家庭教師の旅(2)〜才気煥発な不登校の生徒と教育の限界〜

 情報や価値観の多様化、人間関係、ライフスタイルの変化、そして教育システムの硬直性などが原因で近年学校に行かない小中高生が増えているようです。それに伴い不登校の学生を対象とした家庭教師のニーズも高まっています。私もこれまでに何人かの不登校生徒を教えました。今回はその体験談を通して現代日本の教育問題を考えたいと思います。
 大学院生の頃、横浜で一つの指導案件をいただきました。内容は不登校の男子学生に向けた大学受験指導で、英語・数学をメインに教えてほしいとのことでした。当時の私は不登校学生を指導したことがなく、正直案件を受けるか迷ったのですが、未知の領域に対する好奇心と、講師としての経験値を増やすためにご家庭に向かう決意をしました。
 男子学生と初対面したときの印象は、「ごく普通の真面目な学生」でした。受け答えがしっかりしており、緊張することなく私に授業の要望や志望大学について話してくれました。私は彼に不登校に至った経緯を問いませんでした。言葉を交わした瞬間から、私を縛っていた「不登校」に関するステレオタイプは一掃され、これまで指導してきた学生と何ら変わらないコミュニケーションを展開していったのです。
 彼は多才でした。音楽が好きで、曲作りに没頭しているようでした。授業の合間に、彼制作のオリジナルトラックを聴かせてもらいましたが、非常に異質なもので、独特の音色・緩急から「怒り」を感じました。不登校の話題について授業で一切触れることはありませんでしたが、音楽は勿論、時折口にする「社会」への不満から、彼が学校の枠に収まらない人間であると感じ、そこに現代日本教育の限界を見出しました。
 世の中の「常識」とされていることは、時代が進むにつれて「非常識」になります。その一つが学校だと思います。未だに「登校すること」=「正義」という認識があり、中には諸々の事情に目もくれずに不登校学生を一括して批判する人たちがいます。確かに学校に行くことで多くの学びがあることは間違いありません。しかし、明治期から戦後、そして現代に至るまで幾度となく改革を試みるも、それらは学生の現状を度外視したものであり、「社会的に健全な人間」を育成する支配システムは再生産され続けています。「不登校」という現象は、普通教育を優に達成した今も、そうした「理想の学生像」が無批判的に継承された結果起きたものであり、学校から脱落した者は「多様性」という巧言の影で「異端」として排除されるのです。
 今回は不登校の学生に対する私の指導体験を通して、現代日本の教育システムにまつわる問題に言及しました。社会を変えることは容易ではありません。しかし私の出会ったような才能溢れる学生が輝けるよう、我々教育に携わる人間は彼らと真摯に向き合い、新たな教育の回路を模索し続けなければなりません。今回の記事を書きながら強くそう思いました。


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