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皮を剥いてみるとそこは真っ黒なブラック企業…結果うつ病になり、未遂までしてしまった。とある新入社員のお話。


こんにちは。

1つ目の投稿はブラック企業に勤めて1年でうつ病を発症した経歴をお話したいと思います。

今から社会人になる方、転職を考えている方、共感してくださる方、ご家族の方、参考になれば幸いです。


※同経験を経ている方にとっては当時を思い出すつらい記事になるかもしれません。つらくなったらブラウザバックをお願いします。

※うつ病の為、文章が上手く纏まっていない部分が散見されます。ご了承ください。

※企業の特定はしないでください。


1. こんな面接は危険


思えば、この時が生きていて一番頑張っていて、輝いていたのかもしれません。

私はイラストの専門学校に通っていました。しかしいざ就職となると、会社に勤めて指示通りのイラストを描く、という事に抵抗があり、イラストでご飯を食べて行こうという考えは、この時点では皆無でした。

単純に課題疲れというのもありましたが、企業に勤めて両親たちを安心させたいという気持ちもあって、気になっていた広告代理店の下請け会社にアプローチを掛けました。結果、採用して頂きました。

この時、広告代理店の下請けとはどういう社内環境なのか全く調べてもいなくて、まあ何となく残業が多いのかな?程度の知識で、ただ単純に「就職をする」というひとつだけのゴールに辿り着いた事を嬉しく思いました。家族や友達にもお祝いをしてもらって、これからは一社会人として頑張って働こう。お金を貯めたら、両親に旅行をプレゼントしようと張り切っていました。


表題の件、「危険な面接」なんて物騒な…と思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも油断していると、気付けば記事なんかでぼんやり見ていた、いわゆる「ブラック企業の一員」に自分自身がなり得るのです。当の私もそうでした。何せ当時は「就職出来た!」「親孝行出来る!」「ましてやデザイン会社なんてかっこいいじゃない!」とキラキラしていたんですから。

あの頃に戻れるなら戻りたいです。今も気を抜くと自殺の事を考えているんですから。楽しい事しか無かった学生時代に戻れるなら、どれだけ幸せなんでしょうか。

ないものねだりをしても仕方がないのは分っています。でもうつ病って、偏にそうとは言えないし人によって症状は様々だと思うんですが、過去と嫌悪にとらわれる厄介な病気なんです。予防が肝心です。治療・完治は難しいです


さて、脱線してばっかりで申し訳ないのですが、今から面接を受けに行くという方、会社説明を受けた方…こんなフレーズを耳にしませんでしたか?

うちは残業代1分単位で出します

これ、すごく魅力的なフレーズですよね。1分残業しただけで手当が出る。退勤のボタンを1分遅れて押しただけでも手当が出る。残業代未払いの所に比べるとめちゃくちゃホワイトじゃないか。そう思う方もいらっしゃると思います。私もそうでした。

でもこれ、実は「うちは残業が多い会社です」って言っているのと同じようなものなんですよね。

「そんなの知ってるよ!」「残業がない会社なんて今の社会どこにもないよ!」「残業があるのを分かってて受けるんだよ!」

ごもっともです。公務員さんですら定時で帰れる時代はもう終わっているんですから、それ相応の覚悟は必要ですよね。ましてや広告代理店の下請けなんて、広告代理店といえば残業みたいな業界です。(個人的見解ですが)


私はこの「1分単位の残業手当」というフレーズを聞いた方に、今一度就職先を再考して頂きたいと強く思います。理由は、私のようなうつ病の患者さんになって欲しくない。我に返ると目前に電車が迫っていた。なんて悲しい現実を送って欲しくないからです。


2. タイムスリップ通勤


入社したての頃は、同期や先輩と上手くやれるのだろうかと心配6割、期待4割でした。それも束の間、そこの会社は良い意味で先輩後輩という上下の概念が薄く、横の繋がりが強い、学生時代の延長線上のようなものだったので、先輩には大変可愛がってもらいました。

お酒が全く分からない私と同期を連れてオススメのバーを巡ってくれた先輩もいましたし、コンビニでお昼を済ませていた私を連れて会社の近くのごはん屋さんを御馳走してくださった先輩もいました。初給料から3か月はしんどい時期が続くから、ごはんに困ったりしたら遠慮なく頼って、と言ってくださる先輩もたくさんいました。その先輩方には今も感謝しています。

入社してデザイン編集・校正に配属された私は、3か月、4か月…と経ていく度に、先輩方は責任のあるお仕事を任せてくださるようになりました。怒られる事もありましたが、「同期の中で一番頑張っている」と上司の方にも褒めて頂けるくらい頑張っていました。責任の重い仕事を任せて頂いて、それを成し遂げた時の喜びはとても良い経験になったと思います。

しかしこの時から徐々に疲労は蓄積していっていました。でも私はそれを無視して、目の前の業務をこなしていく一心で、日々勤務をしていました。そうでないといつまで経っても帰れないですから。気付いた時には朝7時出社夜0時退勤の生活になっていました

当時は実家から出勤しており、勤務先まで2時間掛かっていたので、ほぼ始発出社・終電退勤(ダメなんですけど、駆け込み乗車の常連)でした。

周囲からも一人暮らしを勧められていましたが、家族の元から離れて生活をするという事に踏ん切りがつかず、睡眠時間が4時間になろうと、3時間になろうと、少なくなっていこうと、私は帰ると「おかえり」と言ってくれる家族の元に帰りたかったのです。そうでないと、寂しさで死んでしまうと思っていました。

しかし睡眠時間が少なくなればなるほど疲労は蓄積されていきます。人間、食事と睡眠をとっていないと本当に病気になるんだな、とこの時つくづく思いました。

タイムスリップ通勤って知ってますか?家から出ると記憶がなくなって、ハッと我に返るともう既に会社に着いて出社カードを切ってるんです。これが不思議と、足と脳は会社までのルートを覚えているので、きちんと会社にいるんですよね(笑)


3. 両手いっぱいの涙


繁忙期を迎えるにあたって、再度上司の方に一人暮らしの相談をされました。繁忙期は例年、朝出勤、翌朝退社の繰り返しになるから、電車に乗れないと仰ったんです。

絶望でした。これ以上の忙しさが襲い掛かってくるのか、と。電車に乗れないってどういう事だ、と。

そこで家族にそれを相談した所、母は「そんなに無理しなくていい」と言ってくれたのですが、怖かった私は反対を押し切り、マンスリーマンションを4か月契約しました。会社が郊内だったので、その近くに借りたという事もあり、ひと月15万払っていました。

何が怖いかというと、我に返るのが怖かったんです。仕事をしていない冷静な自分が何か言っているのは気付いていました。でもそれを見て見ぬふりをしていたのは、我に返ったら今の生活から逃げ出したくなる。母に甘えたくなる。でも私は社会人なんだから、これくらいの事は耐えなきゃ、と思っていました。

そのマンションはワンルームでした。築年数も結構古いマンションで、不動産屋さんとは一度も顔合わせをせずネットを通して、1枚の書類をメールのやり取りで即入室可。ルームキーはポストに入れてあり、受け取ると契約成立、という感じでした。マンスリーマンションの契約ってこんなもの?と思いながら、どんな部屋か内覧する余裕もなかったし、家族の元から離れるという事で、ものすごく不安でした。不安しかなかったです。

しかも借りる理由が「独り立ちしたい」というものではなく「電車で帰れないから」というぶっ飛んだものだったので、希望も何もありません。真冬だったので、部屋は隙間風でめっきり冷え込んでいて、角部屋だったので真っ暗でした。

同期と飲みに行きやすくなった!とその時は母に明るく言っていましたが、必需品を買いそろえに行った日の、母の寂しそうで心配をしている表情が今でも忘れられません。その日、母は帰りました。私はひとり部屋で号泣していました。寂しさで圧し潰されそうでした。

マンスリーを借りる時、上司の方は「仕事を理由に借りた事にしないでくれ」と仰いました。その言葉の真意は分かりません。


4. 「生きている実感」がなくなった瞬間


泣いても、悲しんでも、現実は現実のままです。繁忙期は容赦なくやってきました。

目まぐるしい日々でした。やってもやっても仕事が減らないんです。ひっきりなしに電話は鳴ります。電話の対応をしながら、時折ストレスの捌け口のようなクレームも対処しながらの業務は、1年目の不慣れな私の身体を容赦なく鞭打ってきました。

この時私は、同期の中でまあまあ仕事が出来るという理由で、責任の重い仕事、普段業務、同期のミスの修正・クレーム対応、取引先の電話の一括対応、上司の方のやり残し業務の片付け、社内イベントの管理業務、挙げるとキリがないくらい、たくさんの仕事をしていました。

片や、電話対応をしながら走って原稿を取りに行ったり、確認作業をしたりと、千手観音の如く仕事をしている私の隣で、世間話をしながらお菓子を食べて椅子でクルクルしている同期。

トラブルがあっても見て見ぬふりをして対応せず結果クレームになった電話の対応をしている私の肩を叩いて「じゃあ俺電車の時間あるし、帰るから!」とどっさり書類を机に山積みにして定時で帰る上司。

電車の時間って何だよその理屈通るなら私も帰らせてよ!という気持ちがありつつ、新人だから出来なくて当たり前なんだろうな、と悲観しつつ。上司が仰った通り、朝出勤・翌朝退勤の毎日でした。

帰宅したら母にLINEを入れます。母は心配してくれていたので「寝てるから返事は朝になるかもしれないけど、帰ったらスタンプだけでも良いからLINE頂戴ね」と言っていました。朝になるかも、なんて言いながらも、3時にLINEを入れる罪悪感がありつつ「帰ったよ~」と言うと、母は起きて電話をしてくれていました。

電話を切るといつも私は泣いていました。母の元に帰りたい、寂しさと悔しさで涙が止まりませんでした。母は決まっていつも「しんどくなったら構わず帰っておいで」「また明日朝LINEするね」と言ってくれました。本当に幸せな家族の元に生まれたんだ、と母の優しさを感じました。


朝から翌朝に帰るので、ご飯を食べる時間もなく、1日1食ゼリーのみ、という日も珍しくありませんでした。

そして休み時間を嫌いました。我に返ると涙があふれてくるからです。それに私が抜けると業務が滞り、休み時間を早めに切り上げて欲しいという旨を休憩室で言われた事もあります。同期や先輩は1時間休憩して、その中でお酒を飲んできたなんていう人もいましたけど、私には休む時間もありませんでした。

ある日、動悸と息切れで、酸欠のようになって頭がぼーっとしているのに気付きました。私は難病を患っているので、それのせいかな、と最初は思っていたのですが、毎日続くので、時折外の空気を吸いに休憩室の窓を開けてぼーっとしていました。

ふと、下を見たんです。結構な高さでした。


あれ?これって、飛び降りたら仕事から逃れられるよね?


ハッとした時には身を半分乗り出していました。

怖くなって、私は走って業務に戻りました。この時から、いや、それ以前からずっと身体はSOSを発していました。


それから、何度も未遂を起こしました。

マンスリーマンションの暗い部屋の中。休憩室の窓。思い出すだけで怖くて身体が震えます。

頭の中は「どうしたら仕事から逃れられるのだろう」という疑問から「死ねば楽になる」というアンサーのQ&Aでいっぱいでした。その後に決まって、何てダメな大人なんだろう、と自分を責める気持ちと、逃れたい気持ちでいっぱいになって、人目を気にする事もなく泣いていました。


次にハッとしたのは、駅のホームで半身を乗り出していた時でした。

その瞬間、電車がものすごいスピードで通過していきました。身を退けた私は「死ねなかった」という気持ちと一緒に、母の顔を思い出しました。

そして私がいなくなった後の現実が一気に頭の中をぶわっと駆け巡りました。賠償金、残された側、その後の生活。


なんて馬鹿な事をしてしまったんだろう。

気付けば私は会社に「すみません、もう行けません」と電話をしていました。


5. その後の生活


正直、その後はあまりよく覚えていません。

覚えているのは、辞職する時に母が連れ添ってくれた事、会社の敷地を踏みいる事が出来ない私の事を配慮して社外で手続きをしてくれた事、マンスリーマンションを引き払った時の「もう仕事しなくて良いんだ」という安堵感です。

会社の方には申し訳ない事をしてしまったと未だに悔いる事が多くあります。「自分がいなくても会社は回る」とは言えど、突然穴を開けてしまったのですから、迷惑をかけてしまったという自責の気持ちはたくさんあります。


実は私が未遂をする前、上司の方に「来年夏で辞めさせて下さい」というお話を予めしておりました。上司の方は私が辞めると業務が滞ってしまうと引き留めて下さったのですが、毎日泣くのに疲れていたんですね。「すみません」と頭を下げました。

この時「新人を教育して欲しい」と言われたのですが、入社1年目で教えられるだろうかという不安と、夏に辞めるので途中で教育係が変わったら新入社員が戸惑ってしまうという旨を相談したのですが、結局新人の教育もする事になっていました。席替えがあって、見ると隣が新入社員だったんですよね(笑)その子にも申し訳ない事をしたな、と思っています。

辞職する時、当たり前なんですが、上司の方は冷たく、事務的に手続きを進められていました。当然ですよね、突然辞めるなんてバイトじゃないんだし、段取りがあるのに。

私は強迫性の緊張で口を開く事も出来ず、字を書く事も出来なくて、涙だけを流していたのを覚えています。何年も書き慣れた自分の名前が分かんなくなるんです。何を書けば良いのか、書いている私の手に注目が集まっているのを意識してしまって、名前を書くのに5分掛かりました。

母は私の代わりにたくさん謝ってくれました。本当に申し訳なくて、不甲斐なくて、なんて親不孝な子供なんだろうと思いました。

それでも母は帰宅してから「頑張ったね」と力一杯抱き締めてくれました。幼稚園児みたいだな、なんて思いながらも、ありがとう、と号泣しました。


6. これから就職・転職を考えている皆さん、ご家族の方へ


この記事が、今一度、皆さんに次の就職先について考えて頂ける機会となる記事になっていたら幸いです。

ノンフィクションで書いたので(特定を防ぐため、時折話を多少変えたりはしています)なかなか、結構、精神にきました(笑)支離滅裂ですみません。

今でも思い出すと頭がいっぱいいっぱいになって、身体が震えます。未だに文字も人前だと書けません。物事が「当たり前」に出来なくなるのが、うつ病なんです。

今、私が闘っている難病や、うつ病の話はまた今度の機会に書きたいと思います。

ここまで読んでくださりありがとうございました。


サポートを頂きました折には、今後の活動に役立たせて頂きます。いつもありがとうございます。