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詩は伝達……?

 昨日21日のメモで、タルコフスキーの著書『映像のポエジア』(ちくま学芸文庫、鴻 英良訳)のなかから引用した箇所。

芸術家は平静でなければならない。芸術家は自分の感動、自分の関心を表明したり、こうしたすべてを吐露したりする権利を持たない。対象にたいするどんな興奮もフォルムのオリンポス的穏やかさに変えられなければならない。そのときはじめて芸術家は、彼を感動させたものについて語ることができる。

第三章 刻印された時間


 ここを読みながら、詩人の入沢康夫が「詩作品は、伝達の手段ではない」(「詩は表現ではない」とすら)と『詩の構造についての覚え書』で言っていたことを思ってもいた。詩は感情の吐露ではないと。

 詩の書き方や内容は人それぞれだから、何をどう書いても本人が納得すればいいとは思う。
 けれど、個人的には、作者の主義主張や感情を直接的に、単に伝えるだけのものはあまり再読しない気がする。焦燥感や書かれた理由は受け取るにしても。
 もちろんその伝達に共鳴する人もいるだろうとも想像する。
 しかし一度読めば言いたいことは情報として伝わるし、それは新聞などの記事と何が違うのだろう(記事として書いたほうがより伝わるのでは)……とも感じてしまう。
 
 メッセージの強さと詩の質や引力は比例しない。何かを強く直接的に言えば言うほど逃げてゆく、取りこぼしてしまうものもかえって多いのでは……とも。

 何よりも、一方向の主張や感情へと向かう声高な言葉に説得されることも、魅了されることも、子どもの頃からあまりない。そういう力からは少し離れていたい。

 読んでも瞬時にはわからないかもしれない。それでもその詩にふれるたびに、くり返し、耳を澄まし、目を凝らしたくなる。意味を背負わされる前の、水、火、風、花に似た生命の姿を乞うように。
 そんなささやかで移ろいやすく、どう読んでもいい言葉と言葉の関係。その「自由」の傍らにいたいと思う。








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