大学職員と匿名の美技―匿名書評家「狐」が教えてくれること

 山村修は青山学院大学に事務職員として勤める傍ら、匿名書評家「狐」として活動し、その上質な書評で文名を馳せた人物である。大学職員の世界にはこの手の文人墨客が稀に出るが、山村はその中でも随一の者であると思う。
 その狐に「書評者に「名前」なんか要るでしょうか」(山村修『もっと、狐の書評』(ちくま文庫)所収)という文章がある。
 東京新聞に掲載された「狐氏は点が甘く、ほとんど賞めてばかりです。これなら実名でもいいではありませんか」という評に対するアンサーソングで、匿名であることについて興味深い考察を行っている。
 山村は「匿名というものに隠れ蓑としての効用を考え」る書評が陥りやすい「暗くて陰湿な穴」について述べる。

この穴のなかで書かれる書評は、けっして読者に向かって本を差し出そうというものではありません。逆に、本を閉ざそうとするものです。本を閉ざして、なにを語るのかといえば、自分のことです。自分の教養、自分の眼力のことです。
私にとって忘れられない一冊に『mister』という長嶋茂雄の写真集があります。(中略)
この写真集をながめながら、私が思ったのは、撮影したひとのことでした。これらはすべてサンケイスポーツの写真部員たちが撮った報道写真です。一枚一枚の写真には、なんという名のカメラマンが撮ったのか記されてはいません。匿名です。
かれらにとって、撮影するときに「自分のこと」など問題になりません。(中略)たとえば被写体の躍動感を訴えようとするなら、その躍動感をどうすれば最高度にとらえられるのか。かれらの技術も力も、そのために絞り込まれているはずです。

 山村は「肝心なのは、本を閉ざして自己主張することではなく、本を開いて、そこに書かれていることを伝えること」であると書き、「書評文からは評者の名前などきれいに消えて、どこを探してもみあたらないはずなのです」と結んでいる。

 さて、私はここで山村の洞察が大学職員として働く中で培われたものではないかという想像を働かせてみたい。
 多くの場合、大学職員はアノニマス(匿名的)な存在だ。大学教員のように名前を知られることもなければ、職業的貢献が個人に帰せられることも少ない。山村は大学職員と書評家を往還する生活の中でこの哲学を確固たるものにしていったに違いない。山村が故人となったいま、私の推理の当否を確かめるすべはないのだが。
 一つ確かなことは、アノニマスだからつまらない仕事かと言えば決してそうではない、ということだ。むしろ、忘我の境地に埋没して切ったシャッターにこそ真の美技が宿りうる、ということを山村は教えてくれる。


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