人それぞれということ

僕のこれまでの人生は失敗だらけだった。部活でも大成したわけでもないし、受験も失敗した。それに何かに突出したものもないし、顔も、能力も知識も何も持っていない。

でもいいのだ

誰かと比べること自体間違っている。人は人、自分は自分なのだから。

それでも人という生き物は絶対評価ではなく、相対評価で物をみる。それはもちろん自分という生き物に対しても同様なことがいえる。このせいでどれだけの人がもがき、苦しむのか、それは分からない。自分がそうだからと言って他人もそうだとは限らない。

多様性という言葉がこの世には存在している。僕はこの言葉を聞くたびに「なんてきれいな言葉なんだろうか」と感じている。まさしく十人十色の世の中であると僕は願っているし、そうであってほしい。

でも実際にはこんな言葉が世の中でまかり通るほど、美しい世界じゃない。人間の性格なんてものは社会から与えられた借り物でしかなく、社会という舞台の上で、各々が演技をしているに過ぎない。そうして劇の秩序を乱すような人間に対しては逸脱者の烙印を押し付けて、社会から追放するか、その借り物の性格を取り上げ、改変したものを押し付けていくのだ。

故に多様性なんてものは幻想に過ぎなく、綺麗事と言われるのだ。多様性を認めていくというのは、多くの人間にとっては表面上では容易いことではあるがその実はライオンと同じ家を共有することと何ら変わりのない、その個人としては恐怖に値することなのだ。

これは僕の妄想に過ぎないかもしれないが、多様性が成しえる事ではないということは想像に難くはないだろう。

例えば悩みの例を挙げたい。人によっては自分は逸脱者なのかもしれないと思う人間がいるだろう。本人からそう見えるだけで、他者からは普通の人間とみられているような人が。このことは他者から見れば「なんとふざけた悩みなのか」と思われる。「どこからどう見ても普通なのに。もしかして中二病ってやつなのか?恥ずかしい」とまで思う人間もいるだろう。

しかし当の本人は本気の悩みなのだ。それもいじめで悩んでいる者と同じくらい深刻なものであるのだ。しかし人は「それくらいの悩み誰にだってある」。とまるで、「切り傷は唾つけときゃ治る」のような返しをするのだ。中には例外もいるが。それにこういった類の悩みは人に話しずらい。なぜなら自分もまたこういった反応をされるとわかっているからだ。

しかしこれがいじめになるとどうだろう。DVならどうだろう。悩みの大きさは同じでも人々の反応は大きく変わるに違いない。一層人々は親身になって話を聞き、ともに具体的な解決策を見つけ出そうとするだろう。

何もこれがおかしいとは思わない。悩みというのはあくまで個人の物で他者には伝わらない。当事者ではない者は事の大きさ、すなわち世間で言われているような事の大きさに乗っ取って他人の悩みを値踏みする。つまり人間は当たり前ではあるが、自分の知らない世界、自分の知らない現象に対しては何も成しえる事は出来ず、なおかつ自身を特別だととらえているため、大した悩みではないというレッテルを貼るのだ。

結局のところ人間というのは、今までの経験、常識という名の社会の眼鏡をかけて、各々が正しいと思っている判断を他人に押し付けているのだ。つまり色んなものを常に社会を中心にラベリングしているということだ。

全員がこれに当てはまるとは思わないが、大半の人間はこうなのではないだろうか。だからこそ多様性という言葉は蝶の鱗粉のように美しくも儚い、幻想なのである。

だからこそ僕は言いたいのだ。人間、人それぞれだと。

それは他人にわかってほしいものではない。自分がわかっていればそれでいいということだ。

他人は変えられない。だから多様性を他人にわかってもらうことは叶わないかもしれないし、押し付けた時点でそれは多様性とはいいがたいのではないだろうか。だけど自分の思考だけは自由なもので、変幻自在なはずだ。だからこそ人それぞれだということを自分だけは理解できる。心のもっと根本を変えることは難しいが、意識することで自ずと変えていけると僕は信じている。

人間は相対評価でものをみる。でもどこかに絶対評価が存在し、自分だけの評価を持っているはずなのだ。そのものだけは社会の眼鏡ではなく裸眼で物を見えている。この裸眼で見るものを増やしていけば、きっとそれは世界がまた別の輝きを見せる。そんな風に感じる。僕もいつかそんな世界をみてみたい。

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