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わたしはわたしの言葉だけに属している(ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』)

 平日に休みをとって映画館へ。監督の31年ぶりの長編新作ということで上映前からだいぶ話題になっていた、ビクトル・エリセの『瞳をとじて』を観た。
 『ミチバチのささやき』や『エル・スール』は、多くの人たち同様、わたしも初めてスクリーンで観たときから大好きで、自宅でもDVDをたまに流す。
 新作は、かつて映画監督だった主役の男と、映画俳優だった男との過去の友情の記憶と記録と、それらの喪失と再生をめぐる物語。

 『ミツバチのささやき』の主演のアナ・トレントが、突然失踪した俳優の娘を、同じ「アナ」という名前のもとで演じていることも注目されているらしい。
 もちろんわたしも、幼い頃の面影が残るまなざしで彼女が「わたしはアナ」と、まるでデビュー作の記憶を手繰るようにつぶやくシーンや、映像全体のトーンの暗さや静けさには惹かれたものの……。
 主人公の友人でもあった俳優が失踪したために未完となったフィルムの映像が劇中劇として、そして物語の意図を匂わせ、流れを導くメタファーや暗示や救いとして使われていることがほんの少し……窮屈に感じられてしまい、上映の途中からは、距離をとって眺めていた。

 だからよけいに、過去の人間関係の記憶や喪失や老いという内容を追うよりも、画面には映らない場所でずっと流れていた波音や、室内の灯りのほの暗さや、劇中劇の舞台などの映像の「細部」を純粋に楽しんだ。
 とくに未完成のフィルム内の、「悲しみの王」と名づけられた屋敷の庭は、その温度の低い静謐を鑑賞後に思い出すだけで、数篇の詩が書けそうなくらいに好み……だった。

 この映画では、未完成のフィルムと過去と現在という複数の時間の「枠」が溶け合うように物語が進んでいたのだけれど。
 わたしも最近、詩を載せる媒体を自分で作るときの「枠」について考えていた。

 わたしは個人誌を作るとき、進めながら考えが変わったらかたちを変えたり、止めたりしてもいいと思っている。もちろんデザイナーに渡すときには、最終形の原稿や台割やレイアウト案を用意するが、そこに至るまではページ数や作品数や体裁は書きながら変えたほうが、自分の直感や心の陰翳(凹凸)に沿うものができると思う。
 あらかじめ決めた枠に作品を入れるのではなく、作品に沿った枠を作るのが一番しっくりくる。
 自分で決めたことに囚われないことが、詩作や詩誌や詩集の制作には一番大事なことだと思うから。一緒に制作する人には迷惑をかけないことはもちろん前提のうえで、だけれども、書きながらどんどん考えを変えていいと思う。
 気持ちの変化や動きが、意外に綺麗な水の流れを呼ぶこともあるから。
 
 今年は、またそんなふうに個人誌か小詩集を作る予定。
 そのあとは、テーマに沿って詩を書く企画ものの詩誌や、少人数の同人誌を作るのも素敵かな……と、ときどき想像している。

 しかし複数の書き手が参加する同人誌の場合、レイアウトや装幀はたいていは前号のものを引き継ぐだろうし、書き手ごとのページ数や作品数や作品の見せ方に関しても差がないことが多い。毎号、詩作品のみで、エッセイや論考や書評などが載らない同人誌も多い。
 そんなふうに、前回と似た「枠」のなかに、定期的に作品を書くことが、二回、三回……と続いたら。
 そこには、義務的な感情も生まれてくるのかもしれない。
 それに、詩作のペースは人それぞれだから、詩誌や同人誌にお誘いすることで、その方の詩作が乱れてしまうこともあるかもしれない。
 
 一緒に作ることがお互いの刺激や励みになり、双方向から気軽に意見やアイデアを出し合える人となら、柔らかな「枠」を実現できるかもしれないとも想像するのだけれど……。
 しばらくは、自分の心の陰翳に沿って、作品を書きためていこうと思う。

 読むたびに、言葉に対して、もしくは何かを始めることに対して、新鮮な気持ちになれる文章を最後に少し引用したい。
 ジュンパ・ラヒリの『べつの言葉で』(中嶋浩郎訳/新潮社)から。
 ベンガル人の両親を持つジュンパ・ラヒリは、ベンガル語を母語としていたが、幼少時に渡米し、生活するための言語として英語を習得する。そしてのちに第三の言語として、自ら惹かれ、選んだイタリア語を長い時間をかけて学んでゆく。

 この一冊は、作家にとっての「母」であるベンガル語でも、「継母」である英語でもなく、「恋人」のような存在のイタリア語で初めて書かれたというエッセイ集。
 ここでは、自分の出自とは何の関係もなかった真新しい言語と、一つの単語と出会うことの喜びや意義が、静かに弾むような筆致によって書かれている。新しい言語と出会うことを「人生初のほんとうの出発」と彼女は呼ぶ。
 
 言語を学び、書くことへの清々しい愛情と意欲が詰まったそんな一冊から。新しい気持ちになるために。

 子供のころから、わたしはわたしの言葉だけに属している。わたしには祖国も特定の文化もない。もし書かなかったら、言葉を使う仕事をしなかったら、地上に存在していると感じられないだろう。
 言葉とは何を意味するのだろう? そして人生とは? わたしには最終的には同じもののように思える。一つの言葉が多くの側面、陰影を持ち、きわめて複雑なものであり得るように、一人の人間、一つの人生も同じことだ。言語は鏡、重要なメタファーなのだ。結局のところ、一つの言葉の意味は、一人の人間の意味と同様、途方もなく大きく、口では言い表すことができないものなのだから。

ジュンパ・ラヒリ「壊れやすい仮小屋」(『べつの言葉で』より)

 わたしは一人ぼっちだと感じるために書く。小さな子供のころから、書くことは世間から離れ、自分自身を取り戻すための方法だった。わたしには静寂と孤独が必要なのだ。

ジュンパ・ラヒリ「足場」(『べつの言葉で』より)


 わたしもまた一篇、新しい詩を書こうと思う。静寂と、よい意味での孤独を取り戻すために。



ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉』で(中嶋浩郎訳/新潮社)

 
 
 
 



 
 →メモ:姿を消した本のこと(斎藤史の一首とともに)