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たった一つの水滴(タルコフスキー『映像のポエジア』)

学生の時も、働き始めてからも。
ほぼ毎日、鞄に薄いノートを一冊入れている。
お昼にコーヒーを飲みながらメモしたり。
読みかけの本の気になる数行を写すこともある。

そんな軽いノートのかわりに。
その日にふと思ったことや、読んだ本のなかのとくに惹かれた数行などを少しだけ写す「メモ帳」をこのnoteに作ろうかな……と思った。
ラフスケッチのような感じで。
頻繁だと続かないので、たまに。
できたらその日とった写真とともに。

タイトルは、メモの内容や引用した作品名など。
(追記:数日はタイトルに日付を入れていたのですが、ぱっと見たときにうるさいのと内容がよくわからないので、タイトルには記事の一語や作品名を入れることにしました)。

最近、X(Twitter)の、さまざまな声が錯綜する賑やかさがますます自分の性質に合わなくなってきていると感じるので、しばらくこのnoteに記事を書いていこうと思う。
通りすがりのだれかが、コーヒー一杯を飲む時間にでも気軽に覗いてくれたら……と思いながら。

 下記は、昨日1月21日(日)に書いたメモ。
 公開は今日22日(月)のお昼休みにした。

・・・・・・・・・

 今日は外出時に雨があがった。通りすがりに椿の甘い白を見て身体が少し温まった。
 深夜になってから、一年以上前に買った『映像のポエジア』(アンドレイ・タルコフスキー著/鴻 英良訳)を久しぶりにめくる。
 詩の書き手にもこの監督のファンは昔から多いし、わたしも詩を考える前によく、『鏡』を見ていた。『ノスタルジア』も初めて見たときから、いまも変わらずに好き。

 大学生か社会人になったばかりの頃だったと思うのだけれど、赤坂の草月会館で『ノスタルジア』の上映会があり、松浦寿輝さんが上映後にトークするというので出かけたことがある。
 そのトークのなかで、「この映画を見るといつも同じ場面で眠ってしまう。今回も寝てしまった。でも、この映画はそんなふうに眠りながら観るのが本当はふさわしいのかもしれない」というようなことを松浦さんは言っていた。
 あの不安になるくらいに静謐で美しい雨や水面や火の色や音。限定されたメッセージ以前の水と火……それらをまどろみのなかでただぼんやりと眺め、聞く。それが一番贅沢なまぶたと耳の開き方なんだろうな……とそれ以来、まだ思っている。
 
 この『映像のポエジア』の第四章「使命と宿命」のなかに、タルコフスキーがいつか撮りたいと考えていたという短編映画のメモの一つがある。
 そこには彼の父親で詩人のアルセーニー・アレクサンドロヴィチ・タルコフスキーの詩がまずあり、そのあとに「ショット」1から5までのメモが書かれている。
 父親の詩はこんな詩(一部引用)。    

        子供の時、病気になった
飢えと恐れのために。くちびるのかさぶたを
剥がし――くちびるをなめた。思いだす、
すこし冷たく、すこし塩辛い味を。
ぼくは歩く、いつまでも、いつまでも、
玄関先の階段に腰を降ろし、体を暖める、
歩く、ふらふらと、笛につられて、鼠捕りのあとを、
川のほうへついて行くみたいに。
(……)
              熱い、
ぼくは襟のボタンをはずし、横になる、――
そのときラッパが鳴りはじめ、光がまぶたを
打った、馬が飛び出した、母が
道路のうえに舞いあがり、手招きする、――
そして飛びさった……
          そしていまぼくは夢に見る
りんごの木のしたの白い病院を、
そして、のどのしたの白いシーツを、
(……)
母がきた、手招きをした――
そして飛びさっていった……


 そのあとに載っている「ショット」1から5までの言葉で説明された映像の動き。それを追うと、撮られていないはずの映画がすでに存在し、過去に観たような感覚になる。この「ショット」1~5の、意味を持たされる前の元素的な焚火、水たまり、白い羽毛の揺れ。そして初冬の漆喰の壁の手触りを感じ、ずっと読んでいたくなる。

 ショット1。
 「全景のロングショット。街の俯瞰図。秋、あるいは初冬。修道院の漆喰の壁のそばに立っている木へのゆるやかなズームアップ。」

 ショット3。
 「クロースアップ。焚火。だれかの手が、古いしわくちゃになった封筒を消えそうになっている炎のほうに差しだす。炎が燃えあがる。ローアングルのパノラマ。木のそばに父(詩の作者)が立っている。それから、彼は身をかがめる。焚火を掻きまわそうと思ったらしい。……」

 ショット4。
 「息子の視点から。ローアングルのカメラの動きと、道、水たまり、枯れ草のズームイン。水たまりのなかに白い羽毛が、舞いながら落ちる」
という具合……。

 この本は最初から最後までしっかりと読み込んではいない。それでも、きまぐれに開いたページにも、おや……?と目を留める数行がいつもある。
 いま、立ち止まった箇所から少しだけ引用。

芸術家は平静でなければならない。芸術家は自分の感動、自分の関心を表明したり、こうしたすべてを吐露したりする権利を持たない。対象にたいするどんな興奮もフォルムのオリンポス的穏やかさに変えられなければならない。そのときはじめて芸術家は、彼を感動させたものについて語ることができる。

第三章 刻印された時間

 

要するに、イメージとは映画監督によって表現された、なんらかの意味ではなく、水滴のなかに写しだされる世界全体なのである。たった一つの水滴のなかに!

第五章 映像について

 一つの水滴のなかに写しだされる世界……という箇所を読み、式子内親王の次の歌を思い浮かべた。「雪の玉水」。この透明なひとしずくに写るものを想像しながら、今日は眠りたい……。

山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水









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