角に委ねられた各々の性癖
高校の頃、デザイン科に通っていた私は、年に一回の学科の行事で芸術鑑賞というのがあり、様々な美術館へ連れていかれた。
好きでもない作家の剥き出しの精神を見るということに、当時は全く興味はなかったのだが、それでも一応参加していた高校3年間の中で、いちばん記憶に残っているのが「貴婦人と一角獣」というタペストリーだった。
タペストリーというのだから絵ではなく、糸で織られた大きな布だ。
それであれほど繊細且つ大きな作品が織れるのだなというのが衝撃だったのもあり、
また一角獣が処女にしか懐かないという性質をなぜだか知っていたのもあり、
「貴婦人と一角獣」の6種のタペストリーがすごく記憶に残っていた。
最近、ギュスターヴ・モロー展に行ったのだが、そこでも一番記憶に残ったのは、
「一角獣と純潔の乙女」という作品だった。
私はなぜ一角獣に対してこうも惹かれるのか。
一角獣とは想像上の生き物であるが、にも関わらず、その性質は細かく定義付けられてある。
処女にしか懐かない。角には毒を清める力がある。角は必ずしも真っ直ぐな訳では無い。など様々だが、
どれもこれも私には男性的な妄想の産物のように思えてならないのである。
そもそも一角獣は想像上の生き物であると完全に言われているものであるが、事実として海には「イッカク」という生物がいる。
イッカクが存在する時点で一角獣にも何となく真実みがある程度出てきてしまう気がしないか。絶対に居なかったとは誰も言えないのでは無いか、という漠然とした期待を持ってしまう。
想像上といくら言われてはいても、一角獣そのものを想像の産物と割り切るかどうかさえ個人の思考に委ねられていると感じてしまうし、そんな遊びが設けられている時点でそこにエロスはどうしても語られてしまうだろう。
一角獣が実在するか否かはさておいて、一角獣という存在そのものを作ったどこかの誰か、あるいは文化に、私は性的に尊敬をするより他ない。
なぜ馬に角を生やした姿を一角獣と呼び、処女にのみ懐くなどの設定を付けなければならなかったのか?
この空想の生き物から滲み出す男性的な欲望というのは
角をやはり性的と捉えていなければ設定づけられない一角獣の性質に大いに作用している。
あくまで想像上の生物であるならば、角を持っているなどという視覚的な凶暴性がなくても良かったはずなのに。
本当は一角獣と呼称されたあれは男性から限りなく本能的な性を排除した姿なのではないだろうか。見る側の思考にその許容を100%委ねられた性なのではないか。
つまり理性的な性。
処女を選ぶのも動物としての性質だから、
角はあるけど解毒作用があって安全だから、
角の形も生き物なので個体差はあるものだから、
これは、動物であれば仕方ないという大義名分のもとに、理性的に生じた矛盾を受け入れるための言い訳では無いだろうか?
男性にとって必然的である性を、想像上に置き換えることで許容されることを望んだものなのではないか?
一角獣自身が、性的なものとして広まったかどうかについては分からない。ただの空想の生き物と捉えているだけの人も少なくはないだろう。
情報のない昔の社会で、潜在意識の中にこそあった性的な共通性。
大多数の人がもつ生理的欲求の支配下にて存在し得る一角獣。
人々は一角獣をどう捉え、育ててきたのだろう。
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