静岡でテレワークをするらしい。会議のために上京する木曜日の夜は、私の家に泊まることになった。はじめは戸惑った。何を話したらよいのかわからない。気まずい沈黙。申し訳ないと思いつつも普段より早く布団に入り、寝たふりをした。父は昼前には帰るので、寝坊したフリをして顔を合わせないようにした。今更現れた父親と話すことが見つからなかった。
 転機が訪れたのは8月。空前絶後のスパイスカレーブーム。父も一緒に食べることになった。木曜の夜カレーを用意して父の帰宅を待つ。父が買ってきたお酒を飲みながら一緒にカレーを食べる。「どう?」「おいしい」。はじめはそれだけだった。相変わらず気まずい空気、それでも私は父にカレーを食べてほしいと思った。キーマカレーを食べた日、「実は俺もカレー作りたくなって、ガラムマサラ買ったんだ」と父は言った。ガラムマサラは主にシナモン、カルダモン、クローブ、コリアンダー、クミンなどをブレンドして作るスパイスだが、調合してあるものも売っている、カレーを作るうえでは欠かせないスパイスだ。「お母さんが遅番の日に作ったんだよ、モツ鍋をカレー味にしようと思ったら、ただのカレーになっちゃってさ。」そんな風に父が笑って言う。私も「それはそれでおいしいでしょ」なんて返して。「私はガラムマサラを自分でブレンドしてるよ。その方が辛さとかも調節できて便利。」「俺はそこまで本気で作ろうとしてないからね。」久しぶりの、本当に久しぶりの親子の会話だった。楽しいと思った。それからは少しずつ、父との会話も増えていった。
 実は私は自己肯定感がすごく低い。本当は自分のことがこの世の誰よりも嫌いで、自分には価値なんかないと思っている。人と話すと緊張して、つい思ってもいないことを口走ってしまうところも、嫌いだと思った相手には直接嫌いだと言ってしまうところも、文章ですら本当は自分の思っていることに嘘をついてしまうことも。全部嫌いだ。でも自分が自分のことを嫌いでいると誰にも愛してもらえない。だから、自分のことが嫌いだという感情に嘘をついて、自分のことを好きだと振る舞っている。どこまでが本当で、どこからが嘘なのかはもうわからない。ただ、いつもどこかに嫌いな自分がいて、好きだと言い張る自分がいて、時々死にたくて、時々生きていることが楽しくてしょうがない。
 私と父は顔がよく似ている。祖母曰く性格も似ているところが多いらしい。
 私が知っている父は、私の、私たち姉弟の父だ。一緒に過ごした時間は短いが、一緒に過ごした時間はいつも父親として存在していた。だから私は知らない。父が父親ではなく、一人の人として生きている時間を。父も私と同じように、悩んだり苦しんだりすることがあるのだろうか。父もかつて自らのアイデンティティに悩んだり、生きていくことに自信を無くしたりしたことがあったのだろか。父から父親という要素を取り除いた時に何が見えるのかを知りたいと思う。でも、知りたくないと思う。父には父親であってほしいのだ。
 これまでほとんど見えていなかった父の人物像が、カレーを通じて見えてきている。何が好きなのか、何を思って生きているのか、仕事ではどんなことを考えているのか。そして、私たち姉弟のことをすごくすごく気にかけていること。会えなかった時間を埋め合わせるかのように、言葉を重ねようとしていること。誤解するほど父のことを知らない。止まっていた父と私の時間が少しずつ動き出している。
 さらなるカレーの開拓のために、クミンシードによく似た形の、さわやかな香りを持つキャラウェイシードを買った。父と私の時間を彩るスパイスはもっと増えていく。もっと父のことを知りたい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?